エピソード水無月 秘密の紫陽花寺 紫陽花のヴェリーヌのレシピ付き
梅雨の気配が街を濡らす6月。
喫茶店「樹」のキッチンからは、涼やかなガラスの擦れ合う音が響いていた。
「翔子ちゃん、これをテーブルへお願いね。シロップも忘れずに」
シャロンが差し出したのは、ガラスのグラスに閉じ込められた、息をのむほど美しいデザートだった。
一番下には、雪のように白いレアチーズムース。
その上には、まるで雨上がりの光を反射したかのような、深いブルーのクラッシュゼリーが敷き詰まれている。
仕上げに添えられた小さなミントの葉は、まるで雨に濡れる紫陽花の葉のようだった。
「わあ、綺麗……! 承知いたしました、シャロンさん!」
翔子は丁寧にヴェリーヌをトレイに乗せ、お客様のテーブルへと運んでいく。
「お待たせいたしました。『紫陽花のヴェリーヌ』でございます。……ここに、お好みでこちらのレモンシロップをどうぞ」
翔子が小さなガラスのピッチャーを添えて微笑む。
お客様が不思議そうにシロップを回しかけた瞬間、テーブルから小さな歓声が上がった。
シロップが触れた部分から、鮮やかなブルーのゼリーが、まるで魔法のように淡いパープル、そして可憐なピンクへと移り変わっていく。
「本当に紫陽花が咲いたみたい……!」
目の前で色が移り変わる不思議なゼリーは、またたく間にSNSや口コミで話題となり、雨の日にもかかわらず、喫茶店「樹」は連日、多くのお客様で賑わいを見せるのだった。
夕暮れ時、賑やかだった店内がようやく落ち着きを取り戻した頃。
片付けを終えた翔子とリサは、カウンターの端でシャロンが淹れてくれた紅茶を飲みながら、先日二人で出かけた休日の思い出話を咲かせていた。
「本当に楽しかったよね、リサ。江ノ電に揺られて鎌倉駅に降りた時から、なんだかいつもと違う特別な空気がしてた」
「ええ。御成通りをゆっくり歩くのも、とても新鮮だったわ」
二人はお互いの顔を見合わせながら、楽しそうにシャロンに語りかける。
「そういえばね、シャロンさん。御成通りを抜けて六地蔵の前を通りかかったとき、ちょっとした事件があったんです。
カラスがいたずらしたみたいで、一体のお地蔵様の赤い頭巾が、今にも落ちそうにズレていて……」
「見過ごせなくて、二人でそっと直して差し上げたの。お地蔵様、なんだか嬉しそうに見えたわ」
リサが微笑む。
その後、二人は由比ヶ浜大通りへと足を伸ばし、格式高い鎌倉彫の店に入って、職人の美しい手仕事を見学したのだという。
「事件はその後に起きたのよ」
と、リサが少し恥ずかしそうに眉を下げた。
「昭和レトロで素敵な『柴崎牛乳店』の前で写真を撮ろうとしたら、リサがカゴバッグをどこかに置き忘れたことに気づいて! 二人で青ざめて大慌てしちゃって」
「そうしたらね、作務衣を着た、丸坊主の小さな男の子が、トコトコ走ってきて……『お姉ちゃん、これ忘れてるよ』って、私のカゴバッグを差し出してくれたの」
その男の子は、さっき二人が立ち寄った鎌倉彫の店の子だと名乗った。
バッグを届けてくれたお礼を言う二人に、男の子は
「僕、いい場所いっぱい知ってるよ。案内してあげる!」
と、人懐っこい笑顔で手招きしたという。
「そこからの鎌倉は、まるで魔法の迷路みたいだったんです。
ガイドブックには絶対に載っていないような、細い路地裏の小さなお店や、素敵な景色をたくさん教えてくれて。」
「あ!あのお蕎麦!美味しかった〜」
リサがそう言うと
「そうそう!無心庵って言うお蕎麦屋さんで食べたざる蕎麦が、本当に美味しくて」
翔子もそう言った
「それにね、『坊っちゃんのお連れさんだから、お代はいりませんよ』って…」
「店にいた常連さん達も、『鎌倉を楽しんで行ってね』って言ってくれて、本当に楽しかった」
翔子もリサも嬉しそうにそう言った。
「そう言えばリサ、常連さん達もちょっと変わっていたよね…皆仲良さそうに話しているんだけど、年齢がまちまちって言うか」
「そうなの!若い人からおじいさんまで7人もいて、そのおじいさんなんて、まるで仙人みたいだし!」
「弁ちゃんて呼ばれてた女の人がとっても綺麗でね…」
と、話が尽きない二人だった。
「そして最後に……」
翔子はうっとりとした表情で目を細める。
「連れて行かれた場所が、言葉を失うほど美しいお寺だったんです。
境内の一面に、青や紫、ピンクの紫陽花が溢れるように咲き誇っていて……。」
「あのヴェリーヌを見たとき、私、その景色を思い出しちゃいました」
「素敵な男の子ね。それで、そのあとどうしたの?」
カウンター越しに顎を乗せ、興味深そうに耳を傾けていたシャロンが尋ねる。
「極楽寺の駅までその子が送ってくれたんです。そこでお礼を言って別れたんですけど……」
リサが不思議そうに首を傾げ、スマートフォンを取り出した。
「帰りの電車で、あのお寺の名前なんだっけ?ってガイドブックを開いたのに、どうしても名前が思い出せないの。
地図アプリを開いて、確かにその場所でピンを立ててブックマークしたはずなのに……見て、シャロンさん。
ピンが、一つも残っていないの」
「ええ、そうなの!」
と翔子も身を乗り出す。
「六地蔵から極楽寺の駅までの間の移動記録(ロケーション履歴)が、すっぽり消えちゃってるんです。狐につままれたみたいで……」
シャロンは差し出された翔子のスマートフォンの画面を覗き込んだ。
確かに、二人が歩いたはずのルートの一部が、不自然なほど真っ白に抜け落ちている。
シャロンは一瞬、ハッとしたように目を見開いた。
(鎌倉彫の店の子……。
お地蔵様の頭巾を直したお礼に、山の神様か、お地蔵様の化身が、二人を美しい秘密の花園へ『神隠し』してくれたのかしら……)
けれど、シャロンはそれを言葉にはしなかった。くすくすと悪戯っぽく笑うと、静かにスマートフォンを翔子に返した。
「不思議は不思議のままの方が、きっと素敵よ。……ねえ、お地蔵様?」
シャロンが窓の外の雨空に向かって優しく語りかけると、まるで応えるかのように、紫陽花の葉を揺らす雨粒が、きらりと一瞬輝いた気がした。
(おわり)
〜紫陽花のヴェリーヌのレシピ(2個分)〜
喫茶店「樹」の初夏の看板メニュー。ご自宅でも作れる再現レシピです。
【材料】
レアチーズムース(下層)
* クリームチーズ:60g
* 砂糖:15g
* プレーンヨーグルト:30g
* 生クリーム:40ml
* 粉ゼラチン:2g(大さじ1の水でふやかしておく)
* レモン汁:小さじ1/2
バタフライピーゼリー(上層・ブルー)
* バタフライピー(ハーブティー):200ml(濃いめに出す)
* 砂糖:15g
* アガー(または粉ゼラチン):4g
仕上げ・演出用
* レモンシロップ(レモン汁:大さじ1、はちみつ、またはガムシロップ:大さじ1を混ぜたもの)
ミントの葉:適量
【作り方】
1. レアチーズムースを作る
* 室温に戻したクリームチーズに砂糖を加え、泡立て器で滑らかになるまで練る。
* ヨーグルト、レモン汁、7分立てに泡立てた生クリームを順に加えて混ぜる。
* ふやかしたゼラチンを電子レンジ(500Wで10〜20秒)で溶かし、素早く混ぜ合わせる。
* グラスに均等に注ぎ、冷蔵庫で1時間以上冷やし固める。
2. バタフライピーゼリーを作る
* 鍋にバタフライピーの抽出液と砂糖、アガーを入れて混ぜ、火にかける。沸騰したら弱火で1分ほど加熱して完全に溶かす。
* 平らなバット等に流し込み、粗熱が取れたら冷蔵庫で冷やし固める。
3. 仕上げ
* 固まったバタフライピーゼリーをフォークなどでクラッシュ状(細かな角切り)にする。
* 冷やし固めたレアチーズムースの上に、ゼリーをこんもりと敷き詰める。
* 頂点にミントの葉を飾り、別添えでレモンシロップを添えて完成。
喫茶店「樹」の初夏の看板メニュー
紫陽花のヴェリーヌです。
別添えのシロップをかけていただくと、鮮やかなブルーのゼリーが、まるで魔法のように淡いパープル、そして可憐なピンクへと移り変わっていく様子をお楽しみ頂けます。
追伸
新衣装決定!
これからも喫茶店「樹」を宜しくね!
「シャロンの喫茶店」エピソード水無月 秘密の紫陽花寺 紫陽花のヴェリーヌのレシピ付き 完
あとがき
本作をお読みいただき、ありがとうございます。
6月のエピソードとして、梅雨の憂鬱さを吹き飛ばすような「喫茶店 樹」の美しい新メニューと、古都・鎌倉を舞台にした、ほんのり不思議で温かいお話をお届けしました。
作中に登場する「バタフライピー」は、アントシアニンという成分がレモンの酸性に反応することで、青から紫、ピンクへと色が変化する面白いハーブです。お地蔵様の頭巾を直してあげた翔子とリサが、迷い込んだ紫陽花の美しいお寺。スマートフォンから消えてしまった記録は、静かにお礼を伝えたかったお地蔵様からの、粋な贈り物だったのかもしれません。
日常のすぐ隣にある「少しの不思議」を、シャロンの作る美味しいスイーツと一緒に楽しんでいただけたら幸いです。雨の日はぜひ、お好みのシロップを添えて、あなただけの紫陽花を咲かせてみてくださいね。




