「シャロンの喫茶店」 番外編 雨の定休日 シャロンSide
喫茶店「樹」の窓を、雨粒が静かに叩いていた。
定休日の店内は、いつもより広く感じる。
客の気配がないだけで、こんなにも空気が違うのかと、シャロンは改めて思った。
カウンターの上には、朝から淹れたままの紅茶がまだ温かい。
雨の日は、香りがいつもより深く感じられる。
静けさの中で、紅茶の湯気がゆっくりと立ちのぼるのを眺めるのが、シャロンは嫌いではなかった。
「……今日は、誰も来ないわね」
定休日なのだから当たり前なのに、
ふと口から漏れた独り言に、自分で小さく笑ってしまう。
翔子が学校帰りにふらりと寄ってくることも、
リサが「ママが焼いたの」とクッキーを持ってくることも、今日はない。
その“ない”という事実が、
雨音のせいか、いつもより少しだけ胸に響いた。
シャロンはカウンターの奥から、
古い木箱を取り出した。
中には、
レシピを書き留めた小さなメモの束、
店の店主になった頃に買ったお気に入りの茶器、
旅先で見つけた銀のスプーン、
笑っている母の写真…
「あの頃は、紅茶の香りを立たせるのがやっとだったな…」
銀のスプーンを手に取ってみる。
指先から伝わる銀の冷たさが、かつての旅の記憶を呼び起こす。
けれど今は、その冷たささえも心地よい。
そして──
翔子が初めて来た日に忘れていった、
小さな紙のしおり。
「……懐かしいわね」
淡い水色のしおりには、
翔子の丸い字で“ありがとう”と書かれている。
あの日、緊張した面持ちで紅茶を飲んでいた少女が、今では店の空気を明るくしてくれる常連になった。
しおりをそっと戻し、
シャロンは窓際の席に腰を下ろした。
雨脚は強くなったり弱くなったり、
まるで呼吸をしているみたいだ。
「……あの子達、濡れてないといいけれど」
翔子のことを思い浮かべる。
リサと一緒に帰ると言っていた日だ。
雨が降り出したのは、ちょうど放課後の頃。
二人の姿を想像すると、
自然と口元が柔らかくなる。
「きっと、どちらかが傘を忘れてるわね」
そんな冗談を心の中で呟きながら、
シャロンは紅茶をひと口含んだ。
温かさが喉を通り、胸の奥に広がっていく。
雨の日の紅茶は、
どうしてこんなに優しいのだろう。
ふと、スマホが震えた。
翔子からのメッセージではない。
仕入れ先からの連絡だった。
「フフ…ダメね、翔子ちゃんやリサちゃんかと期待してるなんて…私の方が子供みたいじゃない」
思わず漏れた笑みとともに、シャロンは小さく深呼吸をした。
温かな空気で胸を一度満たし、優しく気持ちを切り替える。
「……明日の焼き菓子、どうしようかしら」
明日は晴れるらしい。
雨上がりの朝は、
お客さんの足取りも軽くなる。
「明日は晴れるなら、少し軽やかなメレンゲ菓子を焼こうかしら…
やっぱり、雨上がりの湿気に負けないよう、香ばしいガレットを多めに用意しましょう」
翔子も、リサも、
きっとまた店に来る。
そう思うと、
胸の奥に小さな灯りがともった。
シャロンは立ち上がり、
カウンターの奥へ戻る。
明日の仕込みを少しだけ始めよう。
雨の日の静けさは、
丁寧な仕事に向いている。
外では、雨音がまだ続いている。
けれどその音は、
どこか優しく、
まるで店を守る子守歌のようだった。
「……明日、二人の顔が見られるといいわね」
シャロンは小さく呟き、
紅茶のカップを洗い始めた。
カチン、と陶器が触れ合う小さな音が、
静かな店内に響く。
それは明日を待ち侘びる、密かな合図のようだ
雨の定休日は、
静かで、少し寂しくて、
でも確かに温かい時間だった。
「シャロンの喫茶店」シリーズ 雨の定休日 シャロンSide 完
あとがき…のようなもの
リサSide、翔子Sideに続いてシャロンSideをお届けしました。
平和な平和な、雨の日の午後でした。




