シャロンの喫茶店 番外編 雨の放課後 翔子Side
雨粒が翔子の部屋の天窓を叩いている。
雨が強く降るまでは、静かな午後だった。
学校から帰った翔子は、カバンを置くと吸い寄せられるようにベッドへ体を預けた。
今日は喫茶店「樹」の定休日。
バイトのない放課後は、今の彼女にとって何よりの贅沢だった。
「リサ、雨大丈夫だったかな…」
雨は翔子が家に入ってすぐに強く降ってきた。
さっきまで一緒に帰ってきていたリサの家は、翔子の家よりちょっと離れた先にある。
【雨、大丈夫だった?】雨に濡れてしまっただろう親友に向けてLINEを入れた。
部屋を見渡せば、壁一面の大きな本棚に、お気に入りのうさぎのぬいぐるみ。
使い込まれた学習机。
本棚の一角は、お気に入りを飾るスペースとして空けてある。
そこには
大切な一冊、小さな花瓶、ガラスの小鳥の置物、旅先で買ったしおりなどが飾られている。
自分の「好き」が詰まったこの空間が、翔子はたまらなく好きだった。
「……やっと読める」
彼女は枕元に置いてあった詩集を手に取った。
最近は演劇祭の準備やバイトのシフトが重なり、ページを捲る余裕もなかったのだ。
開いた瞬間に広がる紙の匂い。
翔子の部屋には明かり取りの天窓があって、いつもなら、柔らかい自然光が差し込み、読書にちょうどいい明るさになる。
夜は天窓から星が見えるので、翔子はよくベッドに寝転んで空を眺めているのだが…
今日はあいにくの雨。
代わりに天窓を叩く雨音をBGMに、言葉の海へと深く潜り込んでいく。
現実の時間が、ゆっくりと溶けていくような感覚だった。
ポンと、LINEの返信、リサからだ
{あの後、少し降られちゃった、お風呂から出たらまたLINEするね?}
とあった。
「やっぱり雨に濡れたのね…」
雨が強くなった事に気が付いた時には、リサはとっくに帰っていた。
仕方がないとはいえ、翔子はちょっと後悔した。
【ごめんね、カサ貸してあげれば良かった】
可愛いく謝っているスタンプと一緒に、返信を入れた。
「リサ、お風呂か…」
リサがお風呂から出てくるまで、かなり時間がある。
「翔子〜ごはん食べちゃいなさ〜い。」
「あ!はーい」
母が一階のリビングから翔子に声を掛けた。
「……あ、いけない」
翔子は、自分がまだ制服のままであることに気づいた。
彼女はクローゼットを開け、お気に入りの部屋着に着替える。
清潔な白のTシャツに、すとんとしたシルエットが綺麗な青のAラインワンピース。
身軽になると、心まで軽くなった気がした。
とんとんとん、と階段を降り一階のキッチンに向かう。
「今日は鯖の味噌煮よ〜♪」
母の得意料理だ。
「私も手伝うね」
「それじゃ、お味噌汁にお味噌を溶いてね」
翔子は母と一緒にキッチンに立って、夕飯の準備をした。
鯖の味噌煮と具沢山のお味噌汁、自家製のぬか漬けに、炊き立てのご飯
いつも通りの味は、いつも通り美味しい。
夕飯を終え、部屋に戻った翔子は、久々に読書に没頭することにした。
壁一面の大きな本棚には、小説、紅茶の本、クラシック音楽の本、歴史書、ファンタジー、詩集などジャンルは多彩だ。
読み終わった詩集を本棚に戻して、最近お気に入りになった小説を手に取った。
…
………
……………
翔子は、読書に没頭していて気が付かなかったが、いつの間にか雨音は消え、部屋の空気は澄んだ夜の気配を帯びていた。
ふっ…と、顔を上げた翔子は、窓の外を見て小さく声を上げた。
「あ、晴れてる」
窓を開けると、しっとりと濡れた夜の匂いが入り込んできた。
雨上がりの夜空には、洗われたばかりのような星たちが瞬いている。
天の川がうっすらと見えるほど、今夜の空は美しい。
ふと思い立ち、彼女は小さなガラステーブルを引き寄せた。
その上には、宝石のように色鮮やかなネイルの小瓶が並ぶ。
最近始めた、自分だけの新しい趣味だ。
「今日は……この色にしようかな」
筆先に神経を集中させる。
爪の上に薄く、丁寧に色が乗っていく。
集中している間は、日常の些細な悩みもどこかへ消えてしまう。
完成した指先をライトの下にかざすと、そこには夕暮れの空のような、絶妙なグラデーションが仕上がっていた。
「うん、上出来」
満足げに微笑んだ翔子は、スマホを取り出して写真を撮った。
送る相手は、もちろん親友のリサだ。
【見て! 今回はかなり上手くいったかも】
送信ボタンを押して数秒。
画面に「既読」がついたかと思うと、すぐに着信画面にリサの名前が躍った。
「え?リサ?」
『もしもし、翔子!? ネイル、めちゃくちゃ可愛いじゃない!』
電話の向こう、リサの声は弾んでいた。
「でしょ? 結構自信作なんだ」
『うん。夕暮れみたいで……すごく綺麗だった。翔子にすごく似合ってるよ』
「リサに言われると嬉しいなぁ」
『ほんとに綺麗だったよ。夕暮れみたいで……いつも明るいだけじゃなくて、少しだけ寂しがり屋な翔子の優しいところが出てる』
「えへへ、そうかなぁ。写真撮るのめっちゃ苦労したんだよ」
そんな他愛ないやり取りが、まるで呼吸みたいに続いていく。
『…。…………………。』
『ありがとう、ママ』
スマホの向こうから、扉が閉まる音が聞こえた
「今、お母さん来た?」
翔子がくすっと笑う。
『うん。紅茶持ってきてくれた』
「いいなぁ、リサのママ優しいよね」
『ふふ、そうかな……』
リサは母親が淹れてくれた香りの良い紅茶を一口含み、一気に話し始めた。
『ネイルいいなー! 私も今度やってほしい! そういえばね、今日学校でさ……』
今日あった小さな出来事、気になっているファッション、そして秘密の相談。
翔子もまた、スマホ越しにリサの楽しそうな声を聞きながら、ベッドの上で足をパタパタさせた。
時計の針はいつの間にか深夜を回ろうとしている。
「……ねぇリサ、眠くない?」
翔子が少しだけあくび混じりに言う。
『うん……ちょっとだけ。でも、翔子と話してると眠くならない』
「それ、嬉しいんだけど……寝不足にならないでよ?」
『翔子こそ』
二人は同時に笑った。
その笑い声が、夜の静けさに優しく響く。
窓から入ってくる風が少し冷たく感じた、さっきまで読んでいた小説が開いたままになっている。
でも二人の声だけはずっと温かかった。
深夜の空気は静かで、
翔子の部屋はダウンライトの柔らかい光と、沢山の本たち。
本棚のお気に入りを集めた一角に表紙を飾るように小説を置いた。
スマホ越しに聞こえるリサの声は、
夜空に瞬く星のようにキラキラとしていて、
まだ話し足りないと名残惜しさを含んでいた。
「……ねぇリサ、そろそろ寝たほうがいいよ」
翔子が小さく笑いながら言う。
『うん……そうだね』
リサも笑うけれど、声の端に残念さが滲んでいるように聞こえた。
今日一日。
リサが雨に濡れて帰って後悔したことも、
久しぶりに読んだ詩集も、
ネイルを褒めてもらえて胸が温かくなったことも…
全部この電話の中で溶けていった。
少しの沈黙。
言葉が途切れた瞬間、互いの呼吸だけが聞こえる。
でもそれは気まずさではなく、
二人だけが共有できる静かな余韻だった。
その静けさの中で、翔子がそっと言う。
「リサ……また明日ね」
その声は、
まるで額にそっと触れるような優しさで、
リサの胸の奥に静かに落ちていく。
『……うん。明日ね、翔子』
リサの言葉を聞いた瞬間
翔子の心にもふわりと温かい灯りがともった。
通話が切れたあとも、
リサの声の余韻が耳の奥に残っていたが、
翔子はスマホを枕元に置いて、一階に降りていった。
「長電話で、お風呂に入るのが遅くなっちゃった。」
先日も、母から小言を言われたばかりだ。
早々にお風呂を済ませ、部屋に戻った翔子は、ベッドに寝転がり天窓を見上げている…
深夜の静けさの中
窓の外は変わらず星が光っていた。
「…きれい」
翔子は星の瞬きを眺めながら、眠りに落ちていった。
特別な事件なんて何一つ起きない、けれど二人にとっては代えがたい、宝石のような放課後のひとときだった。
シャロンの喫茶店 番外編 雨の放課後 翔子Side 完
あとがき…のようなもの
「シャロンの喫茶店」シリーズ 番外編 雨の放課後 翔子Side をお届けしました。
今回は他愛のない普通の女の子の放課後を描いています。
こんな普通の毎日が、とても貴重な事なんだと、最近のニュースを見ていると、そう思わずには居られません。




