シャロンの喫茶店 番外編 雨の放課後 リサSide
「ただいまぁー」
玄関で靴を脱いだとき、制服の裾からぽたり、と水滴が落ちた。
初夏の雨は優しいようでいて、帰り道のほんの数分で髪の先までしっとり濡らしてしまう。
「はぁ、結構濡れちゃったなあ…」
リサは小さく息をつきながら、自分の部屋のドアを押し開けた。
部屋の柔らかな灯りが彼女の金髪を優しく照らす。
周囲にはフランス人の母親、サラが選んだ小物──レースのカーテン、香水瓶、花の絵、エッフェル塔の写真立て、そして小さな白猫のぬいぐるみ。
どれもリサの世界を彩る繊細な美しさで、彼女の笑顔にぴったりの空間となっていた。
ふわりと漂うのは、朝出かける前に焚いたアロマの残り香。
外の冷たい雨とは対照的に、部屋は柔らかく温かい。
リサは急いで制服を脱ぎ、部屋着に着替えた。
ベッドの端に腰を下ろすと、タオルを手に取って濡れた金髪を包み込む。
水気を吸った髪が、タオル越しにひんやりと指先に触れた。
ハンガーに掛けた制服は、雨粒が生地に染み込み、少し重たく感じる。
それでも、リサの表情はどこか落ち着いていた。
雨に濡れた帰り道の静けさが、まだ身体の中に残っているようだった。
鏡台の前に置いたスマホが、ぽん、と小さく光る。
翔子からのメッセージだ。
リサはタオルで髪を拭きながら、そちらに視線を向ける。
濡れた髪の先から、ひとしずくが床に落ちた。
タオルで髪を押さえるたび、しゅっ、しゅっ、と柔らかい布の音が部屋に響く。
制服には、まだ小さな水滴が残り、雨の匂いがほんのり漂っていた。
コンコン──
廊下の向こうから、控えめなノックが聞こえた。
「リサ、帰ってきてたのね」
母の声は、雨上がりの空気みたいに優しくて、部屋の温度が少し上がった気がした。
リサはタオルを肩にかけたまま振り向く。
「うん……ちょっと降られちゃって」
扉が少しだけ開き、サラが顔をのぞかせる。
彼女は、リサの濡れた髪と制服を見て、すぐに状況を理解したようだった。
「まあ……大丈夫? 風邪ひくわよ」
サラは部屋に入ってきて、ベッドのそばまで歩み寄る。
リサの髪先から落ちた水滴を見つけると、そっとタオルを取り上げ、娘の頭に乗せた。
「ほら、もっとちゃんと拭かないと」
タオル越しに感じる母の手は、子どもの頃から変わらない温度だった。
リサは少し照れくさそうに笑う。
「自分でできるよ、ママ」
「ええ、わかってるわ。でも……濡れて帰ってきたあなたを見ると、ついね」
サラはそう言って、娘の髪を優しく押さえた。
雨の匂いと、母の香りが混ざり合う。
「取り敢えず着替えたのね?お風呂を準備するわね、それと温かいハーブティー淹れてあげる。
今日は冷えたでしょう?」
「……ありがとう」
リサの声は、どこかほっとした響きを帯びていた。
扉を閉めて出ていく母の背中を見送りながら、
リサはタオルを握り直し、もう一度髪を拭き始めた。
雨の帰り道で冷えた心が、ゆっくりと溶けていくようだった。
翔子への返信の前に、まずは濡れた髪を乾かそう──
そう思っていたところへ、サラがそっと置いていった湯気の立つカップ。
リサはベッドの端に腰を下ろし、両手で包み込むようにカップを持ち上げた。
カモミールの優しい香りが、雨で冷えた胸の奥までゆっくり染み込んでいく。
ひと口飲むと、温かさが喉を通って広がり、肩の力がふっと抜けた。
そのとき、スマホが小さく震える。
画面には、さっきの続き──翔子からのメッセージ。
【雨、大丈夫だった?】
リサは思わず微笑んだ。
翔子らしい、心配している文面。
雨に濡れて帰ってきた疲れが、ほんの少し軽くなる。
タオルを肩にかけたままスマホを手に取り、親指でゆっくり文字を打ち始める。
{あの後、少し降られちゃった、お風呂から出たらまたLINEするね?}
送信ボタンを押すと、またカップに口をつける。
温かい香りが鼻先をくすぐり、外の雨音が遠くに感じられた。
しばらくして、すぐに返信が返ってくる。
翔子のメッセージが画面にぽん、と弾むように表示される。
リサはその文字とゴメンと謝っているスタンプを見て、また少しだけ笑った。
「翔子のせいじゃないのに。」
雨の日の帰り道で冷えた心が、ゆっくりと溶けていくようだった。
カモミールの香りがまだ指先に残る。
カップを空にした頃、扉の向こうから母の声がした。
「リサ、そろそろお風呂に入りなさい。髪が濡れたままだと本当に風邪ひくわよ」
その声音は、心配と、少しの“いつもの調子”が混ざったものだった。
リサはスマホを置き、タオルを肩にかけたまま返事をする。
「うん、今行くね」
立ち上がると、まだ湿っている髪が少し冷たく肌に触れた。
その感覚に、ああ、今日は本当に降られたんだな、と改めて思う。
浴室に入ると、湯気がふわりと立ち上り、外の冷たさを押し返すように包み込んでくる。
シャワーの音が、雨音とは違う柔らかいリズムで響いた。
温かいお湯が肩に落ちた瞬間、リサは小さく息を吐く。
身体の芯までじんわり温まっていく。
そして──
自然と、翔子のことを考え始めた。
「次、何を送ろうかな……」
どんな流れが自然だろう。
今日の帰り道の雨のことを話すのもいい。
あるいは、翔子のほうから広げてくれそうな、軽い冗談を返すのも悪くない。
湯気の中で、リサは指先で湯面をなぞりながら考える。
「翔子、今日何してたんだろ……」
そんなことを思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
お湯のせいだけじゃない。
シャワーの音に紛れながら、リサはふっと笑った。
「……{今度一緒にネイル見に行こうよ}とか、どうかな」
言葉にしてみると、思ったより自然で、思ったより嬉しい。
湯気の中で、リサの頬がほんのり赤く染まった。
お風呂から上がり、まだ頬にほんのり熱が残る。
パジャマに着替えたところで、母に「片付かないから」と催促され、パスタとサラダの夕飯を食べた。
部屋へ戻ると、ちょうどスマホが光った。
画面を開くと──
翔子からのメッセージ。
【見て!今回かなり上手くいったかも】
添付されていたのは、夕暮れの空をそのまま閉じ込めたようなネイル。
オレンジから紫へ、そして夜の青へと溶けていく絶妙なグラデーション。
指先がまるで小さな空みたいで、リサは思わず息をのんだ。
「……きれい」
自然に声が漏れる。
写真越しなのに、翔子の嬉しそうな顔まで浮かんでくる。
リサはスマホを持ち直し、返信画面を開いた。
指が「すごく可愛い」と打ちかけて──止まる。
文字じゃ足りない。
この気持ちを、ただの文章で送るのはもったいない。
それに、翔子の声が聞きたい。
あの、少し弾んだ話し方で「でしょ?」って言うのが目に浮かぶ。
リサは一度深呼吸して、まだ少し濡れている髪をタオルで押さえながら、
そっと通話ボタンを押した。
コール音が一度、二度。
胸の奥が少しだけ高鳴る。
『え?リサ?』
その声を聞いた瞬間、リサの表情がふわりとほどけた。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
さっきまで文字で済ませようとしていた言葉が、自然と口の中で形になっていく。
リサはベッドの端に腰を下ろし、少し照れたように息を整えた。
「もしもし、翔子!?」
一拍置いて、声が柔らかくなる。
「 ネイル、めちゃくちゃ可愛いじゃない!」
言葉にした瞬間、胸の奥がすっと軽くなる。
文字じゃ伝わらない温度が、声に乗って翔子へ届いていく。
電話の向こうで、翔子が小さく息をのむ気配がした。
『でしょ? 結構自信作なんだ!』
その声音が、少しだけ嬉しそうで、少しだけ照れていて、
リサの頬も自然と熱を帯びる。
「うん。夕暮れみたいで……すごく綺麗だった。翔子にすごく似合ってるよ」
言いながら、リサは自分でも驚くほど素直だった。
お風呂で温まった身体のせいか、
それとも翔子の声のせいか、
胸の奥がじんわりと満たされていく。
『リサに言われると嬉しいなぁ』
電話の向こうで翔子が照れたように笑う。
その声を聞いた瞬間、リサの胸の奥がふわっと温かくなる。
ベッドの上で膝を抱え、自然と笑みがこぼれた。
「ほんとに綺麗だったよ。夕暮れみたいで……いつも明るいだけじゃなくて、少しだけ寂しがり屋な翔子の優しいところが出てる」
『えへへ、そうかなぁ。写真撮るのめっちゃ苦労したんだよ』
そんな他愛ないやり取りが、まるで呼吸みたいに続いていく。
やがて、部屋の扉がそっと開いた。
サラが湯気の立つ紅茶をトレイに乗せて入ってくる。
「長電話? 声が楽しそうね。はい、温かいの置いとくわね」
リサは少し照れながらスマホを胸元に寄せる。
「ありがとう、ママ」
サラは微笑んで、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、夜の静けさに溶けていく。
『今、お母さん来た?』
翔子がくすっと笑う。
「うん。紅茶持ってきてくれた」
『いいなぁ、リサのママ優しいよね』
「ふふ、そうかな……」
紅茶の香りがふわりと広がり、リサはカップを両手で包み込む。
翔子の声と、温かい飲み物と、雨上がりの夜の空気が混ざり合って、
時間の流れがゆっくりになる。
「ネイルいいなー! 私も今度やってほしい! そういえばね、今日学校でさ……」
そこから話題は、ネイルの話から学校のこと、
今日見た面白い動画、次の休日の予定──
本当にどうでもいいようで、でも二人にとっては大切な話ばかり。
気づけば、時計の針は深夜を指していた。
『……ねぇリサ、眠くない?』
翔子が少しだけあくび混じりに言う。
「うん……ちょっとだけ。でも、翔子と話してると眠くならない」
『それ、嬉しいんだけど……寝不足にならないでよ?』
「翔子こそ」
二人は同時に笑った。
その笑い声が、夜の静けさに優しく響く。
窓から入ってくる風が少し冷たく感じ、カップの紅茶も冷めてしまった。
でも二人の声だけはずっと温かかった。
深夜の空気は静かで、
リサの部屋にはスタンドライトの柔らかい光と、紅茶の残り香だけが漂っていた。
スマホ越しに聞こえる翔子の声は、
雨上がりの夜みたいに落ち着いていて、
でもどこか名残惜しさを含んでいた。
『……ねぇリサ、そろそろ寝たほうがいいよ』
翔子が小さく笑いながら言う。
「うん……そうだね」
残念、と言う気持ちを悟られないように、リサも笑って答えた。
今日一日、雨に濡れて帰ってきたことも、
お風呂で考えていたことも、
翔子のネイルの写真を見て胸が温かくなったことも、
全部この電話の中で溶けていった。
少しの沈黙。
言葉が途切れた瞬間、互いの呼吸だけが聞こえる。
でもそれは気まずさではなく、
二人だけが共有できる静かな余韻だった。
その静けさの中で、翔子がそっと言う。
『リサ……また明日ね』
その声は、
まるで額にそっと触れるような優しさで、
リサの胸の奥に静かに落ちていく。
「……うん。明日ね、翔子」
言葉にした瞬間、
リサの心にふわりと温かい灯りがともった。
通話が切れたあとも、
翔子の声の余韻が耳の奥に残り続ける。
リサはスマホを胸に抱き、
ベッドに横になりながら目を閉じた。
深夜の静けさの中、
翔子の『また明日ね』が、
優しい子守歌みたいに響いていた。
部屋の中にはまだ、親友との温かな時間が流れている…
リサはスマホを抱いたまま、眠りへと落ちていった。
特別な事件なんて何一つ起きない、けれど二人にとっては代えがたい、宝石のような放課後のひとときだった。
シャロンの喫茶店 番外編 雨の放課後リサSide 完
あとがき…のようなもの
シャロンの喫茶店 番外編 雨の放課後リサSide をお届けしました。
何でもない、普通の一日が、とても大事なんだな、と最近のニュースを見ていると、強くそう思います。




