波濤を越えて (20) 別離
暗い坂道を手をつないで下った。
焦げ臭いにおいは焼け跡を離れても続いていた。道の左右の木の葉に、黒いすすがあちこちへばりついていた。
「これからどうするの、ティンラッド」
ヴィオリータがたずねた。
「今夜、出港する船がある。満潮まで時間があるから、まだ波止場にいると思う。乗せてもらえないか頼んでみよう。だめだったら、歩いてどこへでも行けばいい」
「そうかい。一応、少しは考えているんだね」
ヴィオリータは笑って、それから少年の手を離した。
「ヴィオリータお母さん、じゃない、ヴィオリータ。どうしたんだ?」
「あたしはここまでだ。館に帰るよ」
中年女は足を止め、坂道の上に目をやる。
ティンラッドは驚いた顔をした。
「一緒に来るって言ったじゃないか」
「ごめんね。あんた、子供のくせに口説き上手だから、ついその気になってしまったよ。だけど、あたしは十二のときからずっと娼婦だった。外に出たって他のことは出来ない。コレッタ姐さんみたいな才は何もないんだ。あんたの邪魔になるだけだよ、ティンラッド」
「別に、何かの役に立ってほしいわけじゃない」
少年は懇願するように言った。
「いたくない場所に無理していることはないだろう。一緒に行こう」
「ありがとうね。ティンラッド。こんな性悪のために、ありがとうね」
ヴィオリータは目に涙を浮かべた。
「だけど、あたしはやっぱり戻るよ。あそこになら、あたしの出来ることがあるんだ。チェリャもちゃんと弔ってやりたいし、あんたが助けた子供らもいる。あの子たちの母親も死んじまっただろうし、サライの子どもも生まれたばかりだしね。あたしがしっかり面倒みてやらないと」
「……それは考えていなかった」
ティンラッドはつぶやく。
「だけど、どうだろう。今からでも戻って、サライお母さんやあの子たちも連れてくれば」
「阿呆。女を口説いてすぐにまた、他の女にも手を出そうとするのかい」
ぴしゃりと言われて、少年は困った顔をする。
「駄目なのか」
「自分で答えを出せる男になりな」
ヴィオリータは肩をすくめ、涙をぬぐった。
「とにかく、あたしは行かない。行けないよ。あんたはひとりで進んでお行き」
そのまま背中を向け、坂道を登りだす。ティンラッドは追いかけることが出来なかった。
「アニタが死んだときにね」
背中を向けたまま、ヴィオリータが言った。
「コレッタ姐さんがあんたに言っただろう。館のやりかたに従わないなら出て行けって」
「うん。言われた」
考えてみると、あれが最後だったのだと思う。自分を産んでくれたのだというひとと言葉を交わしたのは。
「あたしね、何を言ってるんだろうと思ったよ。あんたが真に受けていなくなりでもしたら、楼主さまの怒りも借金も全部、姐さんに降りかかってくるのにって。だけど今、歩いているうちに思ったんだよ。姐さんは、あんたに好きに生きて欲しかったのかもなって。産んだときに背負わせてしまった重荷なんか捨てて、好きなところに飛んで行ってほしいって、そう思ってたのかもしれないなってね」
ヴィオリータは一度だけ振り返った。
「あたしは一度も、そんなことを思ったことがなかった。チェリャを市長に引き取らせて、自分が娼館の仕事から足を洗うことばっかり考えていた。あたしはねえ、一度も『お母さん』じゃなかったんだろうねえ」
寂しげに笑った。
「ヴィオリータお母さん」
「お母さんじゃないよ」
「いや。一緒に行かないなら、やっぱりお母さんだ」
ティンラッドは言った。
「チェリャは兄弟というより俺の一部みたいな感じだったよ。生まれたときから一緒で、この先もずっとそうなんだと思ってた」
「そうかい。あんたたちは本当に仲が良かったよね」
「チェリャを産んでくれて、ありがとう」
ヴィオリータはまた、後ろを向いた。
「さあ、さっさと行きな。みんなには、あんたは気がおかしくなって、海に飛び込んじまったと言っておくよ。同じようなもんだろうさ」
「そうか。そうかな」
「そうだよ」
「じゃあ、行く。ヴィオリータお母さん、さようなら」
答えはなかった。




