波濤を越えて (19) 報復
「ははっ」
後ろから笑い声がした。甲高く、かすれた、耳障りな声だった。
「争え。憎みあえ。怒れ、苦しめ、悲しめ。これが貴様らが受け取るべき報いだ。愛し合うものを引き裂いて、彼女を死に追いやったお前たちに下されるべき神の鉄槌だ! 私の苦しみを思い知れ!」
あの男だった。すすに汚れたティンラッドたちを見て、心地よさそうに哄笑していた。
「てめえ、このくそ野郎!」
ヴィオリータが叫んで、立ち上がる。
「何を笑ってやがるんだっ、あたしの息子を返せっ」
突進しようとする彼女を、ティンラッドは止めた。
「お母さん。これは俺の仕事だ」
彼女を後ろに下げ、男の正面に立ち棍棒を構える。
「俺が間違っていた。あんたはさっさと殺すべきだった。あんたがアニタを傷付けているのを見た、あの夜に」
「な、何だ偉そうに。お前たちが悪いんだ、お前たちが彼女を殺したから」
口調は居丈高だったが、ティンラッドの眼光に男はひるんだ様子を見せた。
「武器をしまえ。私はキオイ家の息子だぞ。私に何かあったら、父や祖父が何と言うか。薄汚い娼館生まれのお前など、簡単に……」
「知らない。俺の家族を何人も殺したやつの言うことに興味はない」
ティンラッドは相手の右肩に棍棒を振り下ろした。重い手ごたえと同時にうめき声が上がった。逃げようとする相手の膝を狙って関節を砕く。簡単だった。
「や、やめてくれ。殺さないでくれ」
動けなくなった男は、情けなく命乞いをする。
「アニタがやめてくれと言った時、あんたは笑っていた」
靴先で顔を蹴りつける。鼻が折れる音がした。男がうめき声をあげ、それを見たヴィオリータがけらけらと笑った。
「わ……私は……あのひとを愛していたんだ……」
流れる鼻血を押さえながら、男は反論する。
「あのひとを追い詰めて殺したのは貴様らじゃないか。私は、かたきを討っただけなんだ」
「アニタが俺たちのせいで死んだんだとしても」
ティンラッドは棍棒をしまい、代わりに懐の短刀を探った。
「あんたにそれを責められる筋合いはないぞ。愛していたんだか何だか知らないが、アニタは俺にとっても大事な妹だった」
少年が短刀を引き抜くのを見て、ヴィオリータが金切り声を上げる。
「殺しちまいな、ティンラッド! そのクズを、殺しちまいな!」
「や、やめてくれ。嫌だ、助けてくれ」
男は震えて、悲鳴を上げる。
「大勢を殺しておいてそのザマかい」
ヴィオリータはせせら笑った。
「さっさと殺っちまいな、ティンラッド。いや、待ちな。十分に苦しめてからだ。あたしの大事なチェリャが、火と煙の中でどれだけ苦しんだか思い知らせてやるんだよ。指を全部切り落として、目をくり抜いてやればいい。それから」
「やめてくれ、やめてくれ、助けてくれ!」
男が叫ぶ。
ティンラッドは、二人を見比べて少し考えた。それから、短剣を素早く動かして刃先に焼け焦げた燃えかすをつけると、それを相手の顔に向けた。
「目を閉じていろ」
「嫌だ、やめてくれ、助けてくれぇっ!」
「目を閉じていろ」
ティンラッドはもう一度言った。男はなおも抵抗したが、眼球のすぐ傍まで刃が迫ると助けを求めながらも目を閉じた。
少年は男の額に刃を突き刺した。それから円を描く形にゆっくりと皮膚を薄く切り裂いていった。まぶたを裂いた時は男が悲鳴を上げた。
煤がなくなるとまた刃にこすりつけ、皮膚の中に埋め込むように頬を裂き、あごを裂いた。反対側の頬を裂き、また額まで戻って来る。
次にその円をまっぷたつにするように額からあごの先までを縦に切り裂いた。それから最初の円の中にもうひとつ、ひと回り小さい円も刻み込んだ。少年たちがふざけて壁に描く、女の陰部を意味する印だった。
「傷口に色が入ると、腕利きの神官でも完全には消せないってお父さんたちから聞いたことがある」
顔に刻まれた落書きを眺めて、ティンラッドはゆっくりとそう言った。
「あんた、大神殿の神官になりたいらしいな。がんばってくれ」
そう言って、離れた。
「ティンラッド。殺さないのかい」
ヴィオリータが気の抜けた顔でたずねる。下品な記号を顔に刻まれた男を見て、どう反応したらいいのかわからない様子だった。
「うん。俺の気は済んだ。ヴィオリータお母さんも、十分に苦しめろと言っただろう。それなら、こうしたほうがこいつは苦しむかなと思った」
「そうかもしれないけど」
ヴィオリータはもう一度、顔を押さえて呻く男とティンラッドを見比べて、
「ちっとも似てないと思っていたけど、あんた、やっぱりコレッタ姐さんの子なんだね。姐さんが考えつきそうな意地悪い手口だよ」
とため息をついた。
「うん。コレッタお母さんならこういうことを考えそうだと俺も思った」
ティンラッドはうなずき、男の服で血を拭いてから短刀を鞘に納めた。
「じゃあ、ヴィオリータお母さん。俺は行くけれど、お母さんはどうする?」
「え?」
ヴィオリータはきょとんとする。
「自分で言っていたとおり、こいつは町の名門の一員だ。そいつにこんなことをした俺は、残っていたら罪人になるだろう」
ティンラッドは説明する。
「それも馬鹿馬鹿しいから、俺はこのまま消えようと思う。火事で死んだということにしてもらえば一番いいけれど、手配されたらそれはそれで仕方がない。俺のぶんの借金を背負わされるひとはいなくなってしまったわけだし」
少年はさびしげに焼け跡を眺め、それからヴィオリータに手を差し伸べる。
「一緒に行かないか、お母さん。娼館勤めは嫌なんだろう?」
ヴィオリータは小さく息をのんだ。そして周りを見た。
火事跡はごった返している。
遺体の捜索や怪我人の搬出、泣く子供たちの相手で誰もが忙しく、今ここで起きた一幕に誰も気付いていないようだ。
「いいのかい? あたしが、一緒に行っても」
小声でたずねると少年は、『うん』とうなずいた。
「行こう。お母さん」
「そういうのは、母親じゃなく好きな女の子に言う言葉だよ?」
ティンラッドは首をかしげた。
「そうかな。それじゃ、それでもいい」
「それでもって何だい」
「だってお母さんは、俺のお母さんじゃないんだろう。だったら俺の好きなひとってことでいい。一緒に行こう」
「馬鹿じゃないかい。こんなおばさんだよ」
「でも、俺はあなたが好きだぞ」
ヴィオリータは急にパッと顔を赤く染めた。それからおずおずと少年の手を取った。




