波濤を越えて (18) 慟哭
消火は間に合わなかった。石造りの部分を除いた、館のほとんどの部分が焼け落ちた。中で働いていた多くの女や子供が命を落とした。
助かったのは火が燃え広がる前に建物から出られたものたちと、ティンラッドに助け出された数人だけだった。
知らせを聞いて駆け付けた様楼主は、惨状を目の当たりにすると、すぐまた町に戻って行った。
「今度こそ許さないぞ、キオイの気取り屋ども。市長のやつも、余計な口をはさむならこっちにだって考えがある。ああ、考えがあるからな!」
と怒鳴り散らしながら。
コレッタのいた高楼は炎に包まれて燃え落ちた。崩れる寸前までシタールの音が聞こえていた、と外で見ていたものは言った。
老事務員のティモは事務室で煙にまかれて躯になった。周りには帳簿が散乱していた。一冊でも多く持ち出そうとして逃げ遅れたのだろうと思われた。
二人の用心棒は、火を放ったキオイ家の息子を追いかけて難を逃れた。取り逃がして戻って来たときには、もう火が燃え広がっていて、怖くなって町へ降り酒を飲んでいたそうだ。
消火を優先してくれたら。せめて町の人に早めに助けを求めてくれていたら。そう思わずにいられないが、すべては後の祭りである。
火の手が回る速さに、女たちだけでは水を持ってくるのが追いつかず、これはだめだと外に出てしまったのだと生き残った女は力なく言った。
「みんな、すぐに出てくると思ったのよ。火事だ、逃げてって叫んでいたのに、上の階の姐さんたちには聞こえなかったのかしら。気付いたときにはもう遅かったのかしら」
遺体はまだ全部見つかっていない。建物の崩れた部分の下敷きになっている者もいるだろう。誰が出かけたまま帰っていないのか、誰が焼け死んで誰がまだ息があるのか、わけがわからない状態だった。
「チェリャ。チェリャ。嘘だと言って。目を開けておくれよ、チェリャ」
ヴィオリータは黒こげの体の横にうずくまって泣きじゃくっていた。
「あんたが死んでしまったら、あたしはどうしたらいいのさ。ねえチェリャ。チェリャ」
二階と三階をつなぐ焼け落ちた梯子の下だった。近くにはほかの遺体もあった。娼婦たちを誘導して下りている途中で梯子が燃え尽きたのかもしれない。焼け残った眼鏡だけが、その真っ黒な塊がチェリャだと語っていた。
「ヴィオリータお母さん」
ティンラッドは見かねて声をかけた。
「少し落ち着いたほうがいい。ほら、町のひとが持ってきてくれた葡萄酒だ、これを飲んで今は眠ったら……」
「いらないよ」
ヴィオリータの手が鋭くティンラッドを打った。葡萄酒がこぼれ、少年はあわてて杯を持ち直す。
「お母さんなんて呼ぶんじゃないよ。あんたなんか、あたしの子じゃない。あたしの子はひとりだけだよ。あたしの子は……」
「そうか」
無駄になるよりはと、ティンラッドは半分になった葡萄酒に口を付けた。煙と煤の味がした。
「ヴィオリータお母さんは、チェリャのお母さんだったんだな」
「ああ、そうだよ」
ヴィオリータはわめいた。
「ティンラッド。どうしてチェリャを助け出してくれなかったんだい。あんなに仲が良かったじゃないか。赤ん坊のころから、兄弟同然に育ったんじゃないか。なのに、どうしてあんただけが助かって、チェリャは……。チェリャ、チェリャ……」
あふれる涙に、叫び声がのみこまれよくわからない音になっていく。
「小さい弟や妹が逃げ遅れているから、助けに行けとチェリャに言われた」
ティンラッドは静かに言った。
「チェリャなら大丈夫だと思ってしまったのは本当だ。上の階のほうが燃えかたがひどいってことまで、考えが回らなかった。チェリャは俺より賢いから、きっとみんなを助けて外で会えると思っていた」
「それで、チェリャも自分の母親も見殺しにしたんだ」
びしょびしょになった自分の顔を前掛けで拭いながら、ヴィオリータが言った。いつも明るく楽しげだった顔が、疲れて邪悪に歪んでいた。
「教えてやるよ。あんたの母親は、コレッタ姐さんだったんだよ。高楼が崩れたんだもの、あのひとも死んだね。死んだんだよ、あんたの母親は。あんたが助けに行っていたら助かったかもしれないものをさ。さぞかし恨んで死んでいったことだろうよ、文句の多い女だったものねえ」
「……そうか」
ティンラッドはまたうなずいた。考えてみたこともなかったが、そう言われてみるとしっくりくるような気もした。
「チェリャは、今の市長の胤だったんだよ」
ヴィオリータはがっくりと地面に手を着く。すすで白い指が真っ黒になった。
「いつか、あの子と一緒にあたしのことも引き取ってくれるんじゃないかってずっと期待していたんだ。奥様とのご長男が病弱だって聞いて、チェリャは賢い子だし、もしかしたら、ってずっと……。でも、これで全部おしまいだ。あたしは死ぬまで娼館で、男を取って暮らすより仕方がないんだ。ちきしょう、そんなクソみたいな人生なんて願い下げだよ! あたしもここで死んだほうがマシだったじゃないか!」
「ヴィオリータお母さん。やっぱり休んだほうがいい」
「お母さんじゃないって言ってるだろ」
ヴィオリータはまた手を振り上げたが、そう何度も叩かれるティンラッドではなかった。ひょいと避け、倒れてしまいそうになる相手の体も支えてやる。
「バカ野郎っ」
ヴィオリータはわめいた。困ったな、とティンラッドは思った。




