波濤を越えて (17) 火事
ようやく頂上にたどり着くと、館は内側から激しく燃えていた。門の前に妓女たちが水をまいていたが、火勢が強くて何の役にも立っていなかった。
「お母さんたち。何があった」
ティンラッドが駆け寄ると、ヴィオリータがすがりついてきた。
「キオイだよ。キオイの息子が押し入って来て、館中に油をまいて火をつけたんだ。助けて、ティンラッド。まだみんな中にいるんだ。小さな子たちも、コレッタ姐さんも、チェリャも。早く、早くして」
「わかった」
ティンラッドはうなずいて、ヴィオリータを押しのけた。
「エラお母さん、その水を貸してくれ」
水桶を受け取る。井戸は館の中庭だから、これは林の中の川まで行って汲んできたのだろう。
急いで持って来るうちにこぼれてしまったのか、元よりこの量だったのか。それともいくらかを消火に使ったあとなのか。どのみち大した量ではないが、対策をしないよりマシだ。ティンラッドは頭からその水をかぶった。
扉を開けると中から火が噴き出してきたが、無理やりに走り抜ける。
廊下に人が倒れていた。ここまでやって来て、力尽きてしまったらしい。
「リゼリアお母さん。しっかりしろ。コンラも」
女と子供を揺り起こす。子供は薄く目を開けたが、女は動かなかった。
「ティンラッドお兄ちゃん……」
弱々しく自分を呼ぶ子供を、ティンラッドは立たせた。気休めかもしれないと思いながら、倒れた女の首巻を取って、子供の頭から肩を覆った。
「コンラ。外はすぐそこだ。怖がらずに進め。少しくらい火傷しても仕方ない。このままここにいるより危なくない」
「でも。リゼリアお母さんは?」
「お母さんはもう少し休んでから行く」
ティンラッドはそう言って、コンラを入り口のほうに向かせた。
「いいか。外に出れば他のお母さんたちもいる。絶対に足を止めるな。急げ。走れ」
「……わかった」
コンラはうなずいた。
「ティンラッドお兄ちゃん、リゼリアお母さんをお願い。ここまで、おれを連れて一緒に走ってくれたんだ」
、よたよたと歩き出す弟を見送るティンラッドの表情は固かった。
町の火消しが来るにしても時間がかかるだろう。そして来ても、林に入らなくては水がない。火はますます広がるだろう。
リゼリアの体を少しでも炎から遠い場所に動かして、ティンラッドは先に進むことにした。逃げられなかった家族はまだいるはずだ。
「おーい。チェリャ。誰かいないか」
声をかける。館はどこもかしこも燃えていた。
火が消えたときに、残るのは石造りの壁と基礎だけだろう。そんな気がした。商売はしばらくできなくなるに違いない。
「チェリャ。どこだ、チェリャ」
煙で視界が悪く、息をすると喉が灼けた。姿勢を低くして這うようにすると、楽になった。
「……ティンラッドー」
遠くからチェリャの声が聞こえた気がした。
「僕は逃げ遅れたお母さんたちを助けに行く」
「わかった。俺も行く」
どこから声が響いているのか、耳を澄ましながらティンラッドは返事をする。ぱちぱち、ごうごうと燃える音がすごくてはっきりしないが、おそらくチェリャは上階にいるのだろうと思った。
「お前は中庭に行ってくれ」
チェリャは言った。
「さっき窓から見えた。小屋に火が燃え移りそうだ。サライお母さんと小さい子たちがまだいるはずなんだ」
「わかった」
ティンラッドは大声で言った。
「お前も急げ。火の勢いがどんどん強くなっているぞ」
「ああ。お前もなー」
返ってきた声は、先ほどより遠かった。上へ、上へと進んでいるのだろう。ティンラッドもまた、火の中に飛び込んだ。時間がない。
建物から出ると、いくらか新鮮な空気が吸えた。館は燃えているが、中庭の木々は無事だ。真ん中の井戸の周りに、生まれたばかりの赤ん坊を抱いたサライと、三人の小さな子供が集まって震えていた。
「ティンラッド兄ちゃん」
「助けて」
「怖いよ」
ティンラッドの顔を見ると、叫び声が上がる。
「他のみんなは」
ティンラッドはたずねた。少なすぎる。
「わかんない。町へ行っていた子もいるし、お母さんたちのお手伝いをしていた子もいるよ」
「そうか」
まずは目の前のものを助けるしかない。
「ティンラッド兄ちゃん、背中が燃えてる」
「そうか。熱いと思った」
服が燃えていたらしい。
井戸から水を汲んで、もう一度、頭から浴びる。子供たちにもたっぷり水をかけてやった。中庭は熱気が押し寄せて真夏のようだが、井戸水は冷たかった。
「サライお母さん。チンチャの着替えやおしめは」
「小屋の中だよ」
サライの声はか細い。一昨日、赤ん坊を産み落としたばかりなのだ。
「いつものかごの中にあるな? 俺が今、走って取ってくる。お母さんはチンチャをしっかり布でくるんで、服の中に入れてくれ。中は火がすごい」
サライはうなずいた。
すぐそばまで火が迫っていたが、まだ小屋は燃えていなかった。ティンラッドは中に飛び込み、赤ん坊のためのものが入っているかごの中のものを、手近な袋に詰め込んで大急ぎで戻る。
「よし、これからみんなで外に出るぞ。俺につかまれ」
もう一度たっぷり水をかぶって、子供たちを抱き上げ、荷物を背負った。
「館を突っ切るぞ。目をつぶっていろ」
「でも、燃えてるよ。お兄ちゃん」
子供たちが震える。
「大丈夫だ」
ティンラッドは請け合った。
「熱かったり痛かったりするかもしれないが、俺がちゃんと外へ連れ出してやる。ちょっとだけ我慢してくれ」
再び燃える館に入ろうとしたとき、上の階から美しい楽の音が響いてきた。
「コレッタお母さんだ」
子供たちが声を上げる。
「これ、わたしが好きな曲」
「お母さん、まだお部屋にいるの?」
「お兄ちゃん、コレッタお母さんも助けに行こうよ」
ティンラッドは建物を見上げ、少ししてから首を横に振った。
「どうして?」
「助けなきゃ、お母さんも燃えちゃうよ!」
「コレッタお母さんの部屋は、高いところにあるだろう」
ティンラッドはゆっくりと言った。
「あそこまではまだ、火の手が届いていない。シタールを弾いているんだ、お母さんは大丈夫だ。まずサライお母さんとお前たちを外に連れて行く。それから俺は戻って、コレッタお母さんやまだ残っている人がいたら助けに行く。だからお前ら、急いでいくぞ」
「わかった」
子供たちは真剣な顔になる。
「急いで、お兄ちゃん」
「早くしないと、お母さんが」
ティンラッドは苦笑いする。
「わかってる。じゃあちょっと急ぐから、しっかりつかまっていろよ。中に入ったら、顔を手で覆って、なるべく息は吸うな。熱くても我慢しろ」
「うん!」
幼い声がそろう。
焼け焦げだらけの自分の上着を子供たちにかぶせ、ティンラッドは走り出す。胸元に入れた赤子をしっかりと抱きしめたサライがついてくる。
上の階からはずっと、シタールの音が聞こえていた。ひとつの曲が終わるとまたひとつ、別の曲が始まった。どれも子どもたちが好きな曲だった。
神官の言う、天上の音楽のようだったと、後でティンラッドは思った。




