表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/50

波濤を越えて (17) 火事

 ようやく頂上にたどり着くと、館は内側から激しく燃えていた。門の前に妓女(おんな)たちが水をまいていたが、火勢が強くて何の役にも立っていなかった。

「お母さんたち。何があった」

 ティンラッドが駆け寄ると、ヴィオリータがすがりついてきた。


「キオイだよ。キオイの息子が押し入って来て、館中に油をまいて火をつけたんだ。助けて、ティンラッド。まだみんな中にいるんだ。小さな子たちも、コレッタ姐さんも、チェリャも。早く、早くして」


「わかった」

 ティンラッドはうなずいて、ヴィオリータを押しのけた。

「エラお母さん、その水を貸してくれ」

 水桶を受け取る。井戸は館の中庭だから、これは林の中の川まで行って汲んできたのだろう。


 急いで持って来るうちにこぼれてしまったのか、元よりこの量だったのか。それともいくらかを消火に使ったあとなのか。どのみち大した量ではないが、対策をしないよりマシだ。ティンラッドは頭からその水をかぶった。


 扉を開けると中から火が噴き出してきたが、無理やりに走り抜ける。

 廊下に人が倒れていた。ここまでやって来て、力尽きてしまったらしい。

「リゼリアお母さん。しっかりしろ。コンラも」

 女と子供を揺り起こす。子供は薄く目を開けたが、女は動かなかった。


「ティンラッドお兄ちゃん……」

 弱々しく自分を呼ぶ子供を、ティンラッドは立たせた。気休めかもしれないと思いながら、倒れた女の首巻を取って、子供の頭から肩を覆った。


「コンラ。外はすぐそこだ。怖がらずに進め。少しくらい火傷しても仕方ない。このままここにいるより危なくない」

「でも。リゼリアお母さんは?」


「お母さんはもう少し休んでから行く」

 ティンラッドはそう言って、コンラを入り口のほうに向かせた。

「いいか。外に出れば他のお母さんたちもいる。絶対に足を止めるな。急げ。走れ」


「……わかった」

 コンラはうなずいた。

「ティンラッドお兄ちゃん、リゼリアお母さんをお願い。ここまで、おれを連れて一緒に走ってくれたんだ」


、よたよたと歩き出す弟を見送るティンラッドの表情は固かった。

 町の火消しが来るにしても時間がかかるだろう。そして来ても、林に入らなくては水がない。火はますます広がるだろう。


 リゼリアの体を少しでも炎から遠い場所に動かして、ティンラッドは先に進むことにした。逃げられなかった家族はまだいるはずだ。


「おーい。チェリャ。誰かいないか」

 声をかける。館はどこもかしこも燃えていた。

 火が消えたときに、残るのは石造りの壁と基礎だけだろう。そんな気がした。商売はしばらくできなくなるに違いない。


「チェリャ。どこだ、チェリャ」

 煙で視界が悪く、息をすると喉が灼けた。姿勢を低くして這うようにすると、楽になった。


「……ティンラッドー」

 遠くからチェリャの声が聞こえた気がした。

「僕は逃げ遅れたお母さんたちを助けに行く」


「わかった。俺も行く」

 どこから声が響いているのか、耳を澄ましながらティンラッドは返事をする。ぱちぱち、ごうごうと燃える音がすごくてはっきりしないが、おそらくチェリャは上階にいるのだろうと思った。


「お前は中庭に行ってくれ」

 チェリャは言った。

「さっき窓から見えた。小屋に火が燃え移りそうだ。サライお母さんと小さい子たちがまだいるはずなんだ」


「わかった」

 ティンラッドは大声で言った。

「お前も急げ。火の勢いがどんどん強くなっているぞ」

「ああ。お前もなー」

 返ってきた声は、先ほどより遠かった。上へ、上へと進んでいるのだろう。ティンラッドもまた、火の中に飛び込んだ。時間がない。


 建物から出ると、いくらか新鮮な空気が吸えた。館は燃えているが、中庭の木々は無事だ。真ん中の井戸の周りに、生まれたばかりの赤ん坊を抱いたサライと、三人の小さな子供が集まって震えていた。


「ティンラッド兄ちゃん」

「助けて」

「怖いよ」

 ティンラッドの顔を見ると、叫び声が上がる。


「他のみんなは」

 ティンラッドはたずねた。少なすぎる。

「わかんない。町へ行っていた子もいるし、お母さんたちのお手伝いをしていた子もいるよ」

「そうか」

 まずは目の前のものを助けるしかない。


「ティンラッド兄ちゃん、背中が燃えてる」

「そうか。熱いと思った」

 服が燃えていたらしい。


 井戸から水を汲んで、もう一度、頭から浴びる。子供たちにもたっぷり水をかけてやった。中庭は熱気が押し寄せて真夏のようだが、井戸水は冷たかった。


「サライお母さん。チンチャの着替えやおしめは」

「小屋の中だよ」

 サライの声はか細い。一昨日、赤ん坊を産み落としたばかりなのだ。


「いつものかごの中にあるな? 俺が今、走って取ってくる。お母さんはチンチャをしっかり布でくるんで、服の中に入れてくれ。中は火がすごい」

 サライはうなずいた。


 すぐそばまで火が迫っていたが、まだ小屋は燃えていなかった。ティンラッドは中に飛び込み、赤ん坊のためのものが入っているかごの中のものを、手近な袋に詰め込んで大急ぎで戻る。

「よし、これからみんなで外に出るぞ。俺につかまれ」

 もう一度たっぷり水をかぶって、子供たちを抱き上げ、荷物を背負った。


「館を突っ切るぞ。目をつぶっていろ」

「でも、燃えてるよ。お兄ちゃん」

 子供たちが震える。


「大丈夫だ」

 ティンラッドは請け合った。

「熱かったり痛かったりするかもしれないが、俺がちゃんと外へ連れ出してやる。ちょっとだけ我慢してくれ」


 再び燃える館に入ろうとしたとき、上の階から美しい楽の音が響いてきた。

「コレッタお母さんだ」

 子供たちが声を上げる。


「これ、わたしが好きな曲」

「お母さん、まだお部屋にいるの?」

「お兄ちゃん、コレッタお母さんも助けに行こうよ」


 ティンラッドは建物を見上げ、少ししてから首を横に振った。

「どうして?」

「助けなきゃ、お母さんも燃えちゃうよ!」


「コレッタお母さんの部屋は、高いところにあるだろう」

 ティンラッドはゆっくりと言った。


「あそこまではまだ、火の手が届いていない。シタールを弾いているんだ、お母さんは大丈夫だ。まずサライお母さんとお前たちを外に連れて行く。それから俺は戻って、コレッタお母さんやまだ残っている人がいたら助けに行く。だからお前ら、急いでいくぞ」


「わかった」

 子供たちは真剣な顔になる。

「急いで、お兄ちゃん」

「早くしないと、お母さんが」


 ティンラッドは苦笑いする。

「わかってる。じゃあちょっと急ぐから、しっかりつかまっていろよ。中に入ったら、顔を手で覆って、なるべく息は吸うな。熱くても我慢しろ」

「うん!」

 幼い声がそろう。


 焼け焦げだらけの自分の上着を子供たちにかぶせ、ティンラッドは走り出す。胸元に入れた赤子をしっかりと抱きしめたサライがついてくる。


 上の階からはずっと、シタールの音が聞こえていた。ひとつの曲が終わるとまたひとつ、別の曲が始まった。どれも子どもたちが好きな曲だった。


 神官の言う、天上の音楽のようだったと、後でティンラッドは思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ