波濤を越えて (15) 新しい日々
帳簿係の補助になったチェリャは、年を取って細かい数字を見るのが面倒になった老ティモからたくさんの計算を押し付けられ、頭を痛めることになった。
一方で、ティンラッドの生活はあまり変わらない。
ほかの用心棒から剣術の稽古をつけてもらったり、自分で鍛錬をしたり、それに飽きたら適当に敷地や周りの巡回をする。もめごとがなければ、基本的に出番はない仕事だ。腕さえ磨いておけば良い。
苦手な勉強をしろと言われたり、気が乗らないときに歌や楽器の稽古をさせられることがなくなったので、むしろ暇になったくらいだ。だから気が向いたら今までどおり、館の雑用も引き受けている。
「ティンラッド。三階の西側の窓が開かなくなったんだけど」
「わかった、お母さん。そーれ……(すさまじい音) ああ、これはもうだめだな」
「窓の鎧戸を壊したのは誰だ! ティンラッド、またお前か」
「楼主さま。これはもう古くてだめだ。職人を呼ぼう」
「お前が馬鹿力で壊したんだろうが、少しは加減をせんか!」
……今までどおりである。
長々と続く楼主の説教を、ティンラッドは退屈な顔で聞いていた。壊れた鎧戸がぶらさがった窓の外に目を向けると、その顔が急に険しくなる。
「楼主さま。もう終わりにしてくれ、仕事が出来た」
「そんなことを言って誤魔化す気か」
楼主は怒りを露わにするが、ティンラッドは気にせずに窓に向かった。
「説教は後でまた聞きに行く、覚えていたら」
そう言ってひらりと外に飛び出した。
「さ、三階だぞ、ここは」
楼主は仰天したが、ティンラッドは石壁に絡んだ蔦を足掛かりに地面に向かって危なげなく下りてしまった。
その人物は、ひょいひょいと下りてくるティンラッドの芸当を唖然として見ていた。それから我に返って逃げようとするのを、腕を伸ばして捕まえる。
あの夜、アニタの上にまたがっていた男だった。怯えた様子で振り返るその顔をすぐさま殴り飛ばしたかったが、それは我慢した。
「あんたはここには近付かないようにと言われているはずだが」
声が恫喝的になるのまでは抑えきれなかった。アニタの死に顔が目に焼き付いている。
「楼主さまには、あんたの姿を見たら叩きのめしていいと言われている」
腰に手を伸ばす。用心棒に持たされている棍棒は、十分な重さがあり使いようによっては殺すことも出来る代物だ。本当にいざというときのために短刀も装備しているが、この相手にそれは必要ないだろうと思った。
「や、やめろ。私はキオイ家の息子だぞ。いずれ大神殿の神官となるんだ」
「どうでもいい」
ティンラッドは一蹴した。
「俺はあんたを見ると殴りたくなる。それが嫌なら、さっさと家に帰れ」
「ぶ、無礼だと思わないのか。娼館の、みなしごの分際で」
「俺はよく知らないが、神官になろうとするひとは娼館に来てはいけないんじゃないのか」
そう言うとキオイの息子はひるむ。
「ち、違う。あのひとは清らかな処女だったんだ。お前たちの企みで、彼女はここに幽閉されているだけだ。私は彼女を救い出そうとしていた。それをお前らが、お前らが、愛し合う私たちを引き裂こうと」
「何を言っているんだ」
ティンラッドは首をかしげる。だが男は自分の言葉で力を取り戻したように、逆に詰め寄ってきた。
「そうだ。私たちは愛し合っているんだ。あのひとを出せ。あのひとは私のものになるべきなんだ。父や兄はあのひとは死んだというが、そんなはずはない。私たちは結ばれなくてはならないのだから」
ティンラッドはますます首をかしげた。この男は何を言っているのだ。
「あんたの言っていることは、さっぱりわからないぞ」
正直にそう言った。
「だけど、アニタなら死んだ。あんたにこれ以上傷付けられるのを怖がって、自分で首をくくってしまった」
この男さえいなければ。そう思わずにいられない。
「嘘だ」
男は目を見開いてあえぐように言った。
「嘘だ、嘘だ。あのひとが死ぬなんて、私を置いていくなんてあり得ない。お前たちはみんなグルだ。私と彼女を引き裂こうとして、そんな嘘をつくんだ」
天を仰いで叫ぶ。その姿は本当に苦しんでいるように見えた。
「信じないのは勝手だ」
ティンラッドは肩をすくめた。この男の相手をしているのが嫌になってきていた。
「嘘だったら良かったんだが。だけど、あんた」
ひとつだけ教えてもらいたかった。
「アニタが死んで悲しむのなら、どうして生きているときにあんなひどいことをしたんだ。あんたのところに行くくらいなら死んだほうがマシだとアニタは思ったんだ。どうして優しくしてやらなかった」
「私だって、あんなことはしたくなかった!」
男は叫んだ。
「だが、仕方ないじゃないか。お前たちがあの人をこの汚れた場所に閉じ込めてしまったんだ。私のものに、私だけのものにするためにはああやって……。ほかの男に差し出されないようにしなくてはならなくて……。私のものだと誰が見てもわかるようにしなくては……」
今度は抑えられなかった。あの夜と同じように、ティンラッドは男を思い切り殴り飛ばしてしまった。
「俺が馬鹿だった。聞かなければ良かった」
気分が悪くなった。殴りつけたこぶしが痛むのさえ厭わしい。
「アニタはお前のものじゃない。死ぬまで一度も、お前のものじゃなかった。二度とここに来るな。今度見かけたら、たぶん殺してしまう」
棍棒で軽く尻を叩くと、罵り声を上げながら男は走り去っていった。
ティンラッドはため息をつき、うがいでもして来ようと思った。




