波濤を越えて (14) 決意
「楼主さまはね、アニタをキオイ家に売りつけようとしていたらしい」
二人きりになると、チェリャはそう言った。
「アニタは色白で器量よしで、楽器も歌もよく出来て、きっと人気になるってみんな思ってただろう。楼主さまも期待してた。でも、あの事件で台無しになった。傷がたくさん残ったら、もう金持ちの客の相手はさせられない。安売りするんじゃ、大した利益にならない。……だからさ。売ったほうがいいって思うようになったのさ」
「よくわからない」
ティンラッドは眉根を寄せた。
「楼主さまは、キオイ家に腹を立てていたんじゃないのか。オルムスお父さんもそう言っていたぞ」
「まだオルムスさんを『お父さん』って呼んでるのか。やめろって言っただろ」
いつもどおりにツッコんでから、チェリャの声はまた陰りを帯びる。
「嫌がらせは交渉のためだったんだよ。それをやめてほしかったらアニタを高く引き取れって、ふっかけていたんだってさ。今までアニタを食べさせるのにかかった分、これからアニタが稼ぐはずだった分、それを全部払えって。代わりにアニタはくれてやるって、そういう話をしていたんだって」
「意味がわからないぞ。アニタにあんな乱暴をしたやつのところに行かせたら、次は何をされるかわからないじゃないか」
ティンラッドはますます首をかしげる。
「だからさ。アニタはひどく怯えていたんだよ」
チェリャは辛抱強く説明する。
「とても怖がって、やめてください助けてくださいって泣いて楼主さまに頼んだんだって。でも、楼主さまは聞いて下さらなかった。……だから、さ」
「だからなのか」
ティンラッドは呆然と繰り返す。
「だから、アニタは死んだのか?」
チェリャは答えなかった。ティンラッドもしばらく黙り込む。チェリャの言葉が胸のうちに落ちるまで、時間がかかった。
「……そういうことなのか」
「うん。たぶんね」
「そんなことを、コレッタお母さんは呑み込めって言うのか」
彼の呻き声に、今度はチェリャが首をかしげる。
ティンラッドはあまり話すのは得意ではなかったが、遺骸の傍で起きたことを時間をかけて少しずつ語った。
黙って最後まで聞いたチェリャは、
「そうか」
と憂鬱そうに言った。
「コレッタお母さんだって、わかっているはずなのにね」
変声期を迎えていない高い声が、いっそう暗くなる。
「僕たちはここから出ていかない。行けないんだ」
出産を許し、養育の面倒を看る代わりに子供が育つまでの費用は全て『借金』として加算される。成長した子は女なら店に出て、男なら店の雑用を受け持って自分の借財を返しきるまでは館で働く。
そしてもし、完済される前に子供が死んでしまったり、逃げたりしてしまったら、負債は母親のものになる。そういう契約で、母たちは子を産み、ここで育ててきたのだ。
その決まりは幼いころからそれとなく言い聞かされており、ティンラッドもチェリャもわかっているつもりだった。だがアニタと、その実母であったミシャの運命を実際に目の当たりにすると、その契約が今までよりもずっと重いものに感じられる。
ティンラッドは、自分を産んだ母親が誰なのか知らない。チェリャの母が誰なのかもしれない。
最近生まれた、幼い弟妹たちの母はわかる。出産するとしばらくの間、産婦は子供たちと居を共にするからだ。
けれど、それを彼は出来るだけ忘れようとしてきた。
館の妓女は、みんな『お母さん』。子供たちはみな『館の子』で、『きょうだい』だ。それを信じ続けるためには、特定の子と特定の母の結びつきなんて知らないほうがいい。
「もし僕が逃げたら、お母さんたちの誰かが…… 『本当のお母さん』がひとりで借金を背負うことになる。ミシャお母さんみたいに」
チェリャがつぶやくように言う。
「そんなこと、出来ないよ」
ティンラッドもうなずいた。『母たち』はみな、自分の借金だけでいっぱいいっぱいなはずだ。いなくなった子供の分まで背負わされたら、死ぬまで働いても返しきれないだろう。
『実の母』が誰だったとしても、そんな目にあってほしくはないと彼も思った。
この場所は、彼らにとって『家』だった。
町の子たちには馬鹿にされ仲間外れにされても、戻れば優しい母たちときょうだいの笑顔があった。楼主や客に辛く当たられることがあっても、皆の顔を見れば元気を取り戻せた。
それが夢だとわかるようになって、目に見える景色が変わったとしても、育まれた絆は変わらない。
「僕さ。神殿に行って魔力の扱いかたを教わるの、やめようと思う」
チェリャは言った。
「ティモさんも年だし、帳簿のことを早めに教わったほうがいいって前から思っていたんだ」
それがわかっていても、役に立つことがひとつでも多ければと、町の子たちに殴られてもバカにされてもチェリャは神殿に通っていたのだけれど。
「そうだな」
それでも、ティンラッドはうなずく。
「俺も、雑用ばかりしているより、ちゃんとした用心棒になりたかった」
チェリャの講習が終わるまではと、二人はなんとなく子ども扱いのままにされていた。半年後に生まれたアニタが店に出て、ひと足先に『大人』になっても。
「アニタの分も、僕たちが守らなきゃ。弟たちや妹たち……。それにお母さんたちも」
「ああ」
チェリャの言葉に、ティンラッドは同意した。
十三歳とは、裕福な家の子女ならまだ『子ども』と呼ばれる年なのだと二人は知らない。世界は二人にそれほど優しくない。
午後の湿った海風が、ねっとりと絡みつくように吹き過ぎていく。
「楼主さまのところに行くか」
ティンラッドが言うと、チェリャもうなずいた。
仕事をしたいと申し出れば楼主は『遅すぎたくらいだ』と言うだろう。
彼らが大人になるのを止めるものは、誰もいないのだ。




