波濤を越えて (13) 挽歌
アニタの遺体は女たちが着替えさせ、寝台に横たえた。排泄物で汚れた下半身は清められていたが、開いた口から突き出した黒い舌をうまくおさめることは出来なかった。
「目も閉じてやれないし、もう、どうしたらいいんだろうね」
ヴィオリータがため息をつき、開いたままのまぶたを閉じようとしたり、舌を口の奥に押し込もうとしたりとするが、努力は報われなかった。
「アニタ。あんたはいつも器量よしだったろう。そんな顔をしてちゃ、美人が台無しだよ」
声をかけても死者は応えない。苦悶のまま固まった顔を見ると責められている気がして、誰もが目を背けるのだった。
「行っていいわよ。ティンラッド」
遺体を同僚に任せ、シタールを手にして窓際に座りながらコレッタが言った。
「あんたに出来ることは終わったから」
「お母さんたち。教えてくれ。何でこんなことになったんだ」
ティンラッドは低い声でたずねる。
「アニタは、命が助かって良かったって言ってたじゃないか。傷は痛いけど、娼館で働くならこれくらいのことは我慢しなくちゃって笑ってた。なのに、どうして」
「ティンラッド」
困った顔で言いかけたヴィオリータの言葉を、
「行けって言ったでしょ」
窓の外に顔を向けたまま、コレッタが遮った。
「あなたももう子供じゃないんだから、いつまでも女の部屋にいるものじゃないわ。小屋にでも戻ったら」
「だけど、アニタは」
ティンラッドが食い下がろうとすると、コレッタが振り返った。紫の瞳が怒りに燃えていた。
「いいかげんにしてくれない。こういうことは、ときどき起こるのよ。あなたたちにはわざわざ教えないできただけ。アニタは店に出た。つまり、もう子供じゃないってこと。それだけよ」
冷たい声と視線が、『お前はいつまで子供のつもりでいるのだ』と彼を詰問している。
「これからもここで生きるつもりなら、こういうことも呑み込みなさい。それが出来ないのなら、いっそ出て行くか何かして、いなくなってくれないかしら。バカを見ているとイライラするのよ」
「……けど」
あたり散らすように言われて、ティンラッドは唇を噛んだ。悔しいが、渦巻いている感情を彼はうまく言葉にすることが出来なかった。
コレッタはそれ以上相手にせず、シタールをつま弾き始める。
ヴィオリータが取りなすように言った。
「ね、ティンラッド。何があったにしても、もう終わってしまったんだよ。アニタは生き返らない。だったらあたしたちは、きちんと送り出してやるくらいのことしか出来ないじゃないか」
ティンラッドは黙ってその部屋を出た。不機嫌な気持ちをぶつけるように、わざと大きな音を出して狭い階段を下りた。
館の妓女には、町の人間のような立派な葬式は行われない。神殿の墓地すら使わせてもらえない。死んだ女は、罪人が埋められるのと同じ町はずれの荒れ地に葬られる。墓石も花束もなく、聖句すらない。神官見習いということになっている神殿の下働きがやってきて、聖水を二、三滴ふりまくだけだ。
小さいころはそういうものだと思っていた。だが、アニタがそうなるのだと思うととても悲しい気がした。
楼主がいつも金の計算をする部屋の前を通ると、中から女のすすり泣きがした。
「そんな、楼主さま。あたしは、腹を痛めて産んだ娘をあんな風に失ったばかりなんですよ」
「黙れ。その娘を、今まで誰が養ってやったと思っているんだ。娘が死んじまったんだから、あいつの分の借金はお前が背負うんだ。最初からそういう約束で産んだんだろうが」
女は、あの夜にアニタを助けようとして傷を負ったミシャだった。
「あいつのせいで、あたしの指、ちゃんと動かなくなっちまったのに。あたしはもう若くないし、これからどうやって……」
「知らん。とにかく少しでも早く店に出るんだな。いつまでも怠けていられる身分じゃないことを思い出せ」
楼主の言葉にカッとなり、思わずティンラッドは部屋に飛び込もうとした。だが誰かが後ろから袖を引っ張ってそれを止めた。振り返ると、チェリャが暗い表情でそこにいて、黙って首を左右に振った。
上の階から降ってきたシタールの旋律が、ミシャの嗚咽に重なった。共に嘆いているかのようだった。




