波濤を越えて (12) 不可逆の出来事
アニタの傷は顔以外のほとんどすべての場所に刻まれていた。医者は、傷痕が残るだろうと言った。腕のいい神官が回復の神言を使えば半分くらいはきれいになるかもしれないが、全部は無理だろうと。そしてこの町に、娼婦相手に神の御業を施すような神官はいなかった。
ナーラも数日は店に出られず、ミシャはもっと時間がかかりそうだった。用心棒のジャンパは死んでしまった。
大損害にいきり立った楼主は市長のもとに行って、賠償の調停をしてくれと頼んだ。キオイ家にも乗り込んで直談判した。
が、相手は名家である。わずかな示談金だけで騒動は落着することになりそうだった。
もちろんそんなことで楼主の怒りがおさまるはずもない。彼はジャンパの遺族や娼館に出入りする客を通じて、事件の顛末を町中に触れ回らせた。
話はたちまち広がって噂話を喜ぶものたちの恰好のエサになった。尾ひれをつける必要もないくらいの醜聞なのだから当然である。
「お固いキオイ家の連中はしばらく表通りを歩けまい」
楼主は雇人たち相手に言い、いくらか溜飲を下げた。
それでも噂を流すくらいが彼らに出来る精いっぱいの仕返しだった。
「町で噂になってるが、大丈夫か」
オルムスが様子を見に来たとき、ティンラッドは前庭の草むしりをしていた。
「向こうは古い家なんだろ。やり返されたらこんな娼館、潰されちまうんじゃないのか」
「さあ。俺はそういうのはよくわからない」
ティンラッドは茂った草の葉を次々に引き抜きながら、退屈そうに言う。
「楼主さまは、『キオイ家は口うるさいからもともと嫌われているし、うちの客は町中にいるんだから大丈夫だ』って言っていた」
「ああ、確かにこの町で立派な娼館はここくらいだな」
オルムスはうなずく。他は貧乏人相手の、店とも言えないあやしげな商売をしている街娼がいるくらいだ。小さいとはいえ港町にしては珍しいと思う。普通はいくつか、そこそこの規模の娼館が軒を競うものだが。
「町中で店を出すと、キオイ家が嫌がって潰しに来るらしい。だから楼主さまは、町はずれのここで商売をしているんだって」
ティンラッドは興味がなさそうに言うが、それでオルムスにも噂話がにぎわっているわけが理解できた。長年、町のご意見番としてうるさいことを言ってきた堅物の一家。そこの息子が事件を起こしたとなったら、みな面白おかしく騒ぎ立てるだろう。
「ここで暴れたってやつは、大神殿の神官試験を何度受けても通らない落ちこぼれなんだってな」
酒場で聞いた噂を口にする。その話をしていた男も、オルムス自身も、自分の名前と店の看板が読めるくらいの教育しか受けていないのだから、他人のことを言えた義理ではないのだが。
『神官を輩出していて』『歴代の当主はみな、大神殿で修業しているのが自慢』の名家の息子が落ちこぼれだという話は、人々にとって絶好の酒の肴なのだった。
「家でも持て余されていて、鬱屈していたせいでそんなことをしたんじゃないかって町のものはみんな言っていたぞ。またやるんじゃないか、ともな」
「さあ。興味ない」
ティンラッドは軽く肩をすくめた。
「俺は、あいつをぶちのめした。もし来たら、またぶちのめす。客じゃないから遠慮しなくていい。それがわかってるから、それだけでいい」
「ぶちのめすのはいいが、ほどほどにしておけよ。殺しでもしてしまったら、お前の立場が悪くなる」
少年の好戦的な笑顔を、オルムスは危ぶんだ。
ティンラッドの価値観は単純で明快だ。だが、こんな狭い街ではそれだけでは渡っていけないのではないかと思う。人と人との関係には、打算と利害と駆け引きがついてまわるのだ。
……まあ、それが出来ていれば自分も、故郷を離れて流れものになったりしていないわけだが。
小さくため息をついてから彼は言った。
「何かあれば言え。次の満月の日には出航しちまうが、それまでだったら力を貸してやる。遠慮はするな、こっちは流れものだ。面倒を起こしたってあとくされない」
ティンラッドは意外そうに眉を上げてから、明るく言った。
「ありがとう、オルムスお父さん」
「一生そう呼ばれそうだなあ」
苦笑して、オルムスは大きな手でティンラッドの髪をなでた。
結婚さえしていないのにすっかり父親の気分だ。おかしな縁だなと思う。
「お、あれはチェリャじゃないか? すごい勢いで走ってくるが」
裏口から飛び出してきたチェリャは、ティンラッドとオルムスにまっすぐに駆け寄った。
「どうした、チェリャ」
ティンラッドはのんきに尋ねたが、オルムスの方は少年の青い顔に気付いた。
「何かあったのか。俺も手伝えることがあるか?」
「オルムスさん……」
チェリャは救いを求めるように彼を見て、それからがっくりと肩を落とした。
「ティンラッド」
「うん?」
「アニタが死んだ」
ティンラッドは口を開けた。すぐに言葉が出て来ない。
「……どうして?」
ようやく言えたのは、そんな間の抜けたことだけだった。
「怪我なら治るはずだろう。痕が残っても、それをネタに商売するってアニタは笑ってたじゃないか」
「自分で首を吊ったんだ。敷布を裂いて、天井の梁に掛けて」
チェリャは表情が見えないほど深くうつむく。
「とにかく、来てくれティンラッド。アニタを下ろさなきゃいけないけど、ジャンパさんもいなくなって男手が足りない。僕じゃ力が足りないんだ」
ティンラッドは黙ってうなずいた。二人は娼館に向けて歩き出す。オルムスはたまらず声をかけた。
「ティンラッド。チェリャ」
少年たちが振り向いた。
「何かあったら手を貸すからな」
先ほどと同じことしか言えなかった。もうすぐ町を出て行く流れものに出来ることなど何もない。
裏口の扉が閉まった。オルムスはのろのろと波止場へ続く坂を下りた。
無力感が胸の奥を黒く染めている。故郷を去った日のことを思い出した。




