波濤を越えて (11) 事件の夜
格式のある娼館では、入館の際に客の武器を預かるのが風習だ。それは娼妓を守るためでもあるし、客と店、または客同士のもめごとを避けるためでもある。
だが、護身用の小さな武器を隠して持ち込むものも多い。娼館のほうも、客を裸にして調べるわけにもいかないので諦めている。ただ同衾した遊女から『武器を持っていた』と報告が入れば、情報を共有して監視の対象にする。問題が多ければ、出入り禁止にすることもある。
今回も『武器を持っていただけ』ならとがめられることはなかった。だが、館で働く人間を三人か、それ以上傷付けたというのなら話は別だ。
血を流したナーラが、他の妓に付き添われて階段を下りてくるのと行き合った。
「ああ、ティンラッド」
ナーラは少年に血のついた手を伸ばす。
「早く行って、アニタを助けてあげて」
「ナーラお母さん。大丈夫だ、すぐ助ける」
そう言って安心させてから、少年は軽く眉根を寄せた。
「アニタはケガをしているのか? ミシャお母さんとジャンパさんは?」
「ジャンパさんは胸を刺されたの。倒れて動かないの、ヤバいよ」
興奮したナーラは早口に言う。
「ミシャ姐さんは部屋に入ろうと、刃物を持った客ともみ合ったのよ。血がいっぱい出て、血が……」
「ナーラ、もういいから」
ヴィオリータが止めた。
「あんたは早く下で手当てをしてもらいな。ティンラッド、行くよ」
狭い階段ではすれ違えない。ナーラたちを待ってから、ティンラッドとヴィオリータは階段を駆け上がった。
「楼主さまはすごく怒ってるよ。出入り禁止にする、賠償金を払わせるってわめいてる。キオイ家の息子でもかまわない、問題にするって言ってたよ」
背後から、ナーラの金切り声が響いた。
「それでもあのひとは、前に出てあたしたちを守ってはくれないからねえ」
ヴィオリータがため息をついた。
アニタの部屋の前には人だかりが出来ていた。
扉の前の床は血まみれで、中からは女の悲鳴が断続的に聞こえてくる。
「おお、やっと来たかティンラッド」
楼主が娼妓たちをかきわけ、あたふたと近付いてきた。脂ぎった中年の男だ。
「早く何とかしろ。問題ばかり起こすお前をここまで育ててやったんだ、恩を返せ。アニタを助けろ、使い物にならなくされる前にな。お前は殺されてもいい。さっさとしろ」
「楼主さま、そんな言い方はひどいよ」
ヴィオリータが顔をしかめるが、ティンラッドは首を横に振った。
「別にいい。楼主さま、中のやつは叩きのめしてしまっていいんだな」
「かまわん。売り物を傷付けるやつはもう客じゃない」
「わかった」
館内で用心棒が武器にする木の棒を握りしめた。短刀はいざというときの切り札にするため服の中に隠しておく。
暗い室内に足を踏み入れる。寝台の上で男が女の上にまたがっていた。男が手を動かすと、女が悲鳴を上げた。男は手にした短刀の刃先を、愛撫するように女の白い肌に走らせていた。乳房に、腹に、太ももに、無数の赤い線が刻まれていて、敷布は血で真っ赤になっていた。
全身の血が沸騰する気がした。
「アニタから離れろ!」
怒鳴りつけるのと、どちらが先だったか。
気が付くと男は床に転がって呻いていた。殴ったのか蹴ったのか覚えていないが、どちらでも良かった。
「ティンラッド…… 兄さん……」
血まみれの乳房を片手で隠して、アニタが呻くように彼の名を呼ぶ。そちらを見ないまようにしながら、ティンラッドはぐしゃぐしゃになっていた掛布を彼女に渡した。
「アニタ、外にお母さんたちや楼主さまがいる。チェリャがすぐに医者も連れてくる」
背中に妹をかばいながらそう言った。アニタが震える声で『うん』と答えた。
男がガバッと身を起こした。
「行くなああ! アニタ、お前は、お前は、僕のものだろおっ」
わめく声に、アニタの気配が凍る。恐怖で声も出ないのか、息遣いだけが早くなった。ティンラッドは彼女をかばったまま、すがりつこうとする男をもう一度、蹴り飛ばして遠ざけた。
「アニタはお前のものじゃない。借金があるからここで働いているだけだ」
静かに言う。
「誰のものでもない。勝手にお前のものにするな」
「黙れ!」
狂ったようにわめく男は、背は高いがやせてひょろっとしている。顔は青白く、目の下には隈ができていた。黒い瞳をぎらぎらさせてながら、血にまみれた短刀をティンラッドに向けた。
「僕は金を払ったんだ。何回も何回もアニタを抱いたんだ。アニタは僕のものなんだ」
「それはアニタの仕事だ」
ティンラッドは肩をすくめる。
男の腕はふるえているし、構えもなっていない。ジャンパはおそらく不意を突かれたのだろう。こんなひ弱そうな男が体格のいい自分に襲い掛かってくるとは思わなかったに違いない。
「金を払ってアニタを抱くお客はお前だけじゃない」
ティンラッドは続けた。
「それに、お金をもらおうが抱かれようが、そんなことでアニタはお前のものにならないぞ」
アニタが部屋から出る時間を稼ぐつもりだったが、背中で押してもすくみあがってしまった『妹』は動かない。ティンラッドはため息をついた。
アニタも心配だし、そもそもこの男と顔を突き合わせていることにうんざりしてきた。
「いい加減にしろ。こんな騒ぎを起こして、キオイ家の名前にも傷がつくぞ」
「黙れっ! 家は関係ないだろう」
男は金切り声でわめく。言われてみればそうだな、と少年は思った。こんなときに誰もが口にするだろう言葉を考えもなしに口にしたが、確かにそんなことは関係ない。
「そうか。そうだな。お前の言うとおりだな」
「お前とは何だ。僕は客だぞ。だいたい、お前は何なんだ。アニタは僕のものなのに、それを……」
自分に向けられた短剣を、ティンラッドは無造作に蹴り上げた。
「あ痛っ」
男は叫んで自分の手首を押さえる。飛んでいった短剣は、落ちて背後の椅子に突き刺さった。
ティンラッドは両手で男の胸倉をつかんだ。そのまま持ち上げる。はだしの両足が床から浮くと、男の顔には急に怯えが走った。
「俺はアニタのきょうだいだ」
ゆっくりと、少年は言った。
「そしてお前が傷付けたのは、みんな俺の『家族』だ」
思い切り殴りつける。吹っ飛ばされて男は戸棚に突っ込んだ。
部屋を飾るための見せかけだけの安物なので、棚はバキバキと派手な音を立てて壊れる。男はぐったりとして動かなくなった。
「終わったぞ」
椅子に刺さった短刀を回収し、ティンラッドは言った。
アニタが思い出したようにすすり泣き始めた。少年がその背中を押して、二人は部屋の外に出る。ヴィオレッタが用意していた大きな敷布で裸のアニタをくるんだ。
これからどんどん鬱展開になりますのでご注意です。




