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波濤を越えて (10) 夜の呼び出し

 アニタが正式に店の遊女になって、数日が経ったある晩。

 夜更けに、子供たちの住まう小屋の扉が強く叩かれた。


 ティンラッドがまず飛び起き、チェリャやシーラ、他の年長組も寝床から身を起こす。眠っていた幼い子が目を覚ましてぐずり始めた。


「小さい子たちを看ていてくれ」

 ティンラッドは年長者たちにそう言って、ひとりで引き戸のそばに立つ。護身用の小刀を右手に持ってから、左手で鍵代わりの心棒をはずし、引き戸を細く開けた。青い顔をしたヴィオリータがそこにいた。


「ヴィオリータお母さん」

 ティンラッドは驚いてたずねた。

「どうしたんだ。まだお客の相手をしていなきゃいけない時間だろう」


「うん、ちょっと手伝ってほしいことが出来てね。ティンラッド、それにチェリャも、来ておくれ」

 ヴィオリータは微笑んでそう言ったが、声は震えていた。


「わかった」

 ティンラッドはうなずき、小刀を握り直す。チェリャも立ち上がって、

「ルリア、中から戸に心張棒を張ってくれ」

 年下の子供のひとりに指示する。


「僕たちが帰るまで開けるな。窓も鎧戸をしっかり閉めろ」

「うん」

 ルリアという名の少女は気丈にうなずいた。 


「兄ちゃんたち、気を付けていってらっしゃい」

 シーラが小さな子を抱き上げてあやしながら声をかける。二人はうなずいて小屋を出た。


 たまに、こういう夜がある。客が暴れて手に負えないときなどは、少年たちも手伝いに駆り出されるのだ。

「今日はどうしたんだ。お母さん」

 暗い裏庭を足早に歩きながら、ティンラッドが小声でたずねる。


「アニタのことを毎日指名してくるお客がいてね」

 ヴィオリータは暗い顔で言った。

「毎日って。アニタはついこの間、店に出るようになったばかりだろう」

 ティンラッドは首をかしげる。


「たまたま、初日の客になったのさ。バカな若い男でね、自分がアニタの初めての相手だと思い込んだ。金もろくに持っていないくせに、後払いするからアニタをもう店に出すな、自分に寄越せと楼主さまに談判してきたりして、ちょっと頭に血が上りすぎていてね。話にならないから、楼主さまも相手にしていなかったんだけど」


「出禁にしなかったのか」

 ティンラッドは聞く。チェリャも横でうなずいた。


「キオイ家の跡取り息子なんだよ」

 ヴィオリータが言う。

「ああ……」

 少年たちは理解して、うなずいた。


 キオイ家は、町の旧家で神殿神官や行政官を輩出している家系だ。長男は代々、各地の神殿の頂点である大神殿に修行に行って箔をつけて帰ってくるのが習わしだ。ティンラッドの魔力講習を途中で打ち切りにした神殿神官も、キオイ家の一族のひとりである。


『娼館は穢れた場所である』

『町の恥だ』

『潰すべきだ』


 と、何十年も前から言い続けている堅物一家として名をはせているが、実は一族のけっこうな人数がお忍びで通い詰める娼館の上客でもあるのだった。館の内部にいる娼妓(おんな)たちや下働きには周知の事実である。もちろん、ティンラッドもチェリャも良く知っていた。


 だから楼主も、少しくらいの迷惑行為は目こぼししていたのだろう。将来にわたって金を落としてくれる可能性の高い客なのだ。


「そいつが暴れているの?」

 館の裏口をくぐりながらチェリャが聞く。

 ヴィオリータは表情を険しくした。


「部屋からアニタのすごい悲鳴が聞こえたんだよ。用心棒のジャンパさんが様子を見に行ったけど、扉が開かなくて。悲鳴が続いているし、ただごとじゃないってことになって、扉を壊して入っていったんだけど」


 そこまで話したとき、

「ヴィオリータさん、急いでくれ。旦那がしびれを切らしている」

 用心棒のひとりが階段の上から顔を出して大声でそう言った。


 事務所のあるほうから、

「どうするんだ。警備隊を呼ぶのか、呼ばないのか」

 というティモ老人のしわがれた大声も聞こえる。用心棒は上階から、

「先に医者だ、医者だ」

 とわめいて、顔を引っ込めた。 


 普段ならありえないことだ。この時間なら(おんな)たちの嬌声と音楽だけが響いて、男たちは裏にひっそりと隠れている場所なのに。

 部屋の扉がいくつか開いて、客と(おんな)が外の様子をうかがっていた。


「チェリャ、一緒に来い。お前は足が速いだろ」

 荷物運びのドノという下働きが、脇の廊下から出て来てチェリャの腕をつかんだ。

「ヴィオリータさん、こいつを借りていくよ。もう三人も刺されているんだ。少しでも早く医者を呼ばなきゃ」


「三人? ジャンパさんだけじゃないの?

 ヴィオリータが驚き、

「えっ、ジャンパさんは刺されたのか」

「武器は入り口で預かるんじゃないの?」

 ティンラッドとチェリャも声を上げ、

「アニタを助けようとして、ミシャさんとナーラさんも刺されたんだ」

 ドノも大声で応える。


 部屋からのぞいている(おんな)がそれを聞いてキャーッと声を上げ、

「おい、早くなんとかしてくれ」

 と客も叫ぶ。大混乱だ。


「とにかくティンラッドは早く行ってアニタを部屋から助け出せ」

 そう指示して、ドノはチェリャを引っ張ってドタドタと走り去った。


「急ごう」

 ティンラッドは短く言って廊下を走りだした。

 そのあとをヴィオリータが追った。


※次回は流血シーンがあります。

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