波濤を越えて (9) 母の定義
夜になって娼館に客が入り始めると、子供たちは寝部屋のある小屋から出てはいけないことになっている。
「ねえ、アニタ姉ちゃんは。今日も帰ってこないの」
女子最年長で、いつも弟妹の世話をしていたアニタの姿を求めて、幼い子たちが声を上げる。
「何度も言っただろう」
少しうんざりしながらチェリャは言う。
「アニタはもうすぐ店に部屋を持つんだ。今は見習いでほかのお母さんたちの手伝いをしているから、たまに戻ってくることもあるけれど、館に部屋が出来たらもうここでは眠らなくなる」
ひと息入れてから、赤毛の少年は続けた。
「そうしたら、『アニタお母さん』って呼ばなきゃダメだぞ」
「えー。そんなのヘン」
「アニタ姉ちゃんはアニタ姉ちゃんだよ」
「アニタ姉ちゃんといっしょに寝たいよお」
チビたちはてんでに騒ぎ出し、収拾がつかなくなった。
「あー、もう。いいから早く寝ろ。シーラ、リラ、こいつらをおとなしくさせてくれ」
チェリャに言われて、年上の女の子たちが『仕方ないなあ』といった様子で弟妹をなだめにかかった。
「ほらほら。アニタ姉ちゃんはいないけど、アタシで手を打って?」
「やだー。シーラ姉ちゃん、すぐ怒るもん」
「なんだとお」
「ほらシーラ。そうやって怒るから。さあ、みんな、リラお姉ちゃんがお歌を歌いますよ~」
「リラ姉ちゃんはこの前、『畑でどっこらしょ』の歌詞を間違えたしなー」
「うるっさいわね、叩くわよ」
騒ぎはおさまりそうにない。
女の子で一番年上だったアニタがいたときは良かった、とチェリャは思う。弟妹みんなの面倒をよく看て、保護者然としてふるまっていた。
この前までアニタに甘やかされていたシーラやリラでは、すぐにその代わりは出来なさそうだ。
本来その役は一番の年長である自分とティンラッドが務めるべきなのかもしれないが、やはり女の子の…… というより、アニタのようなきめ細かい世話は自分たちには無理だ、とも思う。
「うーん」
そして、ただでさえ頭が痛い状況を、さらに面倒にするやつがいる。
「アニタを『お母さん』と呼ぶのは、俺もやっぱりヘンな気がするなあ。アニタは妹で、お母さんじゃない」
「黙ってろよ、ティンラッド」
チェリャは同じ日生まれの兄弟をにらみつける。
「チビたちはただでさえ混乱してるのに、お前がそんなことを言っちゃダメだろ。こいつらにはそう呼ばせなきゃ」
「でも、自分が納得できないことを強制はできないぞ」
ティンラッドはそう言って、チェリャの顔を覗き込む。
「お前は納得してるのか」
黒い瞳にまっすぐに見られ、赤毛の少年は一瞬、息が出来なくなる。
本心から納得しているわけではない。ティンラッドの言ったとおりだ。アニタは妹だ。母ではない。母と思えるわけがない。
けれど。
「……納得してるよ」
彼は、そう言うしかない。
「店に出て、お客を取る妓はみんな『お母さん』だ。年が近くたって関係ない。いつもそう呼んできたじゃないか。だからアニタだって『お母さん』だ」
「最初から『お母さん』なら、別に同い年でも年下でもいいんだ」
ティンラッドは食い下がる。
「でも、『妹』が途中から『お母さん』になるのはヘンだ」
「……そんなの」
チェリャはこぶしを握りしめる。
殴れるのなら、ティンラッドを殴りたかった。無理なのだけれど。
母親とは、自分を産んでくれた人。この世にひとりしかいない。
そんな世間の常識を、この館の子供たちはものごころついたあと、外の人間と話す機会を持つようになってようやく知る。
館で働く妓はみな、『お母さん』。
子供たちは『みんなの子供』。
館の中では、それが決まりだ。
わかっている。それは楼主の策だ。成長した子供と母親がいっしょに館を逃げだしたら困るから。実の母と子の絆を断つための目論見なのだ。
それでも『母親たち』に見守られて過ごす毎日は温かく優しかった。
たとえ幻想でしかなくても、『家族』との生活はかけがえのない大切なものだった。
「そんなの、言ってもしょうがないじゃないかよ……」
チェリャの声は、握ったこぶしといっしょに震える。
「ティンラッドのバカヤロー。じゃあ、どうしたいんだよ。お前は奪うつもりなのか? こいつらから」
『母親』を。『家族』を。
口に出せないその言葉が、二人の間に重くわだかまる。
自分たちはいい。自分とティンラッド、そしてアニタの最年長組は、もう夢が夢だったのだと悟り始めている。夢は夢だと理解して、現実を生きなければならない年齢にさしかかっている。
けれど、年少のものたちは。特に、まだ館での手伝いを免除されている五歳以下の小さな弟妹たちにはまだ必要なのだ。それが荒唐無稽な夢物語であったとしても。
「僕はアニタをお母さんと呼ぶぞ。アニタお母さん、アニタお母さん、アニタお母さん! お前も納得しろよ。そういうものなんだよ、ティンラッド」
ヤケクソのように繰り返す彼を見て、
「なんか、変なのー」
「チェリャお兄ちゃん、ヘン」
「ヘンー」
幼い弟妹たちが笑う。
「ティンラッド。チェリャお兄ちゃんとケンカしちゃ、ダメだよ」
小さな妹が、せいいっぱい背伸びをして、大人ぶった口調でティンラッドを諭す。背の高い兄は少し黙ったあと、妹の頭を片手でくしゃりとなでて、笑った。
「そうだな。俺が意地を張った。すまん、チェリャ。俺が悪かった」
その謝罪の中に、明朗快活なティンラッドには似合わない翳りを感じてチェリャは何も言えなくなる。
彼の返事を待たずに、ティンラッドは妹を抱き上げて肩の上にのせた。
「さあ、罪滅ぼしに肩車してやるぞ。俺の肩に乗りたいやつは並べ、順番だぞ」
幼い子たちが歓声を上げてティンラッドの周りに集まる。
「あー、ティンラッド兄さんったら。チビたちはもう寝せなきゃいけない時間なのに」
「騒いでいたら、また怒られるわよ」
シーラとリラが『兄』をたしなめる。ティンラッドは二人をつくづくと眺めて、
「うーん。さすがに、お前たちを肩にのせるのはもう無理だなあ。重すぎる」
と言った。
「ちょっと、サイテー!」
「最悪! バカ兄!」
女の子たちの怒った声と、小さな子たちの声、それにティンラッドの明るい笑い声が重なるのを、チェリャはただ黙って聞いていた。




