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波濤を越えて (8) 即興曲

 今日はもう十分に働いた。そう思ったティンラッドは屋根裏に忍び込んだ。

 雨が降り始めていた。筋交いの柱にもたれ、板壁の隙間から外をのぞくと、屋根を伝って雨樋に落ちた水が勢いよく流れていくのが見えた。


 その位置から見下ろすと普段遊び回っている中庭がおもちゃの箱庭のようだ。

 坂道を下ったずっと先には、港が灰色にかすんでいる。オルムスの船はどれだろうか、と係留している帆船の影をひとつひとつ見ながら考えた。


 あれに乗って船乗りたちはどこまでも行くのだ。水平線の向こうで見る景色はどんなものなのだろう。

 あの島からこの港を眺めたら、どんな風に見えるのだろう。自分たちの暮らすこの白い娼館は船の上から見えるのだろうか。


 雨粒が屋根を叩く音を聞きながらぼんやりとそんなことを考えていると、どこかで弦をはじく音がした。初めは一本、そして二本、三本。ひとつの旋律を、他の弦が彩る。緊張感と豊かさと甘い情感が同居した演奏が、雨音に合わせるようにやわらかく響いている。


 ティンラッドは屋根裏から這い出した。

 狭くて急な梯子を下り、音を追って歩いていく。


 階段を登ったり下りたり、角を曲がって右へ行き左へ行き、入り組んだ狭い廊下を進む。目指す部屋は、他から少し離れた楼の隅にあった。海がよく見える場所で、広さはあるが便利は良くない。その代わり静かだった。


 この部屋の主はコレッタという古参の遊女だ。三十半ばの彼女は、もう頻繁に客を取れる年ではない。だが美貌であるのと、その類まれなシタールの腕に惚れ込んで、贔屓にしてくれる上客を何人もつかんでいた。今でも彼女はこの楼の稼ぎ頭のひとりである。


「ティンラッド。入るなら、埃は落としてからにして。扉は静かに閉めてよ、力まかせにしないで」

 入口に背を向けたままで、楽器を奏でながら彼女は言った。


「うん、わかった。コレッタお母さん、後ろに目でもついているのか」

 服に着いた埃をはたきながらティンラッドがそう言うと、

「あなたにも耳はついているでしょ。だったらもっと使いなさい」

 けだるげな声が返ってくる。


「屋根裏でごそごそしてる音が聞こえてた。その体重でどすどす無神経に歩き回るのはあなただけよ。そしてあなたなら、埃を落としてから私の部屋にやって来るような気づかいは持ち合わせない。残念なことにね」

 その通りだったので少年はちょっと赤くなった。


 いつもつまらなさそうにしているのに、どこか鋭くて尖っているこの『母親』が彼はちょっと苦手だった。だが彼女の演奏は好んでいるので、時々こうやって顔を出してしまう。


「あなたもまた弾けばいいのに」

 演奏の手を止めないまま、コレッタは興味もなさそうに言った。

「子供たちの中で一番筋がいいわ。やめるのはもったいない」


「俺よりアニタやリラの方が上手い」

「あの子たちは優秀ね。真面目に練習もするし、良い弾き手になるわ。この館で酔っぱらったお客を喜ばせるには十分なくらいの腕になるでしょう。でも、あなただったらもっと素晴らしい音が出せるのに」


「うーん」

 ティンラッドは首をひねる。

「ほめてもらえるのは嬉しい。でも、コレッタお母さんは俺に自由に弾かせてくれないからなあ」


 音楽が止まった。振り返ったコレッタは、鬼女の形相だった。

「当たり前でしょう! 一人前になるためにどれだけの練習と勉強が必要だと思っているの。古くからの曲、演奏の決まりごと、美しい和音とそうでない和音。他にも覚えることは山ほどあるのよ。アニタとリラが優秀なのは、それを身につける努力をするからよ。どんなにいい音が出せようが、才能があろうが、そうしないやつはカスで、石ころよ!」


 歌い手としても名を馳せているコレッタの豊かな声が矢のように耳を貫き、ティンラッドはげんなりした。


「悔しいなら練習して上手くなってみなさい」

 挑発するように言われるが、

「悪い、コレッタお母さん」

 少年は軽く流した。


「俺は演奏は嫌いじゃない。だけど、難しい勉強や面倒な練習をこなしてまで上手くなりたいと思うほど好きってわけでもない。そういうのは、剣術だけでいいんだ」

 肩をすくめて扉に手をかける。

 

「コレッタお母さんの演奏を聴くのは好きだ。聴かせてくれてありがとう。でも、お母さんも自由に弾いているように思えるけどなあ」

 首をかしげると、

「当たり前でしょう!」

 また怒鳴られた。


「今のは即興の雨の曲だけど、それを演奏出来るようになるまでに私は三十年かけたのよ」

 細い眉を吊り上げ、彼女は少年を睨みつける。


「いい? でたらめに弾くのは自由じゃないわ。そんなのはただの騒音で、音楽じゃないのよ。まずは既に知られ研究されている旋法の全てを身に着ける。自由っていうのはその先にあるものよ。何を残して何を捨てるのか、何が新しくて何が古いのか、それすらもわかっていないくせに、自由に弾きたい? 笑ってしまうわね」

 

 彼女は本当に笑った。とてもバカにした笑いかたで。


「自由を語りたいなら、まずその意味を知って出直してきなさい」

 整った口許を性格の悪さ丸出しに歪めて、コレッタは言った。

「この、クソガキが」


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