波濤を越えて (5) 町の目
「そろそろ帰ろう。いつまでもサボっていると、また楼主さまに叱られる」
チェリャは言って、荷物を背負い直した。すると重そうなそのカバンが、おかしな具合にななめになった。
オルムスが見ると、背負いカバンの肩ひもが片方、ちぎれて取れそうになっている。古いカバンのようだが、経年でほつれたものではなかった。最近、誰かが乱暴に扱ってそうなったように見えた。
「チェリャ。どうしたんだ、これ」
ティンラッドも声を固くする。
「朝は、こんなじゃなかったじゃないか」
「なんでもない。館に帰ったら、コレッタお母さんに教えてもらって自分で直すよ。縫い付ければまた使える」
チェリャは三時間違いの『弟』から目をそらし、何でもなさそうにそう言った。
オルムスは改めてチェリャのカバンを観察する。泥で汚れ、形が歪んでいるのは、もともとではなかったのかもしれないと思った。汚れのひとつははっきりと、靴底の形をしていた。
「あ、よせ。ティンラッド、やめろ」
チェリャの制止も聞かず、ティンラッドが乱暴に『兄』の上衣をまくりあげる。
やせた白い腹にも背中にも、青あざがあった。いくつかは明確に新しいものだった。
「誰にやられた」
ティンラッドの顔が険しくなる。
「神殿の講習でいっしょのやつだな。名前は忘れたけど、あの黒髪のやつか。それとも巻き毛のやつか。それともチャラチャラした首飾りを付けていたやつか。あと、なんか他にもいたけどそいつらか」
どんどん雑になるな、とオルムスは内心で思ったが、ツッコみはしなかった。
チェリャは『弟』の顔を見ないままで、
「別にいいだろう。お前には関係ないよ」
と言った。
「関係なくない。あいつら、卑怯だ。俺がいっしょだったときは怖がって、遠くから悪口を言うだけだったくせに」
ティンラッドは憤る。
「そうか。お前たち、二人で神殿に行っていたんだな」
合点がいってオルムスはうなずいた。そこでなぜかティンラッドだけが早期卒業となり、チェリャはひとりで神殿で魔力取り扱い講習を受けてきた、ということなのだろう。
何が起きたかはわかるような気がする。この町の神殿は、娼館の妓とその子供たちを『穢れたもの』として立ち入りを禁止している。おそらく町全体がそういう雰囲気なのだろう。講習のため『特例』で神殿に来た娼館の子供たちを、ほかの子供がどんな目で見るか想像に難くない。
それでも見るからに体格が良くて荒事慣れしているティンラッドにケンカを売る度胸のある同年代はそうはいないだろう。大人数で囲んでも、対処できる技量がこの少年にはある。ティンラッドに稽古をつけたオルムスにはよくわかる。
だがティンラッドがいなくなって、チェリャひとりになったらどうなるか。この、やせて小柄で、非力な少年を周りはどう扱うのか。
何か起きても神殿の人間は見ないふりをするだろう。かわいがっている飼い猫が、迷い込んできたネズミをいたぶっているのを見たときのような反応をするだけだろう。
「言わないなら別にいい。明日、神殿に行ったときに全員殴る」
ティンラッドはあっさりと言った。
「やめろよ、バカ」
チェリャが止めた。
「よせよ、そういうの。騒ぎが大きくなるだけで、何の解決にもならないだろう」
赤毛の少年は下を向き、足元の小石を軽く蹴る。
「分別を持てよ。仕方ないんだよ。いいんだ、講習が終わればあいつらとはもう顔を合わせなくていいんだから」
「良くないし、関係なくないし、仕方ないとは思わない」
ティンラッドは強い調子で言い返した。
「そんなのはおかしい。娼館の子供だから神殿に入るなって言われるのは別にいい。でも、殴られたり蹴られたり、ものを壊されたりしても言い返したりやり返したりしちゃダメだっていうのはおかしい。俺は自分がそういうことをされたら倍にして返すし、チェリャやほかの兄弟がされたときだって同じようにしたい」
チェリャはようやく顔を上げて『弟』を見た。
口許がほんの少しほほえむような形になり、目は潤んだ。
それから彼は汚れた袖で目もとをぬぐい、
「ありがとう、ティンラッド。でも、お前がそんなやつだから、なおさら僕は世の中の決まりに従わなきゃって思うんだ」
と言った。




