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波濤を越えて (2)

 オルムスと別れて娼館の中に戻ると、

「また、お客さんに無理を言っていたね。楼主様に叱られるよ」

 コツリと頭を叩かれた。


「ヴィオリータお母さん」

 ティンラッドはげんこつを食らったところに手をやりながら相手を見る。


 ヴィオリータは三十前で、よく笑うぽっちゃりした娼婦だ。美人というわけではないけれど、明るく愛想のよい彼女は客からも人気があった。


「大丈夫だ。今の『お父さん』はすごく優しい。名前も教えてくれたし、港に遊びに来ていいって言っていた」

 説明するのをヴィオリータは疑わし気に聞いていたが、どうやら本当らしいとわかってため息をつく。


「だったら運が良かったけれど。『お父さん』っていうのはあくまでそう思えっていうたとえ話だ、って何度も教えただろう? いきなりそんなことを言われたらお客は面食らうよ。いつだったかも、あんた、お客を怒らせてめちゃくちゃに殴られて大ケガしたじゃないか。また、あんな目に遭いたいのかい」


「あれは痛かった」

 ティンラッドは腕の傷痕を軽く触った。


「でも、あれはあれで実戦の稽古になったからいいんだ。本気で襲いかかられたら、大人にはまだ太刀打ちできないってよくわかった。逃げかたも考えるようになれた。殺さないようにちゃんと手加減してくれたんだから、あの『お父さん』もいいひとだったと思う」


「バカだねえ」

 少年のケロリとした顔を見て、ヴィオリータは眉をひそめる。

「誰に似たんだろうね、本当に。普通はあんな目に遭ったら懲りるもんだよ」


「ケガだって治ったし。算術や文字の勉強をするより、戦いのほうが面白いんだ」

「バカだね。あんたはバカだね。知っていたけど、やっぱりバカだね」

 しみじみ言われた。


「そうかな」

「自覚しなよ。でないとこの先、道を誤るよ」

 ヴィオリータは二度目の深いため息をつく。


「何を話してるの、ヴィオリータ」

 通りかかった別の娼婦が声をかけた。まだ若い彼女は大きな腹を抱えている。

「サライ。休んでいなよ、もうすぐ産み月なんだから」

「サライお母さん。体の調子はどうだ」


 言い争っていた二人から気遣われて、サライは笑う。

「大丈夫だよ、ありがとう。おなかが重くて立ち上がるときに面倒だけどね」

 十も離れていないティンラッドに『お母さん』扱いされるのがくすぐったそうだ。


「生まれそうになったら俺を呼んでくれよ。町まで走って産婆さんを呼んでくるから」

「あんたは脚が速いものね。そうするよ」

「サライ、あんまりティンラッドを調子に乗せないで」

 ヴィオリータが口をとがらせる。


「今、注意してたんだよ。いい気になっているといつか痛い目を見るって」

「痛い目ならもうみた」

「もっと痛い目に遭うって言ってるんだよ、バカだね」


「次はもっとうまくやる」

「その前に殺されちまったらどうするのさ。子供に何かあったら、親は悲しむもんだよ」

 言い合いを続ける二人にサライは軽く微笑み、自分の部屋へ戻った。



 十年と少し前。この娼館で、ひとりの(おんな)が孕んだ。

 館の主人は当然のように堕胎を命じた。だがその(おんな)は言い返した。


『子供を産ませてくれ。店への借金を返すために自分がこれまでに貯めた金は、全部渡す。仕事をしない間の自分と子供の生活費だ。客が取れるようになったらすぐにまた働く。子供は自分と同じく、館の財産として扱っていい。もし自分に身請け話が来ても、子供の分の金も払ってもらわなければ受けない。だから』


 この子を殺さないで。


 嘆願は繰り返され、彼女は堕胎を拒み続けた。

 最後には楼主も根負けして了承した。ただし、もうひとつ条件を加えて。


『生まれた子供には、誰が母親かを知らせない。遊女全員を母親と呼ばせ、館の子供として育てる』

 それは子供と母親とのつながりを切るという宣告だったが、(おんな)はうなずいた。


 以来、この娼館ではその条件で赤子を産む娼婦が絶えない。サライもそのひとりだ。


 昔ながらの堕胎を選ぶことも出来た。客の誰が父親だかわからない子供だ。もし生まれた子の髪や目の色で明らかになったとしても、子供ごと引き取ってくれるようなお大尽は彼女の客にはいない。


 産んでも何の得にもならない。借金と足枷が増えるだけだ。

 それでもどうしてだか、堕胎より出産を選ぶ(おんな)のほうが多かった。


 この子も乳離れする頃には自分から離されて、すぐに誰の乳を吸っていたかも忘れてしまうのだろう。

 大きくなった腹をなでながら、サライはそう思う。この館に来てから、そんな子たちを何人も見てきた。


 それから思った。最年長の子供たちはもう十二、三歳になっている。女の子であるアニタは、初潮が来たら遊女の仲間入りすることが決まっていた。


 そういう年頃を迎えた彼らに、『みんながお母さん』というそらごとはいつまで通用するのだろう。

 サライはもう一度、自分の下腹をなでた。痛みが走った気がして、少し顔をしかめた。


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