砂漠の月 (最終回)
夢を見た。
彼女は暗闇の中で獲物を追いつめた。怯える顔に歓喜しながら鋭い爪で相手の命を奪い、とがった牙で血と肉をむさぼった。
喉が渇いて広場の噴水で水を飲む。そのとき月の光がさして、あたりが明るくなった。水に映る自分は怪物の姿をしていた。
振り返ると、後ろには無数に転がる屍。
そのどれもが見知った顔であり、父の、母の、弟のそれもあった。
全て自分が殺したのだと悟って、彼女は虚空に向かい咆哮した。
……気が付くと夜が明けており、彼女は自分の寝台にいた。
朔の翌朝はいつもそうだ。使用人の誰かが運んでくれたのだろう。そうに違いない。そうだと自分に言い聞かせ、彼女は身を起こす。
恐れおののきながら両手に目をやる。
別に血に染まっていたりはしなかった。いつもどおりの、何でもない自分の手だった。
顔を洗うために鏡の前に立つ。
そこに映るのもいつもどおりの見慣れた自分の顔だ。
いつもどおりに用意されている冷たい水で顔を洗う。
何も変わらない一日がまた始まる。果てしなく上演される、いつもと同じ灰色の日々が。
もう一度、鏡に映る自分を眺める。
本当にこれが自分なのだろうかと思った。夢の中で見た怪物が、自分の本当の姿なのではないだろうか。見たくないから見ないふりをしているだけではないだろうか。
繰り返される日々の中で、彼女は自分というものの輪郭を見失った。
記憶すら曖昧で、昨日のことも茫洋としか感じられない中、ただ求められる役割を演じ、求められるセリフを口にし続ける。
自分で自分がわからない。朔が来るたびに、街では何が起きているのか。
人々を襲っているのは本当に魔物なのか。かつて両親を引き裂いたのは誰だったのか。
わからない、わからない、わからない。考えれば考えるほど記憶はこんがらがって混沌として、昏迷へと落ちていく。自分が『私』と呼ぶ自分は、自分が思う自分であるのか。サラワンの太守の娘パルヴィーン、本当にそうなのか。
確かなことはひとつだけ。
かつてこの場所で、彼女の両親が、街のひとびとが死んだ。
それだけは動かしようのない事実。
それを認めたくなくて、そこから目をそらしたくて。何も起きなかったことにしたくて、だから自分たちは時間を停めた。きっとそうなのだ。
窓のそばの籐椅子に、彼女は腰を下ろす。
朝日が差す明るい室内で、何もせずそのまま座り続けていた。
昼近くなってから居間に下りていくと、弟が長椅子で丸くなりながら葡萄酒の瓶に口をつけて飲んでいた。とても眠そうだった。
「やあ姉さま、遅かったね。ところで今回も住民がひとり減ったよ」
感情のない声で淡々と言う。
「そう」
波立つ心を押さえ、彼女も冷淡に言った。
「それで貴方はいったい何をやっているの、ハールーン。だらしがないわよ」
「朔の翌朝くらい許してよ、姉さま」
弟は目をそらす。
「飲まなくちゃやってられないよ」
また酒を喉に流し込む。白い喉が動くのを、彼女は黙って見ている。そのうち弟はうとうとし始めた。
わからないのだ。そう彼女は自分にしか聞こえない声でつぶやく。
わからない、わからない。わからないことはわからないままで、ずっと眠らせておけばいい。心の奥で誰かが甘く囁く。
弟のように目をつぶって何も見ないで、ぐっすり眠ってしまえばいい。そうすれば全ては安穏で、時は永遠に停まったままで、何もかも何もかも砂に埋もれて、夢を見ながら終われるのだから。
夢の終わりはなくて良い。それがどんな悪夢でも。
彼女は毛布を持ってきて、眠る弟をくるんでやった。
それから風に当たろうと、また望楼へと向かった。
細い細い昼の月が、空にかかっていた。
(終)
何も解決しないで終わります。
本編 ep.189~ep.199 「第27話 夢の終わり」で、この物語は終焉を迎えます。




