砂漠の月 (2)
「ほら。やっぱり寒いんでしょう」
震える彼女を、弟はそう言って抱き寄せる。
「そうね。寒いわ」
「もう戻ろう、姉さま。食堂の暖炉に火を入れておいた。夕食の支度も出来ているよ。今日はね、良いものが手に入ったんだ。この前、久しぶりに旅のひとが来たでしょう」
「そうだったわね。あのひとたちはどうしたのかしら」
「もう旅立ってしまったよ」
「みんな、あっという間にいなくなってしまうのね」
「旅人だものね」
弟が彼女の肩を抱く。姉弟は寄り添って、長い階段を下りていく。
「今夜は朔だよ」
思い出したように弟が呟いた。
彼女はまた、身を震わせた。
いったいどんな魔物の仕業か。
街が襲われて多くのひとが死んだあの日から、この場所にはひとつの呪いがかけられた。
月が細くなり、朔を迎えるたびに生き残った民のひとりが姿を消す。
原因を探ろうとした。魔物が潜んでいるのではと探そうとした。けれどいつも試みは途中で頓挫した。
自分たちが若すぎて力も知識もないから。生き残ったものは少なくて、日々を生きるのに精いっぱいで、朔の夜の謎に立ち向かうには無力すぎたから。
……言い訳はいくらでも出来るけれど。
そう、全部言い訳だ。そう彼女は思う。
本当のところ、自分は謎の解明などしたくないのだ。
時は停まったままでいれば良い。
謎は謎のままでいい。
このままでいい。このままの日々が続けばいい。
彼女は確かに、心の底でそれを望んでいる。
食卓の上にはたくさんの料理が並べられていた。
それを口にしても味がしない。まるで砂を食べているようだ。
本当はあの日の襲撃で、自分も弟も街のものたちもみな死んでしまったのではないか。こうしている自分は影に過ぎないのではないか。
滅んだ街の幽霊が、失われた日々を繰り返し上演し続けているのではないか。
「姉さま。葡萄酒を飲まない?」
弟の問いに、彼女は首を横に振る。
「いいえ。とても酔える気がしないわ」
「僕は飲みたい。正気で朝を迎えられる気がしない」
この子の心はとても弱いのだ、そう彼女は思い出す。
太守として街を背負って行けるのだろうかと、いつも自分は心配していた。
「姉さま。付き合ってはもらえないかな」
すがるような目に、ため息をつく。
「仕方ないわね。少しだけよ」
「うん。少しだけでいい。残りは使用人たちにあげてしまおう」
弟が古い酒瓶を開ける。封じ込められていた豊饒な香りが、寒々しい食卓につかのま豊かさを運んでくる。
「朔の夜に乾杯」
弟が杯を上げた。
「そんなことを言うものではないわ。何も起きないように祈らなければ」
「そうだね。不謹慎だった。そうだ、何も起きないかもしれないんだ」
そう言って、何度自分をだまして新月の夜を越えてきただろう。
思い出したくない。思い出したくないから、彼女は自分の杯に口をつける。
これを飲んだら自分も弟もすぐに眠り込んでしまう。あまり酒に強い家系ではないのだ。宴席で飲み過ぎないようにと、母はいつも父に口を酸っぱくして言っていた。
こうやって、今夜も自分たちは誰かを見殺しにする。この十年間を共にした街の生き残りが、正体のわからないものに刈り取られるのを黙って見過ごす。
弱いのは弟だけではない。自分もとても弱いのだ。
目の前にある真実から顔を背けて、ただ暗闇で寄り添って震え続けてきた。
自分たちだけではこの長い夜を越えられない。
同じ演目を繰り返し続けすぎて、自分たちはもう幕の引き方がわからない。
「姉さま。手を握って」
弟が手を伸ばしてくる。自分よりひと回り大きくなったその手を、彼女はそっと握りしめる。指先が冷たい。確かに弟の手を握っているはずなのに、体温を感じない。
天窓の向こうに夜空が見える。
月のない夜は黒く、飲み込まれるように彼女の意識は闇の中に沈んだ。




