出発
馬蹄が地面を蹴る音が青暗い世界に複数響く。
猛々しい馬の呼気は白い蒸気を生み外気の冷たさが伺えるが、数時間もすれば日は昇り、暖かな恵みを燦々(さんさん)と分け隔てなくこの世界にもたらしてくれる。
「準備はいいか?」
黒鹿毛の牡馬に跨ったヨハンが後ろを振り向き問う。
栗毛の牡馬に跨ったユリアとパウルが頷くが、パウルは若干緊張の面持ちだ。
やはり遠出となることもあり、未知の場所故にどのような魔物がいるかもわからない。
そういった不安が元来小心者のパウルの頭に過ぎっているのだろう。
対してユリアはまるで緊張している様子もなく、いつもの調子で穏やかな笑みを浮かべている。
三人は村の入り口の門をくぐり、左右に新緑の草原が広がる道を足並みを揃えて進んで行く。
既にここは魔物が現れる外の世界であり、一列縦隊で進む三人はそれぞれが視覚と聴覚を研ぎ澄まし、異変が無いかを警戒している。
左右の緑に擬態するのが得意な魔物も、草を掻き分け突然飛び出す魔物もいつ現れてもおかしくない。
そのように常に気を配りながらの行動は、神経をすり減らし一際疲れるものである。
パウルは肩を上下させ荒い呼吸を繰り返しているし、ユリアも落ち着き無く左右を見渡している。
それでも何とか起伏の富んだ地形を進み、一際高い丘を越えると、そこには果てしなく広がる世界が眼前に広がった。
神話に登場する神々の世界が存在するならば、見つけられると思えるほどにどこまでも澄み切った海のような空。
インがドル河川を隔てた遥か彼方には大昔に大戦があったアリオーソ平原が広がっており、平原の西には今いる標高よりも高いゴルゴダの丘が見える。
そこからさらに視線を西へと転ずるが、今回の目的地であるヴィデトの塔を視認することは叶わない。
雑貨屋の老主人が言っていた通り、西へ向かうに連れ険しい山々が広がる地帯になっているようで、現状では森と岩山が確認できるのみである。
「とっても綺麗……」
ユリアは感嘆の声を漏らし、その美しい景色を堪能しているようだ。
これが平和な世の中で行楽の旅だとしたらどんなにいいだろう。
と、ヨハンは幼女のように顔を輝かせるユリアを見て思った。
「さぁ、進むぞ。この丘を下って下方の草原地帯を突き進めばインガドル街道にぶつかる。日が落ちる前にはそこに着くようにする」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。もう少し休憩しようぜ。俺、何か凄え疲れた」
まだ出立して二時間程しか経っていないが、パウルは早くも情けない声を上げる。
やはり緊張状態での行動に身体が付いてこないのだろう。
「だめだ。今は天気もいいがいつ崩れるかもわからない。進めるときに進んでおく」
「け、けどよぉ……」
パウルが何かを言おうとするが、ヨハンは言葉を被せた。
「パウル落ち着け。この辺りはお前も慣れ親しんだ一帯で、出現する魔物もお前が倒したことがあるやつばかりだ。気負い過ぎずに行け。……お前ならやれない事はない」
最後の一言は既に一歩を踏み出して背中を向けていたが、パウルは一瞬呆気に取られつつも「へっ!」と短く笑った。
「よっしゃぁ! 後ろは俺に任せとけ!」
お調子者はあっという間にいつもの自分を取り戻したようだ。
ユリアは先頭を行くヨハンと馬を接し、囁くように。
「なんだかんだでパウルのことちゃんと認めてるのね」
と、微笑しながら言った。
「部下にあいつみたいなお調子者がいてな。たまにああやって乗せるんだよ。それで慣れたのかもな」
ヨハンは赤茶色の髪を掻きながらやれやれといった様子。
「そう。大変ね」
ユリアは綻んだ笑みをヨハンに向けた。