ガレスの宿屋
後方で一人盛り上がるパウルはそもそもが精神的疲労だったこともあり、気力の充実によって先程の弱々しさが嘘のように影を潜めた。
それだけパウルにとってヨハンの存在は大きいということか、大きく溝を開けられていた幼馴染に信頼の言葉をかけられたことが余程嬉しいようである。
こうなると進む速度も上がり、日が西に傾きかけた頃にはインガドル街道の分かれ道に到達した。
奇跡的というべきか、ハーキュリーズの村からここまで来る間に魔物との戦闘は皆無だった。
二度ほど遠くにゴブリンを視認したが、ゴブリンがこちらに気が付いている様子もなかったので、そのままやり過した。
街道を西に進みだすとパウルが口を開いた。
「なあ、ヨハン。もうすぐ日も落ちそうだぜ? そろそろ宿を見つけないとやばくないか?」
「心配するな。この先に宿屋が一軒あるんだが、そこのオヤジとは、顔見知りだ。今日はそこに泊まる」
それを聞いて安心したパウルが大きな溜息を吐く。
ユリアは乗っている馬に「もう少しだよ」と励ましの言葉を掛け、首筋を優しく撫でている。
「ん?」
不意に先頭を進むヨハンが怪訝な声を上げ、馬の脚を止めた。
ユリアとパウルも習い馬を止める。
「どうしたのヨハン?」
ヨハンがすっと指差した先には一匹のゴブリンの姿があった。
街道の真ん中でこちらを凝視して立ち往生している。
緑色のガッシリとした体躯、口からは白濁した涎を垂れ流し、大きく裂けた口はやはり笑っているかのようだ。
「うっ、とうとう出やがったか! だけど一匹ならどうってことねえ! 俺が片付けてやる!」
実際に倒したことはあるといっても、やはりパウルはまだ実戦の経験が少ないからだろう。
身体が緊張し、固くなっているのがヨハンには手に取るように分かる。
恐れを意気で払拭しようとしているが、却ってそれが無駄な力みを生んでいるようだ。
「いや、今回は俺がやる。お前たちは左右背後の警戒を怠らないでいてくれ」
そう言うとヨハンは背中に掲げたツヴァイハンダーを抜き、馬の腹を蹴った。
走り出した黒鹿毛の馬体が加速し、ゴブリンに一直線に向かう。
ゴブリンは向かってくるヨハンに対してその場で迎撃しようとしているらしく、棍棒を振りかぶって射程距離に入るのを待っている。
ヨハンとゴブリンの距離が手を伸ばせば届くほどに縮まり、ゴブリンの吊り上がった白目だけの眼が見開かれた。
振り上げていた棍棒が唸りを上げて振り下ろされようとした時、ゴブリンの左肩から袈裟がけにツヴァイハンダーが侵入してその分厚い胴体を両断した。
前のめりに倒れたゴブリンの身体からは大量の血が勢い良く噴出する。
周囲が薄暗いため分かりにくいが、陽光の下ならきっとそれは真っ青な色をしているのだろう。
斬り捨てて駆け抜けたヨハンが、何事も無かったかのように二人をこちらに来るよう呼び掛ける。
二人はヨハンの剣の腕に改めて驚嘆しながら、ゴブリンの死体を越えた。
ゴブリンを倒してから程なくして、街道の脇にポツンと一軒の建物が建っているのが見えた。
側には旗が立てられ、建物には箍が掛けられており、それは宿屋であることを示している。
「やっと着いたぜ」
安堵の表情を浮かべるパウル。
三人は建物の脇にある柵で囲われた空き地に馬を繋ぎ、扉を開けて中に入った。
「おう! らっしゃい!」
野太い良く通る大きな声で宿屋の主人は出迎えてくれた。
宿屋の中は天井に蜘蛛の巣が張られ、壁のあちこちにシミや傷がありお世辞にも清潔とは言えない。
部屋も受付けと食堂が一緒になった今いる部屋の他に、寝室となる大部屋が一つあるだけといった典型的な小さな宿屋だ。
色黒で恰幅が良く、豊かな顎髭を蓄えた大柄な店主は、ヨハンの姿を認めるとがさつな笑みを浮かべる。
「なんだ! ヨハンか! こないだ軍事訓練が終わったばかりだろう? 今日はどうしたんだ?」
「ああ、ちょっと野暮用がな。今日は三人で頼むぜ」
「おう! 兄ちゃんが一人に、おっ! こりゃあ可愛い姉ちゃんだ。俺はガレスだ、よろしくな! 今日は客入りが悪くてな、他に客もいないから、部屋は広々と使ってくれ」
「客入りが悪いっておっさん。たまには外を見渡せよ。ゴブリンの野郎が街道で立ち往生してとうせんぼしてやがったぞ」
ガレスはしまったと言わんばかりに、毛根の強そうなゴワゴワした黒髪が生える頭をバシッと叩いた。
「なんだと!? ちくしょう、そういうことか! ゴブリンの野郎め」
「職務怠慢の自業自得だな。」
毒吐きながら店内にある貧相な食卓に腰掛けるヨハン。ユリアとパウルにも座るよう促すと、持参した非常食の封を開ける。
小麦粉を固くなるまで焼いたパンで、美味くもなく不味くもない一品だ。
「何だお前たち、ろくな食い物持ってきてないな。だが生憎今は何も用意できねえぞ」
「ああ、気にしないでくれおっさん。泊まれるだけ有り難いと思ってるからよ。食ったら休ませてもらうよ」
「まあ、コーヒーくらいなら淹れてやれるけどよ」
そう言ってお湯を沸かすガレス。
その姿を見ていたユリアが何かを言いたそうにしているのにヨハンは気が付いた。
「どうした?」
ユリアは躊躇っているようだったが、小声で「おじさんに、お湯を沸かすなら少し余分に沸かせないか聞いてくれない?」と言った。
「いいけど、どうするんだ?」
ヨハンはユリアの本意を図りかねて尋ねたが、ユリアは目を泳がせバツが悪そうにさらに小さめな声で答える。
「えっと、汗かいちゃったから身体、拭きたくって。贅沢なのはわかってるんだけど……」
「あ、ああ! そういうことか。おっさん」
「いいぜ。たんまり沸かしといてやるからな、姉ちゃん」
ヨハンが言うより先にガレスは行動していた。
ユリアの余分に沸かせないかという言葉が聞こえ、用途も察していたのだろう。
ヨハンは己の気の回らなさを恥じる思いだった。
「ありがとう。ガレスさん」
にこっと微笑みお礼を言うユリアに、ガレスは無邪気な笑顔で応える。
「ガレスさんは女の子の気持ちがわかってるようだな! それに比べヨハンときたら」
頬杖を付きにやにやしながらヨハンを糾弾するパウル。
このお調子者はこういう人の落ち度を見落とさない。
「うるせえ、お前はわかってたのかってんだ」
「俺は当然察していたさ」
後からなら何とでも言える。
ただ、そう言って口論を長引かせるのは何とも情けない気がしてヨハンは舌打ちをして口を閉じた。
出されたコーヒーをそれぞれ飲み干すと、ガレスが食器を片付けながら「さぁて、ベッドの準備をするか! おら、野郎どもは手伝え!」と言った。
寝室に向かう際にテーブルに沸いたお湯とタオルを置いていく。
「先に寝てるからな」
「おやすみ、ユリア」
「うん、二人ともおやすみなさい」
ヨハンとパウルも後に続き、扉が閉められた。
ヴィデトの塔を目指す旅も一日が終わり、三人は束の間の休息に入った。




