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「おいカズヤ、お前まだ寝とかねえとダメだろ!」
「そうだぞ一葉、お前一人の体ではないのだ! 静養に専念しろ!」
部屋を出ると同時に、俺は案の定、ドアの前にいた菖蒲さんと花梨に呼び止められた。俺はそれを無視し、おぼつかない足取りで前へと進む。
「あの……一葉さん……!」
そのまま俺が階段に近づいたところで、ちょうど菫ちゃんが階段を上がってきた。菫ちゃんは麦茶の入ったコップをお盆に載せて両手で持っていた。
「あ、あのこれ……」
「ありがとう、菫ちゃん」
差し出されたコップを、俺は一気に飲み干し、空となったコップを再びお盆に置いた。
「……ふう、よっし!」
冷たい麦茶は、俺の頭にまで行き届き、すっきりした気持ちに変えてくれた。喉が潤わされたこともあり、俺の気合は十分だった。
「あの……一葉さん……どこに行くんですか……?」
「ああ、ちょっと蓮香に勉強を教えにもらいにね。心配しなくていいよ、俺『は』もう大丈夫だから」
「あっ……」
菫ちゃんが呼び止めるよりも前に、俺は腹の痛みをこらえ、急いで階段を降り、靴を履き替え、屋敷を出た。
「ここか……」
俺は一度一階に下りてからべつの階段からもう一度上がる。
二階に上がり、俺は一番奥の部屋まで進む。ドアの前に立つ。
「おーい!」
俺はまず部屋の住人がちゃんといるかどうか確かめる。だが返事はない。次に俺はドアをノックする。これでも反応はない。
「――し・じ・ま・は・す・かー!」
だからといってあきらめるわけではない。俺は借金取りのごとく力強くドアを叩き、部屋の住人の――紫島蓮香の名を一文字ずつ強調して呼び叫ぶ。近所迷惑など顧みず何度も何度もそうやって呼びかけていると、
「……うるさい」
虫のようにかすかな声がドア越しから聞こえた。俺はノックする手を止めた。
「やっと反応してくれたな蓮香! 嬉しいぜ!」
「…………」
「おいおい黙んなって! ちょっくら話でもしようぜ!」
「帰って」
即答だった。しかし予想の範囲内。
「もしも話に応じなければ、俺はずっとお前を呼び続けるぞ」
俺は脅しに近い言葉をドアの向こうに投げかける。もちろん、今の俺にそんなことをする体力は無いのでハッタリだ。
「……何の……話」
しばらくの沈黙の後、蓮香は俺の誘いに応じた。間髪入れず、俺は言った。
「よっし、じゃあ一言だけ言わせてもらうとだな……逃げてんじゃねえよ」
「……………っ!」
できるだけオブラートに包んで言おうとしたが、無理だった。俺は父親が子供を叱りつける時のような厳しい声で、一番言いたかったことを、一番最初に口にした。
「…………」
蓮香は何も言わない。けれど壁越しから伝わってくる雰囲気は変わったような気がした。俺は続ける。
「黒須さんから全部聞いたぜ、お前が過去の『トラウマ』から能力を使わなくなったことをよ」
「――っ!」
ガタッとドアが大きな音をたてる。部屋の壁に小さなヒビが入る。蓮香の「能力」の一端だろう。
「……たしかに、『友達を傷つけた』ってのは、きつい思い出だよな」
第三者で関係のない俺が言っても嘘くさいかもしれない。だが、黒須さんの語り方は十分俺にその「トラウマ」の記憶を頭に体験させた。
蓮香が小学生に上がる前のことだと、黒須さんはまず教えてくれた。
その時蓮香には仲の良い女の子の友達がいた。黒須さんはここではその友達をAちゃんとした。
黒須さんはその二人の仲良しっぷりを、まるで実の母親のごとく丁寧に教えてくれた。いっしょにご飯を食べた、ママゴトをした、お泊りなど……。ぶっちゃけ話の大半が二人の馴れ初めについてだった。
それで、蓮香がAちゃんと公園で遊んでいる時だった。事件は起きた。子供なら余裕で背中に乗るくらいの大きな犬が、手綱もなにもなく、やってきたのだ。
その犬は当時近所でもかなり気性の荒いとされる雑種犬で、以前にも何人か噛まれたことがあった。
そのくせ飼い主はずぼらな奴で、何度言われても犬の躾を行おうとはしてこなかった。
その時、公園内には蓮香とAちゃんの二人しかいなかった。犬はちょうどいい獲物を見つけたかのごとく、ものすごい速さで二人に向かう。
体が震え動けないAちゃんの手を引っ張るようにして、蓮香は近くにあったジャングルジムを登ろうとした。
だがそこはやはり子供の力、ひと一人を引っ張りながら上に登るということはできず、仕方なく蓮香が先に登った上でAちゃんを引っ張ろうと考えた。
しかし……少し遅かった。馬鹿犬はAちゃんのすぐ手前まで迫っていたのだ。
……なるほどと、俺はここまで黒須さんの話を聞いて先がわかったつもりになっていた。蓮香はAちゃんが犬に噛まれたのは、自分に責任があると思い、それがきっかけで犬に恐怖を抱くようになったのだろう、と。
『それは違います』
なにも言っていないのに黒須さんは真っ向から俺の考えを否定した。黒須さんはその先を続けた。
『その女の子には怪我はありませんでした。蓮香さまの【能力】によって以外はですが』
その時、蓮香は無意識の内に「能力」を発動させた後、公園内のジャングルジムは使い物にならなくなり、馬鹿犬は怪我こそ負わなかったが、それ以降は何かにおびえたようにかなりおとなしくなり、飼い主ともども町を追い出された。
そして最後に、黒須さんは蓮香の「能力」がどんなものであるのかを教え、そこで話を終えた。
「あんたに……」
ちょっとした回想に浸るくらいの長い沈黙の後、ドア越しから蓮香の声がぼそっと聞こえてきた。俺は壁に近づき、はっきり聞き取ろうとする。だが、
「あんたに何がわかるってのよっ!」
ドアがさっきよりもガタガタと震える。蓮香の声の振動ではない、黒須さんから聞いた蓮香の『能力』によるものだった。
「あんたに……わかるはずがない! こんな異常な力を持って生まれて……その力で大切な人を傷つけてしまった私の気持ちなんてわかるわけがない……!」
何事にも動じない、文武両道のクール美人である。それが俺が蓮香に対し抱いていた印象だった。しかしそれは大きな間違いだった。紫島蓮香は『普通の女の子』だった。
「当たり前だ! 彼女いない歴=年齢の俺が、女心なんてわかるわけねえだろ!」
えっへんと胸を張り、俺は偉そうに宣言した。ドアのぐらつきが少しおさまりだした。
「――私が言っているのはそういうことじゃないわよ……」
俺の発言に、蓮香の声に冷静さが戻り始めていた。自分でも、ずれた発言だったとしばらくしてわかった。慌てて俺は言い直す。
「蓮香、たしかに俺には『能力』なんてものはないし、お前の気持ちがわかるなんておこがましいことを言うつもりはない。……けどよ、お前は受け入れるしかねえんだよ」
「……どういうことよ」
「そのまんまの意味だよ。……例えばよ、『目が見えない』ままに生まれてきた者は、『目が見えない』ということを受け入れなければならない。『足が無い』まま生まれて来た者は、自らの足で歩くことができないことを受け入れなければならない。えっと……つまりよ、『能力を持って』生まれてきた者は『能力が使える』ということを受け入れなきゃいけないんだよ」
自分では何となく理解できているが、言葉にすると変にわかりづらかった。変なたとえを出すんじゃなかった……。
「……話がまったく違うわよ。私の場合は自らの意志で『使わない』という選択肢ができる。受け入れる必要なんてない……」
「だーかーら! それが違うっての! いいか、『能力』についてはよくわからねえけどな、お前がこの先生きていく中で、何があっても『能力』と向き合わなきゃならねえんだよ。現にお前は今、微力ながらも『能力』を使っているじゃねえか!」
まだ認めようとしない蓮香に俺は少しキレ気味に叫んだ。
「それは……」
「お前は『能力』を『抑え』ることができると言ったが、お前の中にある以上、気持ち一つで何がどう転ぶかなんてわからねえんだよ」
「『能力』ってのは使わねえと『錆』になって腐っちまうんだぞ」
俺は葛城先生の言葉を思い出す。あの時は何を言っているのかわからなかったが、あれは菫ちゃんの『能力』を、暴走させないための意味だった。
菫ちゃんだけではない、菖蒲さんも花梨もやり方こそ違えど『能力』を使いこなそうと、「自分自身」と向きあおうとしている。
「何度でも言うぜ蓮香、お前の『使わない』という選択は、賢い行いじゃねえ。単なる現実逃避だ」
「…………………じゃあ、どうすればいいのよ」
長い沈黙の後、蓮香は俺に対してというより、自分に対しての問いかけのような声を出した。
「んなもん簡単だ、お前が『能力』を使いこなせるようになればいいんだよ」
「そんなの……無理よ。誰かを……あの娘を傷つけてしまった以上、私はこの『能力』を受け入いれるなんて……できない……」
「受け入れなかった結果が、昨日のようなことじゃねえのか?」
あまり言いたくなかったが、俺は蓮香を説得するために言うことにした。蓮香がトラウマから犬が苦手ということはわかる。それで俺が傷ついたという事自体は仕方ない。けど、使おうが使わまいが、蓮香は結果的にまた誰かを傷つけた。つまり……「受け入れない」ということが正解というわけじゃないんだ。
蓮香は無言になった。俺は続ける。
「……普通の人間だって、腕力が強ければ誰かを傷つけることがある。でもべつに腕力は暴力のためのものじゃないだろ、要は……本人の気持ち一つで、毒にも薬にも変わるんだよ、この世のありとあらゆるものはな」
「でも――」
「ああ、もううるせえっ!」
「……っ!」
元々口は上手くない、これ以上言葉を投げかけても蓮香を説得することは不可能だと思った俺は、蓮香のネガティブ思考を断ち切ろうといっそう声を荒げた。
「いつまでもウジウジしてんじゃねえよ! ……いいか、お前がどう言おうとだな、俺はお前の『能力』を――お前を受け入れてやる。何があってもだ!」
――――――うっわー……すっげーくせえこと口にしちまった……! 自覚している分、死ぬほど恥ずかしい……でも不思議とスッキリしていた。
「……………」
俺の精一杯の告白のような叫びに、蓮香はまったく返事しない。頼むから何か言ってくれ……! 顔から火が出るんじゃないかというくらい、俺はこの沈黙に耐えられなくなっていた。だが、
「ごめん、なさい……」
蓮香が部屋から出てくることはなかった。




