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「端的に申し上げますと……一葉さんはまだ生きています」
「いや端的すぎますって、もう少し詳しくお願いします」
意識を取り戻したばかりの俺にとって、黒須さんの言葉は率直かつ、まったく笑えるものではなかった。(まだってなんだ、まだって……?)
あれから少しして、俺は黒須さんと部屋に二人きりになった。黒須さんは大事な話があると言って、紫島姉妹三人を追い出した。……の割に、黒須さんは結論から語り出した。
「……そうですね、少し端的すぎました。それでは一葉さん、何が訊きたいですか?」
今度こそ丁寧に、順を追って説明してくれるものかと思っていたが、違った。黒須さんはとことん、「端的」に説明しようとしていた。
「えーっとじゃあ……」
そう言われると、何を最初に訊けばいいのか迷う。俺は黒須さんと顔を合わせたままにするのが気まずくなり、視線をあちこちに泳がせる。――あっ!
「蓮香、どうしてますか!?」
右手のことを聞こうとも思ったが、これは「原因」がすでにわかっているからぶっちゃけどうでもいい。俺はベッドから身を乗り出すようにして、黒須さんに尋ねた。
「……貴方が野犬に襲われた後、野犬は逃走し現在も消息が掴めていません。しかし捕獲されるのも時間の問題でしょう。今回の件によって警察、保健所、町内会といった多くの方たちが重い腰を上げて動き始めましたので」
だが黒須さんは蓮香のことではなく、白い犬のその後についてを語っていく。頭に血が上っていたこともあり、俺は黒須さんを睨みつけた。
「ふざけないでください! 蓮香は無事なんですか!」
俺は苛立ちの混じった声を、思い切り黒須さんにぶつけた。今部屋には俺と蓮香さんしかいないが、部屋の外で待機している菖蒲さんたちにも聞こえただろう。それくらい、俺は蓮香のことが心配だった。
「――申し訳ありません。てっきりそのことを問われると思い、ほぼ反射的に答えてしまいました」
深々と頭を下げる黒須さん。悪気はなかったとわかり、叫んだのが恥ずかしくなってきた。黒須さんは頭を上げ、神妙な顔になり俺の問いに今度こそ答えてくれた。
「今回の件におきまして、蓮香さまに外傷はありません。それは貴方が一番知っていると思います」
黒須さんの目線が俺の右手に向かう。黒須さんは聞いていないが俺の右手人差し指の状態について教えてくれた。
「貴方の人差し指は現在、付け根部分からぱっくりとありません」
「あーやっぱそうなんすね」
先ほどからなんとか動かそうと意識を働かせてみたが、人差し指はまったく動こうとしなかった。そりゃそうだ、無いんだから。
「……ちなみに聞いときたいんですけど、病院に行きました?」
普通目覚めるなら病院のベッドだと思っていたので、俺は自分の部屋で目覚めたことに今さらながらに疑問に思い始めた。
「いいえ、病院には行っていません」
「何でですか?」
「一葉さんが現在、保険証を持っていないからです」
「そういやあの火事でどっかいっちゃったなあ……っておいおい!」
思わずタメ口でツッコミを入れてしまった。え、マジで言っているのこの人?
「申し訳ありません、嘘です。半分は」
「全部と言って下さい……で、本当の理由は何ですか?」
こうしてところどころ冗談めいたことを言うのは、黒須さんなりの気遣いのようなものなのだろうか……。たしかに俺はリラックスできてきた。
「それは時間です。一葉さんが犬に襲われたあの時間帯は、すでに周囲の病院は閉まっていました。かといって総合病院に連れて行くには時間がかかりすぎる……そう判断し、私はすぐさま屋敷へ連れて帰り、応急処置をすることにしました」
なるほど、そういうことか……すごく納得した。にしても応急処置という割には、黒須さんの包帯の巻き方は看護師顔負けだった。これもメイドのスキルの一つなのだろう。
「ただ……言いづらいのですが……」
そこで黒須さんは憐憫の表情を見せる。だがすぐさま表情をキリッとさせた。
「貴方の『噛み切られ』た指なのですが、損傷が激しかったため……再接着することはないと思います。……申し訳、ありません」
黒須さんは深々と俺に頭を下げ謝った。あー、やっぱそっかー……。噛まれ意識を失いかけた時に、なんとなくそんな気はしていたので、そこまでショックは受けなかった。むしろ、良かった。
「気にしないでください! それより蓮香が傷つかなくて良かったですよホントに!」
俺は黒須さんに頭を上げるように頼む。そう、俺はあの時本当に蓮香を助けられて良かったと思った。決して自己犠牲を気取るつもりはないが、指一本くらいは安いものだ。
「傷つかなかったというわけではありません」
だが、そんな俺に対し黒須さんは冷たい言葉を投げかけた。
「…………」
しばらく経ってから、俺は黒須さんの言わんとすることが分かった。だが、違ってほしかった。
「『心』には傷を負ったってことですね」
「その通りです」
俺はがっくりとうなだれた。
「はあ、やっぱあいつも、眼の前で指が噛み切られるなんてもん見たらショック受けますよね……あ、でも俺ならホントにもう無事なんで、そのことあいつに伝えてもらえますか!」
いらぬ心配は体の毒だ。俺はなんともないということをアピールしようと、右手人差し指であった部分を、左手でチョンチョン叩く。傷口が染み、正直痛かったが、笑顔だけは崩さないようにした。
「……一葉さん、貴方は本当に優しい人ですね」
そんな俺を、黒須さんは慈愛に満ちた表情を浮かべて見る。こんなに直球で褒められたのは初めてかもしれない。
「けれど、それはダメなんです」
だが次に出た言葉は、意外なものだった。俺は何でですかと詰め寄る。
「すでに蓮香さまは貴方が無事だということを知っているからです。つい先程、私が伝えに行きましたので」
「……蓮香に、会ったんですか?」
「いえ、部屋の中に閉じこもっていますので、会ってはいません。――それに、蓮香さまが傷ついたのは、『そういうこと』からではないのです」
ますます意味がわからなかった。俺が困惑気味でいると、黒須さんはぐいっと顔を近づけてきた。
「な、なんですか!?」
「一葉さん」
鼻と鼻が触れ合いそうになるくらいまで近づき、黒須さんはジイっと俺の目を見つめてくる。
「これから話すことを、決して『誰にも言わない』ということを、約束できますか?」
揺らぎのない表情、声で黒須さんは俺に確認する。
「……はい」
少したじろぐも、俺ははっきりとうなずいた。何を言われようと、「覚悟」していた。
「……わかりました。それでは私が知る限りをお教えします。蓮香さまが何に傷つき、何に恐れ、何に後悔したのかを」
黒須さんはゆっくりと言葉を紡ぎ、蓮香の「過去」を語り出した――。




