序章03 生き残りの老人
~陽菜side~
足の裏に、硬い感触が戻った。
私は膝を折りかけ、どうにか踏みとどまった。さっきまで目の前にあった階段も、三浦先生もいない。代わりに、広い石畳と、四方を囲む高い壁があった。正面には大きな通路が開き、少し離れたところに、見知らぬ人たちが立っている。
私の手には、まだ畳みかけの地図があった。
「え……」
何かが石畳を叩く音がした。
正面の通路から、棍棒を持ったゴブリンが飛び出してきた。続いて二体、三体。こちらを見つけた先頭の一体が、甲高い声を上げて走り出す。
「来るぞ!」
金属のぶつかる音が響いた。
私より前にいた大柄な男性が、盾で棍棒を受け止めていた。ぶつかった衝撃で男性の腕が揺れる。すぐ隣から、剣を持った女性が踏み込み、ゴブリンを斬り伏せた。
そこでようやく、私は自分が武器を構えていないことに気づいた。
槍は背中のケースに入ったままだ。地図を上着のポケットへ押し込み、肩の留め具に手を伸ばす。指が滑って、うまく外れない。
棍棒を持った別のゴブリンが、私を見た。
「そこの子、下がって!」
女性の声と同時に、盾の男性が私の前へ出た。棍棒が盾を叩く。私は反射的に後ずさりし、やっとケースを肩から外した。穂先の覆いを取って槍を引き抜くまで、ひどく長くかかった気がした。
学校で散々練習した動作なのに、手が震えている。
「槍、出せたな。無理に前へ来るなよ!」
盾の男性は振り返らずに言った。
「は、はい!」
私は槍を両手で持った。先端を敵へ向けるだけで、少し息ができるようになった。
通路から来たゴブリンは、十体近くになっていた。盾の男性と剣の女性が正面を抑え、後ろから矢が飛ぶ。弓を持った若い男性もいる。私は槍の届く距離へ入ってきた一体を突いた。穂先が肩をかすめただけで、ゴブリンはまだ動いている。
次の突きは、女性が横から押し込んだ敵の胸に当たった。
手に伝わった感触に、思わず息を止める。ゴブリンの体が崩れ、ほどなく消えていった。
初めて、自分で魔物を倒した。
喜ぶ余裕はなかった。通路の奥には、まだ影が動いている。
「左も来る!」
弓の男性が叫んだ。
振り向くと、左側にも通路があった。そこから現れたゴブリンが、広場の中央へ走っている。中央には、腰よりもずっと高い石の柱が立っていた。
ゴブリンが柱へ棍棒を振り下ろす。
鈍い音と同時に、視界の端で数字が点滅した。
《拠点耐久:96/100》
「柱を守るのか!」
剣の女性が走り出した。盾の男性も正面の敵を押し返し、柱の方へ向き直る。
私はようやく、視界に並んでいた文字を読むことができた。
《拠点防衛戦》
《制限時間:30分》
《複数の対象ダンジョンから参加者を転移・ランダム編成》
《拠点を守り、襲撃するモンスターを撃退してください》
《複数グループで成績を競います》
複数のダンジョン。なら、先生や夏帆たちもどこか別の場所にいるのだろうか。
考え終えるより先に、右の通路からも声が上がった。
「右は俺が見る!」
弓の男性が移動し、射線を確保する。剣の女性は柱の近くに残った。
四人、と私は数えかけた。
違う。私を入れて五人だ。
石柱の向こう側に、もう一人いた。灰色の髪をした、細身の男性。おそらく六十歳くらいだろうか。防具らしいものを着けておらず、手には飾り気のない短めの直剣を持っている。
あれは、最初に支給される武器に似ていた。
どうして、そんな装備でダンジョンにいたのだろう。初心者向けの場所を歩いていたところを、巻き込まれたのかもしれない。
その男性へゴブリンが駆け寄った。
「あっ、危な――」
声が最後まで出なかった。
男性は半歩だけ横へ動き、振り下ろされた棍棒をかわした。直剣が短く動く。ゴブリンが倒れると、男性はもう次の一体へ向き直っていた。
慌てた様子はない。防具がなくても戦えるくらい、経験がある人なのだろう。
私はそう考えて、すぐに目の前へ意識を戻した。
左から来たゴブリンが、柱の手前を抜けようとしている。私は槍を横へ向け、通り道をふさいだ。相手は一度足を止めたが、棍棒を大きく振りかぶって突っ込んでくる。
授業で習ったとおり一歩下がり、棍棒を空振りさせる。こちらの槍なら、まだ届く。私は腕を伸ばして突き、すぐ引いた。
「そう、その距離でいい!」
剣の女性の声が飛んだ。彼女が残りの敵を片づけたころ、最初に見えたゴブリンの群れはいなくなっていた。
私は槍を下ろしかけたが、通路の奥を見て穂先を上げ直した。まだ終わっていない。視界の片隅では、オラクルライブの配信中表示も消えずにいる。
「全員、怪我は?」
剣の女性が周囲を見回す。
「こっちは平気だ」
「私も、大丈夫です」
返事をしたのとほぼ同時に、別の通路から足音が聞こえ始めた。今度は重い。最初のゴブリンより大きな影が混じっている。
「次が来る。話はあと!」
結局、名前も聞けなかった。
今度の敵には、盾を持つゴブリンがいた。ゴブリンウォリアーだ。何体かが並んで進み、その背後から石が飛んでくる。
盾の男性が正面で受け止めると、剣の女性が横へ回った。男性の踏み込みも、女性が横へ回る速さも、さっきより鋭い。身体強化を使っているのかもしれない。私はまだ習得していない魔法だ。
だが敵も簡単には崩れず、石柱へ向かう一体を止めきれない。
槍の柄を握り直した。倒せなくても、足を止めればいい。
盾の隙間へ穂先を伸ばすと、ゴブリンウォリアーが反射的に身を引いた。その一瞬で女性の剣が入り、敵の盾が傾く。すかさず男性の盾がぶつかり、道をふさいだ。
さっきよりうまく動けた。私にも、できることはある。
「槍の子、そこを頼む!」
「はい!」
返事をした直後、背後で何かが倒れる音がした。
振り返ると、先ほどの年配の男性が、石柱の反対側で剣を引いていた。地面にはゴブリンが二体消えかけている。
いつ向こうへ移動したのだろう。
さっきまで私の視界の左端にいたはずなのに、もう柱の裏側へ回っている。敵に追われたようには見えなかった。
「そちら、次が右から来ますよ」
男性が穏やかな声で言った。
「え?」
弓の男性が右を向く。遅れて、通路の奥から新たなゴブリンが飛び出してきた。
「本当だ!」
弓が鳴る。矢が一体を倒し、後続の進路を妨げる。その間に灰色の髪の男性が右へ向かった。
私は敵の数を数えるだけで精いっぱいだった。あの人には、まだ姿の見えない敵まで分かるのだろうか。
いや、足音かもしれない。経験者なら聞き分けられるのかもしれない。
そう思っても、自分にはまるで分からなかった。
それから何度、敵が来たのか。
ゴブリンだけだった群れにオークが混じり始めると、空気が変わった。斧を持った大きな体が通路をふさぎ、盾の男性が受け止めた瞬間、足を滑らせそうになった。
「重いな、こいつ!」
「下がりながら受けて! 私が横へ回る!」
二人の呼吸は合っていた。それでも、一体を倒すあいだに別の敵が柱へ近づく。弓の男性は矢を射る方向を何度も変え、軽い足運びで射線を取り直している。あの人も身体強化を使っているのだろうか。私は空いた道をふさぐので精いっぱいだった。
何度か突きを外した。腕が重くなり、槍を構える高さが下がる。息を整えたくても、次の敵が来る。
そのたびに、年配の男性がどこかへ現れた。
盾の男性を襲おうとした敵が、背後から倒れる。柱の陰へ回り込んだ敵が、いつの間にか消えている。弓の男性が射線を取り直す前に、そちらの通路が静かになっていたこともあった。
初めのうちは、運よく近くにいたのだと思った。だが、何度も続くと偶然では説明できない。あの人は戦場を走り回っているわけではないし、急いでいるようにさえ見えない。それなのに、誰かが困る場所に、必要なときにはもういる。
「おじさん、後ろ!」
私が声を上げたとき、オークの斧はもう振り下ろされていた。
男性は振り向きもしなかった。体を少し傾けると、斧が肩の外側を通り過ぎる。直剣の切っ先が動き、オークの脚が止まった。男性は崩れた相手へ追撃を入れ、そのままこちらを見た。
「ありがとうございます。気づいていましたから、大丈夫ですよ」
「あ、はい……」
私の方が助けられる側のはずなのに、なぜか礼を言われてしまった。
視界の端で《残り時間:12分》という文字が光る。
もうそんなに経ったのか。三浦先生たちは、どこにいるのだろう。夏帆も直樹も、それぞれ戦っているのかもしれない。通信ができなくなったという表示はない。それでも、スマホを取り出して連絡する余裕はなかった。
そのとき、広場の奥から、これまでとは違う音が聞こえた。
地面を、何かとても重いものが踏んでいる。
通路の向こうに、入口の上端に迫るほどの頭が現れた。壁の陰から太い腕が突き出し、肩と胴が続く。足が石畳を踏むたび、手の中の槍までわずかに震えた。
「タイタン……?」
剣の女性が、呆然とつぶやいた。
私も名前だけは知っている。A級の巨人型モンスター。学校の教材で見た写真より、ずっと大きい。
「まずい! 柱に寄せるな!」
盾の男性が叫んだ。
タイタンが腕を持ち上げる。石柱へ向かって振り下ろされれば、さっきのゴブリンどころの被害では済まない。
でも、どうやって止めるのだろう。盾を持った人たちでさえ、オークの攻撃を受けるのに苦労していた。
灰色の髪の男性が、タイタンの進路へ歩いていった。
「危ないです! あれ、A級です!」
自分でも分かっていることを、私は叫んだ。
男性は振り返り、少し困ったように笑った。
「ええ。あの剣では、ちょっと厳しいですね」
男性の手から、飾り気のない直剣が消えた。代わりに現れたのは、私の槍より長く、大きな刃を備えた武器だった。長い柄の先端に刃が左右へ張り出している。
収納スキルだ。
武器を持っていたこと自体は不思議ではない。高いレベルの探索者なら、複数の装備を使い分ける人もいる。
でも、あれだけの敵を倒しておきながら、さっきまでの剣は本当に初期武器だったのだろうか。
タイタンが腕を振り下ろした。
男性は横へ踏み込み、巨人の手が石畳を打つ直前に攻撃の線から外れた。さっきまでより足の運びが速く見える。身体強化をさらに強めたのだろうか。轟音とともに石の欠片が散る。その破片が落ちきらないうちに、男性は腕の脇を抜け、長柄武器の刃を巨人の脚へ打ち込んだ。
タイタンが膝を折りかける。だが倒れない。腕を振り回し、今度は横から男性を払おうとする。
男性はもうそこにはいなかった。
攻撃が通り過ぎるのを待って、再び距離を詰める。脚の同じ側に深い傷が重なった。巨人が向きを変えるたび、男性は石柱から離れる側へ回り込み、攻撃の方向をずらしていく。
「柱の近くの小さいのをお願いします!」
その声で、私は我に返った。右脇からゴブリンが一体、私を避けて石柱へ走ろうとしている。私は柱との間へ踏み込み、相手の進路に槍の穂先を向けた。
ゴブリンが急に止まり、棍棒を構える。私の突きを避けて体勢を崩したところへ、剣の女性が追いつき、横から斬り込んだ。ゴブリンは倒れ、ほどなく消えていった。別の一体は、弓の男性の矢を受けて倒れた。
柱の近くにいた小型の敵が、ようやく途切れた。私は周囲を見て、ほかにこちらへ向かう敵がいないことを確かめる。まだ私たちにも仕事がある。気づけば、握っていた槍の柄が汗で滑りそうになっていた。
そのとき、タイタンが腕を横に振り払った。石柱とは逆の方角へ飛び退いた年配の男性を追い、巨人が体の向きを変える。あの人は追われているのではない。こちらへ向かわせないよう、誘っているんだ。
男性は一歩だけ間合いへ入り、さっき傷をつけた脚を再び斬った。巨人の足が石畳をこすり、体勢を立て直そうとする。大きく腕を振るうたび、男性は振り始めを見ているかのように先に動いた。無理に距離を離すこともなく、刃が届く位置へ戻っては、同じ脚に傷を重ねていく。
タイタンの足がぐらついた。男性は踏み込みを止め、巨人の肩が沈むのを待つ。次の打撃が地面を叩いたところで横から斬り込み、ついに片膝が石畳へ落ちた。
それでも巨人は腕を伸ばして抵抗する。男性は柄の長さを生かしてその外側を回り、立ち上がろうとする体をもう一度崩した。膝をついた巨人が前へ倒れかけたとき、男性は長柄武器を深く突き込んだ。体が大きく傾き、伸ばした腕が石畳へ叩きつけられた。
あれほど広場を揺らしていた体が動かなくなり、やがて光の粒になって消えていった。
私はようやく息を吐いた。槍を握る手にはまだ力が入っている。盾の男性も弓の男性も、周囲を警戒しながら、ときどきタイタンの消えた場所へ目を向けていた。
灰色の髪の男性は、長柄武器をしまい、また最初の直剣を手にした。
「皆さん、怪我はありませんか」
まるで少し手伝いを終えたような口調だった。剣の女性が息をつき、肩のあたりを確かめる。
「私は大丈夫です。助かりました」
「俺も怪我はない」と盾の男性が答える。
「こっちも平気です」と弓の男性も続ける。
「私も、大丈夫です」
声に出した途端、肩と腕の疲れを強く感じた。けれど血は出ていない。次の足音が聞こえる前に、剣の女性が年配の男性へ向き直る。
「あの、お名前を伺っても?」
男性は少し戸惑ったように見えたが、すぐ答えた。
「神代咲雄です」
私は、その名前を知っていた。
今日の午前中、三浦先生が見せてくれた写真。蒼天竜域の120階層に挑んだ四人の探索者。あの中に、神代咲雄がいた。
「……『黎明』の、神代さんですか?」
男性は私の方を見た。
「ええ。ずいぶん昔のことですけど」
照れくさそうに笑う顔は、新聞写真に写っていた人とすぐには重ならない。あれから25年も経っているのだから、当たり前だ。
でも、この人は今もダンジョンにいる。25年前、誰もが知るほど危険な場所へ挑んだ人が、今も当たり前のように剣を握っている。盾の男性が思わず声を上げるほどの相手を、落ち着いて倒してしまった。
ダンジョンが現れて40年。私は生まれる前の出来事を、今朝までは教科書や古い写真の中の歴史として眺めていた。その時代を生きてきた人が、ここにいる。私が見たのは、その長い経験のほんの一部なのだろう。
また遠くで足音がした。防衛戦はまだ終わっていない。
神代さんは通路へ顔を向け、簡素な直剣を持ち直す。私はその背中を見つめて、小さく呟いた。
「……老人を見たら、生き残りと思え、か」
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