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老人を見たら生き残りと思え ~ダンジョン歴40年の探索者は、今日も気ままに冒険する~  作者: アレグリア
序章

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序章03 生き残りの老人

~陽菜side~


足の裏に、硬い感触が戻った。

私は膝を折りかけ、どうにか踏みとどまった。さっきまで目の前にあった階段も、三浦先生もいない。代わりに、広い石畳と、四方を囲む高い壁があった。正面には大きな通路が開き、少し離れたところに、見知らぬ人たちが立っている。

私の手には、まだ畳みかけの地図があった。


「え……」


何かが石畳を叩く音がした。


正面の通路から、棍棒を持ったゴブリンが飛び出してきた。続いて二体、三体。こちらを見つけた先頭の一体が、甲高い声を上げて走り出す。


「来るぞ!」


金属のぶつかる音が響いた。

私より前にいた大柄な男性が、盾で棍棒を受け止めていた。ぶつかった衝撃で男性の腕が揺れる。すぐ隣から、剣を持った女性が踏み込み、ゴブリンを斬り伏せた。

そこでようやく、私は自分が武器を構えていないことに気づいた。

槍は背中のケースに入ったままだ。地図を上着のポケットへ押し込み、肩の留め具に手を伸ばす。指が滑って、うまく外れない。

棍棒を持った別のゴブリンが、私を見た。


「そこの子、下がって!」


女性の声と同時に、盾の男性が私の前へ出た。棍棒が盾を叩く。私は反射的に後ずさりし、やっとケースを肩から外した。穂先の覆いを取って槍を引き抜くまで、ひどく長くかかった気がした。

学校で散々練習した動作なのに、手が震えている。


「槍、出せたな。無理に前へ来るなよ!」


盾の男性は振り返らずに言った。


「は、はい!」


私は槍を両手で持った。先端を敵へ向けるだけで、少し息ができるようになった。


通路から来たゴブリンは、十体近くになっていた。盾の男性と剣の女性が正面を抑え、後ろから矢が飛ぶ。弓を持った若い男性もいる。私は槍の届く距離へ入ってきた一体を突いた。穂先が肩をかすめただけで、ゴブリンはまだ動いている。

次の突きは、女性が横から押し込んだ敵の胸に当たった。

手に伝わった感触に、思わず息を止める。ゴブリンの体が崩れ、ほどなく消えていった。

初めて、自分で魔物を倒した。

喜ぶ余裕はなかった。通路の奥には、まだ影が動いている。


「左も来る!」


弓の男性が叫んだ。


振り向くと、左側にも通路があった。そこから現れたゴブリンが、広場の中央へ走っている。中央には、腰よりもずっと高い石の柱が立っていた。

ゴブリンが柱へ棍棒を振り下ろす。

鈍い音と同時に、視界の端で数字が点滅した。


《拠点耐久:96/100》


「柱を守るのか!」


剣の女性が走り出した。盾の男性も正面の敵を押し返し、柱の方へ向き直る。

私はようやく、視界に並んでいた文字を読むことができた。


《拠点防衛戦》

《制限時間:30分》

《複数の対象ダンジョンから参加者を転移・ランダム編成》

《拠点を守り、襲撃するモンスターを撃退してください》

《複数グループで成績を競います》


複数のダンジョン。なら、先生や夏帆たちもどこか別の場所にいるのだろうか。

考え終えるより先に、右の通路からも声が上がった。


「右は俺が見る!」


弓の男性が移動し、射線を確保する。剣の女性は柱の近くに残った。


四人、と私は数えかけた。

違う。私を入れて五人だ。


石柱の向こう側に、もう一人いた。灰色の髪をした、細身の男性。おそらく六十歳くらいだろうか。防具らしいものを着けておらず、手には飾り気のない短めの直剣を持っている。

あれは、最初に支給される武器に似ていた。

どうして、そんな装備でダンジョンにいたのだろう。初心者向けの場所を歩いていたところを、巻き込まれたのかもしれない。


その男性へゴブリンが駆け寄った。


「あっ、危な――」


声が最後まで出なかった。

男性は半歩だけ横へ動き、振り下ろされた棍棒をかわした。直剣が短く動く。ゴブリンが倒れると、男性はもう次の一体へ向き直っていた。

慌てた様子はない。防具がなくても戦えるくらい、経験がある人なのだろう。

私はそう考えて、すぐに目の前へ意識を戻した。


左から来たゴブリンが、柱の手前を抜けようとしている。私は槍を横へ向け、通り道をふさいだ。相手は一度足を止めたが、棍棒を大きく振りかぶって突っ込んでくる。

授業で習ったとおり一歩下がり、棍棒を空振りさせる。こちらの槍なら、まだ届く。私は腕を伸ばして突き、すぐ引いた。


「そう、その距離でいい!」


剣の女性の声が飛んだ。彼女が残りの敵を片づけたころ、最初に見えたゴブリンの群れはいなくなっていた。

私は槍を下ろしかけたが、通路の奥を見て穂先を上げ直した。まだ終わっていない。視界の片隅では、オラクルライブの配信中表示も消えずにいる。


「全員、怪我は?」


剣の女性が周囲を見回す。


「こっちは平気だ」

「私も、大丈夫です」


返事をしたのとほぼ同時に、別の通路から足音が聞こえ始めた。今度は重い。最初のゴブリンより大きな影が混じっている。


「次が来る。話はあと!」


結局、名前も聞けなかった。


今度の敵には、盾を持つゴブリンがいた。ゴブリンウォリアーだ。何体かが並んで進み、その背後から石が飛んでくる。

盾の男性が正面で受け止めると、剣の女性が横へ回った。男性の踏み込みも、女性が横へ回る速さも、さっきより鋭い。身体強化を使っているのかもしれない。私はまだ習得していない魔法だ。

だが敵も簡単には崩れず、石柱へ向かう一体を止めきれない。

槍の柄を握り直した。倒せなくても、足を止めればいい。

盾の隙間へ穂先を伸ばすと、ゴブリンウォリアーが反射的に身を引いた。その一瞬で女性の剣が入り、敵の盾が傾く。すかさず男性の盾がぶつかり、道をふさいだ。

さっきよりうまく動けた。私にも、できることはある。


「槍の子、そこを頼む!」


「はい!」


返事をした直後、背後で何かが倒れる音がした。

振り返ると、先ほどの年配の男性が、石柱の反対側で剣を引いていた。地面にはゴブリンが二体消えかけている。

いつ向こうへ移動したのだろう。

さっきまで私の視界の左端にいたはずなのに、もう柱の裏側へ回っている。敵に追われたようには見えなかった。


「そちら、次が右から来ますよ」


男性が穏やかな声で言った。


「え?」


弓の男性が右を向く。遅れて、通路の奥から新たなゴブリンが飛び出してきた。


「本当だ!」


弓が鳴る。矢が一体を倒し、後続の進路を妨げる。その間に灰色の髪の男性が右へ向かった。

私は敵の数を数えるだけで精いっぱいだった。あの人には、まだ姿の見えない敵まで分かるのだろうか。

いや、足音かもしれない。経験者なら聞き分けられるのかもしれない。

そう思っても、自分にはまるで分からなかった。


それから何度、敵が来たのか。

ゴブリンだけだった群れにオークが混じり始めると、空気が変わった。斧を持った大きな体が通路をふさぎ、盾の男性が受け止めた瞬間、足を滑らせそうになった。


「重いな、こいつ!」


「下がりながら受けて! 私が横へ回る!」


二人の呼吸は合っていた。それでも、一体を倒すあいだに別の敵が柱へ近づく。弓の男性は矢を射る方向を何度も変え、軽い足運びで射線を取り直している。あの人も身体強化を使っているのだろうか。私は空いた道をふさぐので精いっぱいだった。

何度か突きを外した。腕が重くなり、槍を構える高さが下がる。息を整えたくても、次の敵が来る。

そのたびに、年配の男性がどこかへ現れた。

盾の男性を襲おうとした敵が、背後から倒れる。柱の陰へ回り込んだ敵が、いつの間にか消えている。弓の男性が射線を取り直す前に、そちらの通路が静かになっていたこともあった。

初めのうちは、運よく近くにいたのだと思った。だが、何度も続くと偶然では説明できない。あの人は戦場を走り回っているわけではないし、急いでいるようにさえ見えない。それなのに、誰かが困る場所に、必要なときにはもういる。


「おじさん、後ろ!」


私が声を上げたとき、オークの斧はもう振り下ろされていた。

男性は振り向きもしなかった。体を少し傾けると、斧が肩の外側を通り過ぎる。直剣の切っ先が動き、オークの脚が止まった。男性は崩れた相手へ追撃を入れ、そのままこちらを見た。


「ありがとうございます。気づいていましたから、大丈夫ですよ」


「あ、はい……」


私の方が助けられる側のはずなのに、なぜか礼を言われてしまった。


視界の端で《残り時間:12分》という文字が光る。

もうそんなに経ったのか。三浦先生たちは、どこにいるのだろう。夏帆も直樹も、それぞれ戦っているのかもしれない。通信ができなくなったという表示はない。それでも、スマホを取り出して連絡する余裕はなかった。


そのとき、広場の奥から、これまでとは違う音が聞こえた。

地面を、何かとても重いものが踏んでいる。

通路の向こうに、入口の上端に迫るほどの頭が現れた。壁の陰から太い腕が突き出し、肩と胴が続く。足が石畳を踏むたび、手の中の槍までわずかに震えた。


「タイタン……?」


剣の女性が、呆然とつぶやいた。

私も名前だけは知っている。A級の巨人型モンスター。学校の教材で見た写真より、ずっと大きい。


「まずい! 柱に寄せるな!」


盾の男性が叫んだ。

タイタンが腕を持ち上げる。石柱へ向かって振り下ろされれば、さっきのゴブリンどころの被害では済まない。

でも、どうやって止めるのだろう。盾を持った人たちでさえ、オークの攻撃を受けるのに苦労していた。


灰色の髪の男性が、タイタンの進路へ歩いていった。


「危ないです! あれ、A級です!」


自分でも分かっていることを、私は叫んだ。

男性は振り返り、少し困ったように笑った。


「ええ。あの剣では、ちょっと厳しいですね」


男性の手から、飾り気のない直剣が消えた。代わりに現れたのは、私の槍より長く、大きな刃を備えた武器だった。長い柄の先端に刃が左右へ張り出している。

収納スキルだ。

武器を持っていたこと自体は不思議ではない。高いレベルの探索者なら、複数の装備を使い分ける人もいる。

でも、あれだけの敵を倒しておきながら、さっきまでの剣は本当に初期武器だったのだろうか。


タイタンが腕を振り下ろした。

男性は横へ踏み込み、巨人の手が石畳を打つ直前に攻撃の線から外れた。さっきまでより足の運びが速く見える。身体強化をさらに強めたのだろうか。轟音とともに石の欠片が散る。その破片が落ちきらないうちに、男性は腕の脇を抜け、長柄武器の刃を巨人の脚へ打ち込んだ。

タイタンが膝を折りかける。だが倒れない。腕を振り回し、今度は横から男性を払おうとする。

男性はもうそこにはいなかった。

攻撃が通り過ぎるのを待って、再び距離を詰める。脚の同じ側に深い傷が重なった。巨人が向きを変えるたび、男性は石柱から離れる側へ回り込み、攻撃の方向をずらしていく。


「柱の近くの小さいのをお願いします!」


その声で、私は我に返った。右脇からゴブリンが一体、私を避けて石柱へ走ろうとしている。私は柱との間へ踏み込み、相手の進路に槍の穂先を向けた。

ゴブリンが急に止まり、棍棒を構える。私の突きを避けて体勢を崩したところへ、剣の女性が追いつき、横から斬り込んだ。ゴブリンは倒れ、ほどなく消えていった。別の一体は、弓の男性の矢を受けて倒れた。

柱の近くにいた小型の敵が、ようやく途切れた。私は周囲を見て、ほかにこちらへ向かう敵がいないことを確かめる。まだ私たちにも仕事がある。気づけば、握っていた槍の柄が汗で滑りそうになっていた。


そのとき、タイタンが腕を横に振り払った。石柱とは逆の方角へ飛び退いた年配の男性を追い、巨人が体の向きを変える。あの人は追われているのではない。こちらへ向かわせないよう、誘っているんだ。

男性は一歩だけ間合いへ入り、さっき傷をつけた脚を再び斬った。巨人の足が石畳をこすり、体勢を立て直そうとする。大きく腕を振るうたび、男性は振り始めを見ているかのように先に動いた。無理に距離を離すこともなく、刃が届く位置へ戻っては、同じ脚に傷を重ねていく。

タイタンの足がぐらついた。男性は踏み込みを止め、巨人の肩が沈むのを待つ。次の打撃が地面を叩いたところで横から斬り込み、ついに片膝が石畳へ落ちた。

それでも巨人は腕を伸ばして抵抗する。男性は柄の長さを生かしてその外側を回り、立ち上がろうとする体をもう一度崩した。膝をついた巨人が前へ倒れかけたとき、男性は長柄武器を深く突き込んだ。体が大きく傾き、伸ばした腕が石畳へ叩きつけられた。

あれほど広場を揺らしていた体が動かなくなり、やがて光の粒になって消えていった。


私はようやく息を吐いた。槍を握る手にはまだ力が入っている。盾の男性も弓の男性も、周囲を警戒しながら、ときどきタイタンの消えた場所へ目を向けていた。

灰色の髪の男性は、長柄武器をしまい、また最初の直剣を手にした。


「皆さん、怪我はありませんか」


まるで少し手伝いを終えたような口調だった。剣の女性が息をつき、肩のあたりを確かめる。


「私は大丈夫です。助かりました」

「俺も怪我はない」と盾の男性が答える。

「こっちも平気です」と弓の男性も続ける。

「私も、大丈夫です」


声に出した途端、肩と腕の疲れを強く感じた。けれど血は出ていない。次の足音が聞こえる前に、剣の女性が年配の男性へ向き直る。


「あの、お名前を伺っても?」


男性は少し戸惑ったように見えたが、すぐ答えた。


「神代咲雄です」


私は、その名前を知っていた。

今日の午前中、三浦先生が見せてくれた写真。蒼天竜域の120階層に挑んだ四人の探索者。あの中に、神代咲雄がいた。


「……『黎明』の、神代さんですか?」


男性は私の方を見た。


「ええ。ずいぶん昔のことですけど」


照れくさそうに笑う顔は、新聞写真に写っていた人とすぐには重ならない。あれから25年も経っているのだから、当たり前だ。

でも、この人は今もダンジョンにいる。25年前、誰もが知るほど危険な場所へ挑んだ人が、今も当たり前のように剣を握っている。盾の男性が思わず声を上げるほどの相手を、落ち着いて倒してしまった。

ダンジョンが現れて40年。私は生まれる前の出来事を、今朝までは教科書や古い写真の中の歴史として眺めていた。その時代を生きてきた人が、ここにいる。私が見たのは、その長い経験のほんの一部なのだろう。


また遠くで足音がした。防衛戦はまだ終わっていない。

神代さんは通路へ顔を向け、簡素な直剣を持ち直す。私はその背中を見つめて、小さく呟いた。


「……老人を見たら、生き残りと思え、か」

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