第1章08 馴染みの工房
~咲雄side~
昨日は、思いがけず大仕事になった。
朝起きたときには、まだ腕に少し重さが残っていた。あの巨人相手に方天画戟を振り回したんだから、まあ仕方がない。若い頃ならもう少し楽だった気もするが、そういうことを言い始めるときりがない。
昼には、昨夜のマグマイグアナのトマト煮込みを温め直した。ひと晩置いたせいか、肉にも味がよく染みている。パンをちぎって汁を拭いながら食べているうちに、昨日の騒ぎもずいぶん遠い出来事に思えてきた。
食器を片づけて、ふと収納の中の鱗を思い出した。
「そうだ。あれを届けておこう」
俺が持っていても使わない材料だ。三浦工房へ持っていけば、剛志たちが何かに役立ててくれるだろう。
車を出すと、夏の空は朝から変わらず青かった。日差しが強いせいか、信号待ちの間にも歩道を行く人たちは建物の影を選んで歩いている。途中の店先にかき氷の旗を見つけ、帰りに寄るのも悪くないなと思った。
三浦工房に着くと、開け放された作業場の扉から機械の音が聞こえた。車をいつもの場所に止めて、入口から声をかける。
「こんにちは。誰かいるかい?」
「おう、咲雄さん。今行く」
奥で作業していた剛志が工具を置き、こちらへ出てきた。
「今日はどうした?」
「昨日、マグマイグアナを倒してね。鱗が出たから持ってきたんだ」
「お、そりゃありがたい。昨日って、あの騒ぎのあった日だろう?」
「そうそう。俺は夕飯の材料を探しに行っただけだったんだけどね」
「夕飯でマグマイグアナを追い回す人間も、そうはいないぞ」
まったく困ったような顔をして、剛志が笑う。
収納から布包みを取り出して開くと、赤黒い鱗が大小重なっていた。長いものでも手のひらを少しはみ出すくらいだ。剛志は受け取ると、端の一枚を持ち上げて表と裏を眺めた。
「ほう。これなら菜月にも触らせてやれるな」
「何か作るのかい?」
「まだ決めちゃいない。使えそうな材料は実際に見せておきたいんだ。あいつ、頭では分かっていても、触ったことのないものが多くてな」
「それも勉強か」
「職人は手で覚えることも多いからな」
剛志は作業台に鱗を置き、奥の事務室へ声をかけた。
「真紀、咲雄さんが材料を持ってきてくれたぞ」
「はーい。今行きます」
帳面を手に現れた真紀は、俺を見るなり目を細めた。
「あら、咲雄さん。いらっしゃい。今日は何を?」
「マグマイグアナの鱗をひとまとめ。昨日採れた分だよ」
「分かりました。あとで仕分けておきますね」
真紀が帳面に書き込み、鱗を包んでいた布に札を付ける。いつもの手際だ。
「よかったらお茶でもどうです?」
「ありがとう。仕事の邪魔じゃないかい?」
「咲雄さんが来たくらいで止まる工房じゃありませんよ」
そう言って真紀は事務室へ戻っていった。
剛志たちが独立するとき、俺が工房を用意した。今もオーナーは俺だが、普段の経営は三浦一家に任せている。俺が口を出すことはほとんどない。
「おじさん、来てたんですか?」
菜月が作業場の奥から顔を出した。手に細長い革の帯を持っている。
「やあ、菜月ちゃん」
「ちょうどよかった。ちょっと試してもらいたいんです」
「俺に?」
「はい。使ってみないと分からないところがあって」
菜月は返事を待つより先に作業台へ戻った。剛志が小さく肩をすくめる。
「朝からそればかりやってるんだ」
「お客さんの注文?」
「練習用だよ。自信作らしい」
「お父さん、聞こえてますからね」
菜月が持ってきたのは、革製の短剣用の鞘だった。腰に下げる帯と留め具が付いている。表面には細かな模様が刻まれ、縫い目もきれいに揃っていた。
「これは格好いいね」
「ありがとうございます。でも、格好よくても使いにくかったら困るので」
「なるほど。それで俺の出番か」
「歩いたり、しゃがんだりしてみてください。できれば少し走る動きも」
菜月が用意した刃のない練習用短剣を差し、鞘を腰に留めてもらう。立っているぶんには収まりがいい。歩いても大して邪魔にはならなかったが、膝を曲げて腰を落とすと、鞘の先が太腿に当たった。
「おっと。ここが引っかかるな」
「やっぱりですか。もう少し後ろにした方がいいのかな」
「試してみるかい?」
「はい、お願いします」
菜月が留め具を外して位置を直す。もう一度着けてしゃがむと、今度は太腿に当たらない。ただ、腰をひねった途端、鞘が外側へ振れた。
「当たらなくなったけど、こっちはちょっと動きすぎるね」
「ううん……。角度を変えればいいと思ったんだけど」
俺が試しにもう一歩踏み出すと、鞘が遅れて揺れた。菜月はそれを見て、帯の付け根を指で押さえる。
「菜月。位置を変えるなら、留め具も見直さないと駄目だぞ」
いつの間にか剛志が横に来ていた。
「そこまで変えなくても、帯をきつくすれば……」
「きつくしたら動きにくいだろう。まず、歩いたときにどっちへ引っ張られるか見てみろ」
「……はい」
菜月はしばらく俺の腰元を見つめ、それから鞘を外した。作業台に置いた途端、革の帯を引いたり曲げたりし始める。もう直す場所が頭に浮かんだらしい。
「ありがとう、おじさん。次はちゃんとします」
「今のでもずいぶんよくできていると思うよ。完成したらまた見せておくれ」
「はい!」
「それ、前にも聞いたな」
「お父さんは黙ってて!」
菜月の返事に、剛志が声を立てて笑った。
そこへ真紀がお盆を持って戻ってきた。湯呑みと一緒に、小さな菓子まで載っている。
「菜月、また咲雄さんを捕まえてたの?」
「ちょうど試してもらいたかったんだよ」
「ちゃんとお礼は言った?」
「言ったってば」
「はは、俺も楽しませてもらったからね」
真紀に湯呑みを受け取り、作業場の隅の椅子へ腰を下ろす。入口から吹き込む風が汗ばんだ首筋を抜けた。冷房の効いた事務室ほど涼しくはないが、これはこれで悪くない。
「そういえば、おじさん。先週の競馬はどうでした?」
菜月は鞘を作業台に置いたまま、こちらを振り向いた。
「見事に外れたよ」
「またですか」
「またって。三連単はそうそう当たるものじゃないよ」
「だったら、もう少し当たりそうな馬を買えばいいのに」
「それじゃ面白くないだろう」
横で聞いていた剛志が、ふっと鼻を鳴らした。
「穴馬ばっかり選んでるんだから、当たらんのも当然だ」
「当たったときがいいんだよ。人気馬ばかりじゃ大きな配当は望めない」
「その『当たったとき』が、なかなか来ないんだろ」
ひどい言われようだ。まあ、否定できるほど最近の成績がよくないのも確かなんだが。
「今度のアイビスサマーダッシュは楽しみなんだ。ああいう直線競馬は、ちょっとしたことで着順が変わるからね」
「また人気のない馬ですか?」
「もちろん。それを三連単で狙うのが面白い」
「じゃあ、当たったら何かおごってくださいね」
「いいとも。盛大におごろう」
「外れたら?」
「そのときは次のレースがあるさ」
菜月は呆れた顔をしたが、剛志は「そいつは便利な考え方だ」と笑った。俺としては、いつまでも楽しみが尽きなくていい趣味だと思う。
お茶を飲み終える頃、剛志が別の作業台から金属の箱を持ってきた。手のひらより少し大きく、正面に丸い穴が開いている。
「そうだ、咲雄さん。これ、ちょっと見てくれ」
「何だい、それは」
「小型の撮影機を入れるケースだ。高温の場所で調査をするお客さんから頼まれてな」
「撮影機を守るのかい?」
「ああ。中の断熱部分と外枠を作ってる。ここの窓には深層結晶を使う予定だ」
剛志が丸い穴を指さす。俺が覗くと、内側にはまだ何も取り付けられていなかった。
「結晶を窓にするのか」
「熱に強くて透明だからな。切り出しと研磨は専門の業者に頼む。うちは組み立てと、実際に使う機械に合わせた調整が仕事だ」
「へえ。そういう使い方もあるんだね」
「無茶な温度で何時間も使えるようになるわけじゃないが、客の使い方に合わせて作ってるところだよ」
剛志は箱を作業台に戻した。
「それで咲雄さん。近いうちに秩父へ行く気はないか?」
「秩父?」
「深層回廊の方だ。深層結晶が採れるだろう。もし潜るなら、こっちにも回してもらえないかと思ってな」
秩父深層回廊か。そういえば、ずいぶんご無沙汰している。富士の岩場とはまた違った景色の場所だ。深い方は歩くだけでも面白かったのを覚えている。
「いいねえ。ちょうど、次はどこへ行こうかと思ってたんだ」
「行ってくれるか?」
「うん。久しぶりに潜ってみよう。採れたら持ってくるよ」
「助かる。いつ行けそうか決まったら、真紀にも知らせてやってくれ」
「分かった」
剛志がケースに蓋をかぶせたところで、事務室の扉が開いた。真紀が顔を出す。
「結晶の相談、まとまりました?」
「ああ。咲雄さんが秩父へ行ってみるそうだ」
「ありがとうございます。日程を教えていただければ、仕入れの予定を調整しますね。間に合わなければ、こちらで用意しますから」
「分かった。日が決まったら知らせるよ。採取のついでに、久しぶりの探索も楽しめそうだ」
「ふふ。そちらも楽しみなんですね」
剛志までにやにやしている。
「まあ、材料も頼むぞ」
「もちろん。採れたら持ってくるよ」
菜月が鞘から顔を上げた。
「おじさん、秩父へ行くんですか?」
「うん。まだ日付は決めてないけど」
「配信、見てもいいですか?」
「もちろん。潜れば勝手に始まるからね。ただ、岩を見ながら歩いてるだけかもしれないよ」
「それも面白そうです。昨日の話、お父さんに聞いたんですよ。大きな巨人を倒したって」
「ああ、あれか。俺も驚いたよ。いきなり別の場所に飛ばされたんだから」
菜月の手が止まった。
「怪我はしなかったんですか?」
「してないよ。帰ってから、ちゃんと夕飯も食べた」
「もう……。ご飯の話じゃなくて」
「はは、ごめんごめん。少し疲れたくらいで、今は大丈夫だよ」
「だったらいいですけど」
菜月は納得したらしく、また革の帯に目を戻した。作業台の上では、さっきの鞘の留め具がすっかり外されている。
「菜月ちゃんの方こそ、休憩したらどうだい?」
「これだけ直してからにします」
「まあ、ほどほどにね」
「おじさんも、次はちゃんとした武器を持って行ってくださいよ」
「ちゃんと持ってるよ。使うかどうかは別だけど」
「そういうところが心配なんです!」
剛志がまた笑った。俺も笑いながら、少し冷めたお茶を飲み干す。
そろそろ帰ろうと腰を上げると、真紀が湯呑みを受け取ってくれた。
「今度はゆっくりいらしてくださいね」
「今日だってずいぶん長居したよ。菜月ちゃんの仕事を止めちゃったし」
「試着をお願いしたのは私ですってば」
「そうだったね。完成、楽しみにしてるよ」
菜月に手を振り、剛志にも声をかけて作業場を出た。
外は、さっきより暑くなっている気がした。車に乗り込み、冷房を入れる。風が涼しくなるまでの間に、秩父へ行く予定を頭の中で並べてみた。
近いうちに関東まで行くなら、あの話も引き受けてみるか。
昨日、志保に頼まれた学生向けの話だ。人前でしゃべるのは得意じゃない。昔からそういう役回りは修司や志保に任せてきたし、高瀬だって俺よりよほど説明がうまい。
けれど、あの防衛戦で何を見ていたかを聞かれるくらいなら、答えられるだろう。ちょうど関東へ行くことになったのも何かの縁だ。
携帯電話を取り出して、志保にかけた。
「もしもし、咲雄? どうしたの?」
「今、少し話せるかい?」
「ええ、大丈夫よ」
「昨日の話なんだけどね。近いうちに関東へ行くことになったんだ。そのときでよければ、学生さんたちに話をしてもいいよ」
「まあ。本当に?」
「うん。ただし、難しい講義は勘弁しておくれ」
「分かってるわ。昨日も言ったでしょう。あなたが何を見て、どう判断したのかを聞かせてほしいの」
「それなら、何とかなるかな」
「学校と相談して、日程の候補を出すわね」
「ありがとう。こっちもまだ出発日を決めてないから、合わせられると思う」
志保の声は、昨日より少し弾んでいた。
「それで、関東には何をしに来るの?」
「三浦工房に頼まれてね。秩父の深層回廊で結晶を採ってくるつもりなんだ」
「あら、三浦さんのところのお仕事なのね」
「まあね。結晶を探しながら、少し探索もしてこようと思って」
「あなたの『少し歩く』は、昔からあまり当てにならないのよ」
「そんなことはないさ」
「ふふ。そういうことにしておくわ」
志保が少し間を置いた。
「そうだ。せっかくこちらへ来るのなら、修司と高瀬にも声をかけてみましょうか。四人で会う機会なんて、なかなかないもの」
「おお、それはいいね」
「二人の都合を聞いてみるわ。修司は急に予定が変わることもあるから、まだ約束はできないけれど」
「もちろん。顔を見られたら嬉しいな」
「講話も忘れないでちょうだいね」
「分かってるよ。でも、そっちの方が楽しみになってきた」
「まったく、あなたって人は」
電話の向こうで志保が笑った。俺もつられて笑う。
「じゃあ、また連絡するわ」
「うん。よろしく頼むよ」
通話を終えると、車内はすっかり涼しくなっていた。
秩父も久しぶりだし、修司や高瀬と会えるかもしれない。あいつらと顔を合わせたら、きっと昔の話で長くなるだろう。
そう思うと、まだ日取りも決まっていないのに、少し楽しみになってきた。
さて。帰りに、さっきのかき氷でも食べていこうか。
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