カイラード⑥
そうして言葉は少なくとも確かにそこにある温もりに救われながらしばらくの時が流れた。
茜色の鮮やかな夕暮れが図書室を優しく染め上げた、ある日のこと。
カイラードはついにずっと胸に温めていた問いを口にした。
「名前を、聞いても良いだろうか」
予想外の言葉だったのか彼女の本をめくる手が止まる。
そうしてゆっくりと顔を上げるといつもと変わらない穏やかな瞳でカイラードを見つめた。
「はい、殿下。私はセシリア・ローレルでございます」
「ローレル、というと伯爵の……」
「さようでございます」
ローレル伯爵領。それは王都から少し離れた場所に位置する豊かな小麦の名産領だった。
(ローレル家は、確か中立派だったな……)
長年叩き込まれてきた貴族の派閥を瞬時に思い出しカイラードは胸の内で小さく安堵の息を漏らした。
彼女の実家は、アルティエのラステロウ侯爵家とも、ユーリスの母親である側妃の公爵家とも深く関わりのない立場を貫いている。
その日を境にセシリアは少しずつ自分のことを話してくれるようになった。
自分が伯爵家の総領娘であること。カイラードと同じ学年で学園を卒業したらすぐに領地に帰り、次期領主として大好きな故郷の伯爵領を豊かに盛り立てたいと思っていること。
そのために、学園にいるうちに様々な分野の本を読み多くの知識を仕入れておきたいのだということ。
「領民みんなが豊かで、笑顔で暮らせるいい領地にしたいんです」
「そうか……」
セシリアが生き生きと語る領地経営の話はカイラードにとってまさに目から鱗が落ちる思いだった。
今までの彼は、華やかな王宮と身分制度の縮図のような学園という狭い世界しか知らなかった。王位を巡る泥沼の権力闘争にばかり気を取られ、王都から遠く離れた地で人々がどのように土を耕しどのような改良を重ねて日々を生きているのかなど深く考えたこともなかったのだ。
セシリアと共に語り合ううちに、カイラードは王太子としてどう振る舞うべきか、という目先の体裁ではなく、自分に何ができるのか、この国のために何をなすべきなのかを生まれて初めて主体的に考えるようになっていた。
(ずっと王太子という立場にしがみつくだけで、その責任をどう果たすかだなんて真剣に考えたこともなかったな……)
思い返せば、これまでの自分の頭を占めていたのはいつも矮小で自己憐憫に満ちたことばかりだった。
常にユーリスの影だと自分の不甲斐なさを呪い、アルティエが冷たいと婚約者に不満を抱き、カリナが優しく癒やしてくれた、と甘い罠に依存する。
そんな与えられた環境への愚痴と目の前の人間関係の損得ばかりに振り回されて生きていたのだ。
(私は、王太子という重責を担いながら国のために何一つなしていなかった。彼らの陰謀を恨む前に私自身が王たる器としてあまりにも空っぽだったのだな)
それは、これまでの自分を全否定するような、痛烈な自省だった。
そうして、改めて自身の能力の限界と国のあり方の方向性を考えるようになっていった。
そうして、卒業までの日々は過ぎていく。
カリナは変わらずカイラードが自分を好いているということを疑いもせず、相変わらずアルティエがカリナに嫉妬していじめを行っていることを報告しては側近たちが憤る。
そんなことを繰り返していた。
そしてカイラードは、そのカリナや側近たちの言葉を決して否定しなかった。
「ああ、それは酷い話だね」
憐れみと怒りを完璧に作り込んだ王子としての微笑みを貼り付けすべてに優しく頷き返すことだけを繰り返していた。
周囲は特に伯爵以下の貴族たちはそんなカイラードとカリナをみて二人は真実の愛で結ばれているとささやきあうようになった。
それに味を占めたのか側近の一人が「ラステロウ侯爵令嬢の冷酷な心根は、到底、次期王妃に相応しいとは思えません」とつぶやいた。
それに賛同するように他の側近たちも深く頷く。
「同感だ。カリナちゃんのように心優しく、民の痛みがわかる令嬢こそが、この国の真の王妃になるべきだ」と。
その言葉はカリナに執心していた彼らにとって正義になった。そこには卒業後も彼女との縁を切りたくない、彼女を自分たちの手の届く場所に囲い込んでおきたいという、男たちの醜い独占欲も見え隠れしていた。
(こいつら…一体なにを言ってるんだ?)
あまりの妄言にカイラードは冗談だとばかり思って口は挟まなかった
しかし、彼が沈黙を守っていることを側近たちは「殿下も自分たちと同じ思いなのだ」と都合よく勘違いしていった。
「そうだ。卒業パーティーの席で、ラステロウ侯爵令嬢との婚約破棄を突きつけましょう! そして、カリナ嬢との真実の愛を宣言し彼女を正妃に迎えるとみんなの前で宣言するのです!」
(こいつら…こんなにも馬鹿だったのか?)
おかしな言動をとる友人たちを前にカイラードは困惑したような声を絞り出した。
「……王命による婚約だぞ?簡単に破棄などできるわけがないだろう。お前たちは何を言っているんだ?」
「いえ、ラステロウ侯爵令嬢の本性を暴けば陛下も考え直されます。それに殿下も下位貴族の正当性を重んじるべきだと上奏なさっていたではないですか。下位貴族からの王妃誕生こそ、この国にとっても革新的なものになります。それに現王妃も国王陛下との真実の愛で結ばれたではないですか」
「そうですとも。今時、政略結婚なんて古臭い制度は、悪習としてやめるべきだ!」
熱に浮かされたようにあれよあれよと側近たちは卒業パーティーでの婚約破棄をもくろみ始めた。
カリナは最初、青ざめた顔で恐れ多いと固辞していたが、側近たちの熱量におされたのか、自身が王妃になる夢を見たのか、最終的には側近たちの案にうなづいていた。
カイラードは急におかしくなった彼らを冷静に観察し、一つの考えを思い浮べていた。
(…ユーリス、か?)




