カイラード⑤
それからというもの、カイラードは放課後になると図書室の最奥で時間を潰すようになっていた。
誰の目も届かない古書の匂いに満ちたその場所は今の彼にとって世界で唯一深く息をつくことができる非常に落ち着く場所だった。
図書室の利用者がいなくなったころ、図書委員として戸締りをする彼女に一言「また明日」と挨拶をして帰る。
それがいつしか彼の新しい日課になっていた。
あえて名前は聞かなかった。
やはりまだカイラードの心には、他者への疑心暗鬼が根深く残っていたせいもある。
だがそれ以上に彼女の方からも自らの素性を名乗ったり王太子である彼に媚びを売ったりすることが一切なかったからだ。
ただそこにある静かな距離感。それだけが今のカイラードには心地よかった。
そうして側近やカリナたちから物理的に距離ができ心に余裕ができはじめた。
しかし、カイラードが思い通りに動かなくなり、アルティエもカリナも焦ったのだろう。
カリナはいままで以上に側近たちを巻き込んで付きまとってくるようになった。
その日は、特に酷かった。
いつも以上にカイラードに付きまとおうとしており辟易した彼は彼女たちの目を盗み図書室に逃げ込んだ。
しかし、彼女たちはあきらめずに聖域であったはずの図書室にまで探しに来たのだ。
「カイラード様~? どこにいらっしゃるんですか?」
「殿下、生徒会の書類がまだ残っていますよ」
カイラードは薄暗い書庫の影に身を潜めていたため、すぐに見つかることはなかった。
けれど奴らが諦めずに奥の方まで探しに来ているのがわかった。
足音が確実に近づいてきている。
このままでは見つかってしまいそうだ。だが逃げ場がない。
(……ああ、駄目か。この場所が見つかってしまえば、もう私はどこにも隠れることができない)
絶望が頭をよぎったその時だった。
「皆様、図書室ではお静かにお願いします」
凛とした声が響いた。受付の彼女だ。
「ここでは大声での私語は他の方々の御迷惑となりますのでお控えください」
「殿下を探しに来ただけだ。うるさいな」
「ご理解いただけないようでしたら、今すぐ司書教諭の先生をお呼びして対応していただくしかございませんが……」
「チッ…わかったよ、探し終えたらすぐ引き上げる!」
彼女が毅然とした態度でカリナたちを引き留め、注意を引きつけてくれている。
その隙を見逃さず、カイラードは息を殺して書架の死角をくぐりながら見つからないように移動した。
おかげで、カリナたちが彼女の静止を振り切るようにして奥の書架へと向かうのと入れ替わりで、カイラードは素早く受付のカウンターまで戻ってきた。
すると、図書委員の彼女はカイラードに迷うことなく自分の受付机の下を指差した。
「どうぞ中に」
カイラードは迷うことなく狭い机の下に身を潜めた。
どうやらどれだけ探してもカイラードを見つけることができなった面々は受付の方へ戻ってきたようだ。
「おかしいわね、ここに入っていくのが見えたと思ったのだけど……」
「カリナちゃん、殿下はもう今日は王宮に帰ったのかもしれないよ」
頭の上から聞こえる彼女たちの不満げな声が聞こえる。カイラードは心臓がバクバクしながらただじっと気配を殺して聞いていた。
机の主である女生徒は、何事もなかったかのように平然とした顔で受付に座り我関せずを貫いている。
しばらくするとバタンと重い図書室の扉が閉まり、ようやく静寂が戻ってきた。
(…行った、か…?)
緊張がまだ解けないなか、トントンと机の天板が軽く叩かれた。
「……もう、大丈夫ですよ」
狭い机の下から這い出て、床に座り込んだまま、はぁーと息を吐き出すカイラード。
彼女は悪戯が成功した子供のように口元を手で隠して小さく笑った。
「ふふっ。びっくりしましたね」
その裏表のない心からの楽しげな声を聞いた瞬間、カイラードも思わずふっと笑みがこぼれた。
しだいに張り詰めていた緊張が弾け飛び、彼は危うくその静かな図書室で大声を上げて笑いそうになっていた。
「驚いたのなんてものじゃないよ……。まさか、机の下に隠されるなんて思わなかった」
「お役に立てて光栄です、殿下」
声を潜めながら、二人でくすくすと肩を揺らして笑い合う。
そんなたわいのないことがうれしくて…。
カイラードは久しぶりに、本当に久しぶりに心が解放された気分になった。
それから、カイラードの居場所は薄暗い書庫の影ではなく受付の机の下になった。
聖域を守るため少しの時間を生徒会室に立ち寄り、彼らのガス抜きをしてから図書室向かい、黙って机の下にもぐる日々。
彼女は、カイラードが狭い足元で本を読もうが、ただぼんやりと天井を見上げていようが、深くは突っ込んでこなかった。
ただ、彼がそこにいるのが当たり前であるかのように何も言わず、自身も静かに手元の本を読み続けている。
けれど、冷えないようにといつもストールを余分に用意してくれたり、たまに「どうぞ」とクッキーを差しだした。自身が先に口に入れ「毒見です」と悪戯っぽく微笑みながら。
毒見を気にするあたり、彼女もそれなりの高位貴族の令嬢なのだろう。
そんな推測が頭をよぎったが素性を知ってしまったらこのような雰囲気が崩れそうで、カイラードはなかなかその言葉を口にすることができなかった。




