カイラード④
イルム男爵家は巧妙に隠されていたがラステロウ侯爵の派閥であった。
しかも学年に入る2年前に水害により橋が流され男爵家はかなりの借金を抱えていた。
さらにカリナには病弱な妹がおり、借金により妹の薬代が捻出できないほどだった。
本来カリナは学園に通うこともままならない状態だったのに、それ侯爵家が援助することで彼女は学園に通えていた。
(カリナは、アルティエの家に莫大な恩義がある……。ということは、彼女はアルティエの指示で生徒会に入り、私をたぶらかしたということか?)
つまりはハニートラップ要員ということだろう。
侯爵家から王命をはねのけない。ならば王家側から破棄せざるを得ない状況を作ればいい。愚鈍な王太子が男爵令嬢に現を抜かしたという瑕疵をつくり被害者となるべく動いていたということか。
(アルティエはそこまでして、私との婚約を破棄したかったのか…)
信じていたカリナの愛も、救いだと思っていた生徒会室の温もりも、すべてはカイラードを破滅させるために用意された偽物の舞台だった。
「ふ、ふふ……あはははは!」
誰もいない自室でカイラードは狂ったように笑った。
初恋だった婚約者には最初から虫ケラのように蔑まれ、絶望から救ってくれたはずの少女には、金のために心を弄ばれていた。
胸を引き裂かれるような裏切りの痛みが、彼の心をズタズタに引き裂いていく。
(そしてこれは、アルティエ一人の企みではない。父親である侯爵自体も確実に絡んでいる……!)
これほどの大金を動かし、巧妙に裏工作をしているのだ。
ラステロウ侯爵家は第二王子のユーリスを次の王として台頭させるつもりなのだ。
ならば、側妃の実家である強力な公爵家もすでにその心積もりで動いているに違いない。
(この話はいつから出たんだろう…。少なくても私との縁を結ぶときにはなかったはずだ。でなければ、いくら王命として突っぱねられたはず)
「もしかして…」
それは生徒会に入会して自信をつけたカイラードが多くの生徒たちと交流を持ち、下位貴族のとある生徒から王宮の文官枠や騎士枠の見直しを頼まれた。彼はそれを父である国王に上奏したことがあった。
彼にとっては王族としての視野を広げようと熱心に動いていたころに、たまたまそのような意見が出たための純粋な進言だった。が、それは一部の貴族、いわゆる忖度が横行している高位貴族たちにとって自分たちの絶対的な特権と派閥のパワーバランスを根底から覆しかねない施策だった。
そのためカイラードのその考えは極めて危うい反逆の思考だと受け取られたのだろう。
本物の無能であれば傀儡として泳がせておける。
だが、下位貴族の支持を集めて持ち上げられた王太子など侯爵たちにとっては排除すべき最大の脅威でしかなかったのだ。カイラードが王になったらそれこそだ。
だが、もうどうでもいい。大人の事情だろうがなんだろうが、カイラードを罠にかけようとしてたのは間違いないのだから
けれど、彼はこの真実を誰にも言わなかった。
(大体にして証拠もないしな…)
例えば、カリナに「どうして騙したんだ」と詰め寄れば彼女は側近たちに泣きつきカイラードを妄想に取り憑かれた頭の可笑しい男に仕立て上げてくるだろう。
例えばアルティエに「お前たちが仕組んだのだろう」と激昂のままに問い詰めれば、それこそ高位貴族への根拠なき不敬として糾弾されてしまう。
どちらに転んでもカイラードを都合よく処理する未来しか予測できない
(この話は側近たちもしっているのか?それとも…)
一度疑念が芽生えれば、もう止まらない。
カイラードはカリナだけでなく共に学んだ友人たちすらも信じられなくなっていた。
信じられる人間がこの世界には一人もいなかった
だから、カイラードは笑った。
怒りも、絶望も、苦しみも、すべてを仮面の裏に隠して。
これまで通り何も知らない愚かな王太子を完璧に演じ続けることにした。
それが、誰にもこれ以上の隙を与えないための唯一の自衛策だった。
だけどアルティエとカリナの裏切りを知りながら笑い続けられるほどカイラードの心は強くなかった。
あれほど救いであり、楽しかった生徒会室に長居することはできなくなった。
カリナが甘い声をかけてくるたびに、側近たちが肩を組んで話しかけてくるたびに吐き気がせり上がってくる。
彼は逃げ出したかった。誰も自分を知らないところへ。本当の静寂が欲しかった。
だけど彼らは、彼女はどこまでもついてくる。
用事を作って教室に残っていれば呼びに来て生徒会室へ連れていかれる
気分が悪いといえば医務室へも心配そうな顔をして付き添いと称して付きまとう。
カイラードの精神は、すでに限界だった。
そうして彼らから逃げ惑う中、ある日図書室の奥へと足を向けた。
数人の利用者の中をかいくぐりさらに奥まった薄暗い書架の影。
誰の目にも触れないその場所で、カイラードはついに堪えきれなくなって壁に背を預けてずるずると崩れ落ちた。
声を出すことすら怖くて、両手で顔を覆い、ただ静かに涙を流した。
惨めで、情けなくて、孤独に胸が押しつぶされ身体の震えが止まらなかった。
どれほどの時間が経っただろう。
泣き疲れて、カイラードはいつの間にか冷たい床の上で眠ってしまっていた。
ふと目が覚めると、冷え切っているはずの身体に、微かな温もりを感じた。
不思議に思って肩に手をやると見慣れない上質なストールがカイラードを包み込むようにかけられていた。
戸惑いながら、ストールを手に図書室の入り口まで戻ってみる。
すると「……あ、気が付かれましたか?」と受付で静かに本を読んでいた女生徒が顔を上げた。
彼女は何も聞かずただ静かに微笑んでいた。その女生徒はアルティエのように美人でもカイラのように可愛らしいわけでもない。言ってみれば地味な女生徒だった。
けどその琥珀色の瞳には、彼を陥れようとする者たちが持つような濁った野心や憐れみは微塵も存在しなかった。
「…下校の時間が過ぎておりますが、とてもよくお眠りになっていたので」
「そうか…すまない。君の帰宅まで遅くさせてしまったようだね」
我に返ったカイラードが慌てて謝ると彼女は小さく首を振った。
「いえ、私は寮生活ですのでここを出ればすぐ帰れます。それより殿下があまり遅くなられると、周囲の方々が心配されますので」
「…このストールは君の?」
「あ、すみません。私のものです。殿下におかけするにはこのような古いものは失礼かと思ったのですけど…、床が冷えておりましたので」
申し訳なさそうに身を縮める彼女を見て、カイラードの頑なだった心がほんの少しだけ融かされるのを感じた。
「いや、おかげで風邪をひかずに済みそうだ。…ありがとう」
「もったいないお言葉です」
彼女はもう一度おっとりと微笑んだ。 その誰もいない静かな図書室で交わされた短い会話が、傷だらけのカイラードの心にすこしだけ安らぎを与えてくれた。




