セシリア①
その日セシリアは領地を回っていた
見渡す限り広大な大地を、優しく吹き抜ける風が一面の小麦の穂を揺らしていく。
あの卒業パーティーが騒がしくも閉会した翌日、領地へ戻ったセシリアは父親であるロータス伯爵の後を継ぐべく領地の仕事に邁進していた。
セシリアは父から「総領娘とは言え、たかが地方貴族だから好きにしていい」と婚約については割と自由な権限を与えられていた。だが…いまだ決めかねていた。
風に吹かれながらながめる黄金の大地はカイラードの蜂蜜色の髪を思い出させた。
カイラードは覚えていないだろう。
セシリアが生まれ育った領地を離れ、王都の学校に入学したあの日。あまりの広さに圧倒され、講堂への道に迷って焦るあまり足をもつれさせて転びそうになった。
その身体を優しく受け止め、転びそうになったセシリアを気遣って念のためと医務室へ優しく導いてくれたのは他でもないカイラードだった。
美しく優しい王太子。セシリアの初恋だった。
だけどカイラードには完璧な淑女たる高貴な婚約者がおり、地方貴族のセシリアなんかが近づけるはずもなくただ遠い場所から眺めるのが関の山だ。
それでも彼が楽しそうに学生生活を送っているのを見ることができるだけでセシリアは幸せだった。
けれど、一年後に学校に入学してきた婚約者のアルティエは、カイラードに対してどこかよそよそしく、お世辞にも仲が良そうには見えなかった。
さらに弟殿下と婚約者の優秀さを称える噂がたつに従いカイラードの表情が日ごと曇っていくのが見て取れた。その姿にセシリアは胸を痛め心配していた、その矢先。
カイラードの側に寄り添うようになったのは可愛らしい砂糖菓子のようなカリナだった。
世間では「王太子が婚約者をないがしろにしている」などという悪趣味な噂も流れたが、実際はアルティエの方がカイラードを避けているようだった。セシリアはそのアルティエの拒絶にカイラードが密かに傷ついているように感じていた。
だからこそカリナの隣でカイラードが幸せそうに笑うようになった姿を見た時、セシリアはそれがたとえ自分の側ではなくても心の底から安堵していたのだ。
彼が笑顔でいてくれるなら、それでいい、と。
ところが、図書室の暗い書庫の奥で偶然に彼を見つけたあの日。
誰の目にも触れない場所で、一人ひっそりと横たわっていたカイラードを見つけたときには心臓が止まるかと思うほど驚いた。
高貴な美貌に涙のあとを残しながら深く眠る彼の姿を見た時、セシリアは自分にはわからない彼の孤独を思いやった。けれど、たかが地方貴族の、学園でも目立たないような自分には何もできるはずもなく…、せめてこの静かな空間を邪魔しないように守り、冷えないように自分のストールをそっとかけてあげることしかできなかった。
だが、結果的にそれが良かったのだろう。
彼は、孤独に押し潰されて今にも壊れてしまいそうな心を守るため、ただ一人になれる場所を何よりも必要としていたのだ。
予測に反して、その暗い書庫はカイラードにとっての特別な聖域になったようだった。それならば、セシリアにできるのは、あの方が誰の目も気にせず休めるようその聖域を全力で守ってあげることだけだった。
だからこそ、その聖域を壊そうとするかのように、カリナが彼を追いかけて図書室に押しかけてきたきたときは、生きた心地がしなかった。
見つかれば、彼の安らぎの場所が奪われてしまう。
焦るセシリアの元へ滑り込んできたカイラードをとっさに自分の机の下へと匿うことができたのは、まさに僥倖だった。
自分の目の届く範囲で彼を守ってあげれる。それはセシリアにとってほの暗い喜びだった。
さらに、いつしか彼は自分の家名を呼んでくれただけでなく、故郷であるロータス領のことについても熱心に興味を持ってくれるようになった。そうして未来についての話ができるようになったことは、セシリアにとって天にも昇るほどの幸福だった。
けれど、そんな甘美な時間は残酷なほどあっという間に過ぎ去っていった。
学校を卒業すれば、カイラードは王宮で王太子として生きていき、セシリアは一地方貴族として領地に戻り生きていく。二度とこうして交わることはないのだろうと胸の奥が寂しさで苦しくなった。
卒業を間近に控えたころ、カイラードは再び何か深く悩んでいるようだった。
だが、どれほど距離が近づいても、彼がその悩みをセシリアと共有することはなかった。
(……相談相手にすらなれないのね。私なんかが殿下の悩みを解決できるはずもないものね)
自分の立場がちっぽけに思えてセシリアは悲しくなった。けれどそれを悟られることは小さなプライドが邪魔をして、そんな嫌な自分に気づかれないように静かに微笑むことでごまかして、彼の隣で日々を過ごした。
ただ、そんなセシリアに、カイラードは最後にひとつだけ奇妙な問いを投げかけてきた。
アルティエと弟であるユーリスについて、どう思うか、と。
正直に言えば、セシリアはアルティエに対して良い感情など微塵も持っていなかった。
カイラードを拒絶し、その心を深く傷つけている元凶は彼女だと直感的に察していたからだ。
だが、自身の身分で不用意な口を叩けば不敬罪に問われかねない。
セシリアは慎重に言葉を選びながら、けれど大好きな人を傷つける者へ己の胸の内にあった素直な気持ちを、ほんの少しだけ彼に吐露したのだった。
セシリアたんは始めからカイラードに恋しちゃてたんだよ〜の回




