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閑話⑩ 「“桜井桃華”という本気」


■夜・少し改まった空気


夜の部屋は、昼間よりも静かだった。


テレビもつけていない。

時計の音だけが、やけに耳につく。


ソファに座る桜井桃華を前に、水上颯太は珍しく真剣な顔をしていた。


「……もう一回、頼む」


「また?」


桃華は軽く肩をすくめる。


「さっきもやったじゃん」


「さっきのじゃダメだ」


即答だった。


その強さに、桃華が少しだけ目を細める。


「なに、急に」


颯太は一度言葉を飲み込んでから――静かに立ち上がる。


そして、そのまま。


床に手をついた。


「お願いだ」


「ちょ、ちょっと待って!?」


桃華が思わず立ち上がる。


「なにしてんの、ほんとに!」


颯太は顔を上げないまま続ける。


「“斉藤もも”はもう見せてもらった」


「うん」


「だから今度は――」


少しだけ声が震える。


「“桜井桃華”を見せてほしい」


その言葉で、空気が止まった。


桃華の動きが、一瞬だけ固まる。


「……違いって、なにそれ」


小さく呟く。


颯太はゆっくり顔を上げる。


「全部」


「雰囲気も、話し方も、距離も」


少しだけ照れたように視線を逸らして――


「あと……キスの感じも」


「は?」


桃華が吹き出す。


「そこ入れる?」


「大事だろ」


真顔で返す颯太に、桃華はさらに笑う。


「ほんと、変なとこだけ真面目」


「真面目に見てるんだよ」


その一言で、桃華の笑いが少しだけ柔らかくなる。


「……じゃあ」


ゆっくりと立ち上がる。


「ちゃんと見ててよ」



■“桜井桃華”になる瞬間


桃華はまず、眼鏡に手をかける。


「これ、外すとどうなるか知ってる?」


「……いや」


颯太は少し前のめりになる。


「知りたい」


「正直すぎ」


小さく笑ってから――眼鏡を外す。


その動きは、派手でも演出でもない。


ただ生活の中の一部みたいに自然だった。


それだけで、空気が少し変わる。


「どう?」


「……違う」


「何が?」


「距離」


即答すると、桃華は少し目を細める。


「正解」



■距離が変わる


桃華が一歩近づく。


「ねえ、颯太くん」


その声のトーンが変わる。


“斉藤もも”の少し作られた響きじゃない。


柔らかくて、近い。


颯太は息を止める。


「……近いな」


「近くしてるの」


悪戯っぽく笑う。


そして、そっと腕を回した。


抱きしめ… 強くない。でも逃げられない距離。


「こういうの、嫌い?」


「……嫌いじゃない」


「でしょ」


肩越しに、少しだけ満足そうな声。



■キスの違い


ゆっくり離れる。


桃華は少しだけ見上げる。


「じゃあ、次」


「まだあるのかよ」


「一番大事でしょ」


そう言って、軽く指先で距離を詰める。


そして―― 唇が触れる。


一瞬だけ止まって。


それから、ほんの少しだけ深くなる。


長くはない。


でも、はっきり残る。

終わったあと、桃華は小さく息を吐く。


「どう?」


颯太は少し間を置いてから答える。


「……落ち着く」


「でしょ」


少し嬉しそうに笑う。


「それが“私”」



■答え合わせ


颯太はゆっくり頷く。


「ももはさ」


「うん」


「“見せる人”って感じだった」


桃華は黙って聞く。


「でも桃華は――」


少しだけ言葉を探してから、


「寄ってくる人だな」


その言葉に、桃華の目が少しだけ細くなる。


「なにそれ、うまいこと言ったつもり?」


「いや、事実」


「はいはい」


でも、否定はしない。



■夜の結論


ソファに並んで座る。


部屋は静かで、外の車の音だけが遠くに流れている。

さっきまでの会話の余韻が、まだ空気の中に残っていた。


距離はもう、最初より近い。

けれど、どこかまだ“確かめる途中”の温度だった。


颯太がぽつりと言う。


「……なあ」


「うん?」


桃華は視線だけを向ける。


颯太は少しだけ天井を見て、それから言葉を探すように間を空ける。


「さっきさ、“もも”と“桃華”の違い、見せてもらったじゃん」


「うん」


「正直、まだ頭の中ぐちゃぐちゃなんだけど」


少し苦笑する。


「でも、一個だけはっきりした」


桃華の視線が少しだけ真剣になる。


「なに?」


颯太はゆっくり息を吐いてから、言う。


「どっちも好きだよ」


一瞬、空気が止まる。


「“斉藤もも”としての桃華もさ、すごいって思うし」


「遠くて、届かなくて、それでも見ちゃう感じも嫌いじゃない」


桃華は黙って聞いている。


颯太は少しだけ視線を落とす。


「でもさ」


「うん」


「やっぱり、隣にいるなら――」


言葉を選ぶように、間が空く。


「こっちの方がいい」


「こっち?」


桃華が小さく聞き返す。


颯太はすぐに頷く。


「“桜井桃華”の方」


「距離が近くてさ」


「ちゃんと俺の方見てくれてて」


少しだけ照れたように笑う。


「逃げない感じ」


桃華は少しだけ目を細める。


「逃げないってなに」


「いや、なんて言えばいいのか分かんないけど」


颯太は頭をかく。


「“ちゃんとこっちにいる”って感じ?」


「言い方よく分かんないけど、それ」


少し間を置いてから、もう一度言う。


「やっぱりこっちがいい」


桃華はしばらく何も言わない。


ただ、視線だけを颯太に向けたまま、静かに息を吐く。


「……そっか」


それだけ言って、少しだけ体を動かす。


そして、自然な動きで肩を寄せた。


ふわっと、体温が重なる。


颯太は一瞬だけ驚く。


「……お?」


桃華は前を向いたまま、普通の声で言う。


「それが答え」


颯太は少し笑う。


「それってさ、ずるくない?」


「なにが?」


「言葉じゃなくて行動で終わらせるとこ」


桃華は小さく肩をすくめる。


「だって説明めんどいし」


「雑だな」


「でも分かるでしょ」


颯太は少し黙ってから、ゆっくり頷く。


「……うん」


「分かる」


ソファの上で、少しだけ沈黙が流れる。


でもその沈黙は、重くない。


むしろ、落ち着いていた。


颯太が小さく言う。


「なあ」


「ん?」


「これでいいんだよな」


桃華は少しだけ間を置く。


それから、当たり前みたいに言う。


「いいに決まってるでしょ」


颯太はその言葉に、少しだけ笑う。


「……だよな」


肩に寄った温度はそのまま。


どちらも動かない… それで十分だった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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