第4話「初めての“夫婦の時間”」
「……今日、空いてる?」
その一言は、昼休みの終わり際。
大学の人目を避けた中庭で、桜井桃華が小さな声で言った。
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「夕方からなら……」
僕が答えると、彼女は少しだけ考えてから頷いた。
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「じゃあ、駅前のビジネスホテル」
「……え?」
一瞬、思考が止まる。
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「変な意味じゃないからね」
すぐに付け加えるように言った。
「ちゃんと話したいの。落ち着いて」
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その言葉に、僕は静かに頷いた。
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夕方
駅前のホテル。
どこにでもある、シンプルな部屋。
でも――
ドアを閉めた瞬間、世界が変わった。
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「……なんか、緊張するね」
桃華が靴を脱ぎながら、苦笑する。
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「俺も……」
正直すぎるくらい、心臓がうるさい。
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同じ空間に、二人きり。
逃げ場のない距離。
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「とりあえず、座ろ?」
ベッドの端に腰掛ける彼女。
僕も少し距離を空けて座る。
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沈黙。
テレビの音だけが、やけに響く。
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「……夫婦、なんだよね」
ぽつりと、彼女が言う。
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「うん」
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「なのに、こんな距離感って変じゃない?」
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確かにそうだった。
触れたことすら、ほとんどない。
名前を呼ぶだけで、まだ少し緊張する。
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「でも……」
僕は少しだけ息を整えて言った。
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「無理に近づく必要はないと思ってる」
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彼女が、ゆっくりとこちらを見る。
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「桃華のペースでいい」
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その言葉に、彼女の目がわずかに揺れた。
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「……ほんとに優しいね」
「普通です」
「普通じゃないよ、それ」
少しだけ笑う。
でもその笑顔は、どこか安心したようにも見えた。
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「ねえ」
彼女が、少しだけ体をこちらに向ける。
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「ひとつ、約束してほしい」
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「うん」
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「この関係、絶対に誰にも言わないで」
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その言葉は、はっきりしていた。
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「大学でも、仕事でも」
「分かってる」
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「もしバレたら……」
少しだけ言葉を詰まらせる。
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「全部、終わるかもしれないから」
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その重さは、十分伝わってきた。
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「大丈夫」
僕は、まっすぐに言った。
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「絶対守る」
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数秒の沈黙。
そして――
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「……ありがと」
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その瞬間だった。
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彼女が、少しだけ距離を詰めた。
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「颯太くん」
「……うん」
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近い。
息が触れそうな距離。
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「ひとつだけ、試していい?」
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「なにを……」
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言い終わる前に――
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そっと、触れるだけのキス。
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一瞬だった。
本当に、ほんの一瞬。
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でも――
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「……これで、ちゃんと夫婦だね」
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彼女は少し照れたように笑った。
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心臓が、壊れそうなくらい鳴っている。
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「桃華……」
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名前を呼ぶと、彼女は目を細めた。
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「なに?」
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「好き」
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自然に出た言葉だった。
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彼女は一瞬だけ驚いて――
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「……知ってる」
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そう言って、少しだけ目を逸らした。
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その後
二人は、同じベッドの上に座ったまま、たくさん話した。
大学のこと。
仕事のこと。
好きな食べ物や、昔の話。
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“何も特別じゃない時間”。
でも、それが何より特別だった。
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「こういうの、初めてかも」
彼女がぽつりと呟く。
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「普通に、誰かと過ごす時間」
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その言葉に、少しだけ胸が締め付けられる。
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「これから、増やそう」
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「……うん」
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彼女は、静かに頷いた。
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帰り際
部屋の前。
別れる直前。
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「次は……」
彼女が少しだけ迷ってから言う。
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「もうちょっとだけ、近づいてもいいかも」
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その言葉に、胸が熱くなる。
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「俺も」
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短い言葉。
でも、それで十分だった。
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そして――
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「またね、旦那さん」
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少しだけからかうように笑う。
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「……またね、奥さん」
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そう返すと、彼女は一瞬だけ驚いて――
すぐに、嬉しそうに笑った。
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こうして。
僕たちの距離は、確かに一歩だけ縮まった。
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