閑話③(前編) 「もう一人の夫と、重なる覚悟」
■スタジオ廊下
「お疲れ様です」
撮影終了の声が響く中、スタジオの廊下は妙に静かだった。
まだ照明の熱が残っている。
機材の片付けの音が遠くで鳴っている。
その中で、桃華だけが少し遅れて歩いていた。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
(終わった……)
身体は重いのに、頭の中だけが妙に冴えている。
仕事のこと。
スケジュールのこと。
そして――隠している“もう一つの現実”。
その全部が、胸の奥で静かに重なっていた。
⸻
■出会い
「……あ」
ふと顔を上げた瞬間。
前方から一人の男性が歩いてくる。
一瞬で視線が止まる。
(あの人……)
何度か現場で見たことがある。
でも話したことはほとんどない。
如月美咲の専属マネージャー。
桃華は反射的に姿勢を正す。
「お疲れ様です」
少しだけ声が硬くなる。
「お疲れ様です」
返ってきた声は落ち着いていた。
すれ違うだけのはずの距離が、なぜか少しだけゆっくりになる。
⸻
■会話の入口
(3回目……くらい、かな)
そんなことをぼんやり考えた瞬間だった。
「あの」
先に声を出したのは、桃華のほうだった。
「はい?」
相手が足を止める。
桃華は一瞬迷ってから、言葉を選ぶ。
「美咲さんから……聞きました」
「結婚、されてるって」
空気が一瞬だけ変わる。
けれど彼は、驚かなかった。
「ああ」
軽く頷く。
「そうですね」
淡々とした返事。
そして少しだけ肩をすくめる。
「秘密ですけど」
「……」
桃華は思わず小さく笑ってしまう。
「はい」
その“当然のような秘密”が、少しだけおかしかった。
⸻
■交際0日婚
彼は歩きながら、ふと思い出したように言う。
「交際0日婚です」
「……え?」
桃華は思わず聞き返す。
今日何度目だろう、この単語。
「やっぱり……」
「やっぱり?」
「いえ」
小さく首を振る。
「私も、そうなので」
その瞬間。
彼の目がわずかに見開かれる。
「……あぁ」
すぐに納得したように頷く。
「なるほど」
少しだけ視線を遠くにやる。
「それでですかね」
「それで……?」
桃華が首を傾げる。
彼は少しだけ柔らかい声になる。
「美咲の雰囲気」
「最近、妙に安心してる顔してるんですよ」
その言葉に、桃華の胸が少しだけ温かくなる。
(美咲さん……)
「あなたと話してからですかね」
「え?」
「少し変わった」
短い言葉。
でも、重い。
桃華は目を瞬かせる。
「……そうなんですか」
「ええ」
即答だった。
⸻
■覚悟の指摘
彼は桃華をまっすぐ見る。
「あなたも」
「……はい?」
「覚悟、決まってる顔してます」
その一言で、胸が小さく跳ねる。
「……そう見えますか」
「はい」
迷いのない返事。
彼は一歩だけ近づくことなく、そのまま続ける。
「簡単な道じゃないですよ」
静かな声。
でも軽くはない。
“支えてきた人間”の重みがある。
“守ってきた人間”の現実がある。
桃華はゆっくり息を吸う。
「……はい」
短い返事。
でもそこに、揺れはなかった。
⸻
■伝言
「あ、そうだ」
彼が軽く手を打つ。
「妻から伝言です」
「え?」
桃華の心臓がわずかに跳ねる。
「“ももちゃんの様子がおかしい”って」
「……っ」
息が止まる。
(やっぱり……)
完全にではない。
でも確実に“気づかれている”。
「楽屋、行ってあげてください」
その一言で、すべてが繋がる。
「……分かりました」
桃華は小さく頭を下げる。
「すみません」
「いえ」
彼は軽く首を振る。
「無理はしないでください」
その声は静かで、優しかった。
でも、それが逆に沁みた。
⸻
■別れ
「ありがとうございます」
もう一度、深く頭を下げる。
「では」
短い会釈。
彼はそのまま歩き出す。
遠ざかる背中を見ながら、桃華は小さく呟く。
「……すごい人だな」
(守る人)
(支える人)
(全部を背負う人)
ふと、颯太の顔が浮かぶ。
同じように、自分の隣にいる人。
逃げずに立ってくれる人。
「……行かなきゃ」
小さく呟く。
足が自然と楽屋へ向かう。
⸻
■楽屋前
ドアの前で立ち止まる。
一瞬、呼吸が止まる。
(大丈夫)
(ちゃんと話せる)
深く息を吸う。
そして――
ノック。
「……失礼します」
「はーい」
中から返事。
ドアを開ける。
そこにいたのは――
如月美咲。
少しだけ心配そうな目。
でも、その奥に確かに“信頼”があった。
「桃華ちゃん」
その声で、空気が少し変わる。
桃華は小さく笑う。
「お疲れ様です」
その笑顔はもう、隠すためのものじゃない。
怖さと覚悟と、そして――
誰かと一緒に生きていく決意が、静かに混ざっていた。
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