第19話「守るための嘘と、新しい現実」
■桃華の実家
「……話があるの」
静かに、でもはっきりとした声だった。
久しぶりに帰った実家のリビング。
空気はどこか昔のままなのに、桃華の中だけが違っていた。
父と母が、同時に顔を上げる。
「どうした?」
父が新聞を畳みながら言う。
「そんな改まって」
母も笑おうとして、でも表情が固まったままだった。
「桃華? 何かあったの?」
その声に、桃華は一度だけ目を伏せる。
(言うしかない)
ゆっくりと息を吸う。
「……私、結婚したの」
一瞬、リビングの音が消える。
「……え?」
母の声が裏返る。
「け、結婚……?」
父の手から新聞がずれ落ちる。
「ちょっと待て……今なんて?」
桃華はもう一度、まっすぐ見る。
「結婚したの」
沈黙。
母は口元に手を当てたまま固まっている。
「いつ……? 誰と……?」
声が震えている。
「同じ大学の人」
少しだけ言葉を選ぶ。
「普通の、ちゃんとした人だから」
その“ちゃんとした”という言葉に、自分でも胸が痛んだ。
父がゆっくり眉をひそめる。
「……急すぎるだろ」
「うん」
桃華はすぐに頷く。
「でも、ちゃんと考えて決めた」
これは嘘じゃなかった。
母が不安そうに前に出る。
「桃華、それ……本当に大丈夫なの?」
「大丈夫」
即答はできなかった。
でも、続けた。
「……ちゃんとした人だから」
父が低く息を吐く。
「それで」
空気がさらに重くなる。
「……子供、できた」
その瞬間。
完全に時間が止まった。
「……は?」
母の声がかすれる。
「え、ちょっと待って……子供?」
父の顔が強ばる。
「それ、本当か?」
桃華は目を逸らさない。
「うん」
静かに頷いた。
沈黙が落ちる。
母の目が潤む。
「……ほんとに?」
「ほんと」
桃華の声は震えていない。
父がゆっくり目を閉じる。
「……責任は?」
その言葉は鋭いのに、どこか不安が混じっていた。
桃華はすぐに答える。
「取ってくれる」
「迷いなく言えるのか」
「うん」
間を置かずに。
(颯太くんなら)
(絶対)
母がそっと桃華の手を握る。
「桃華……大変になるよ」
「うん」
「仕事もあるし、これからもっと忙しくなる」
「うん」
母は少しだけ笑う。
「でもね」
優しく、でも強い声。
「一人で抱えないこと」
「……うん」
その一言で、胸が熱くなる。
「頑張りなさい」
「……うん」
短い返事しかできなかった。
⸻
■颯太の家
「……え?」
母の声が完全に裏返る。
「け、結婚!? 子供!?」
「ちょ、ちょっと待って颯太!」
リビングが一気に騒がしくなる。
父が新聞を机に置く音が重い。
「順番、どうなってる」
「……はい」
颯太は反射的にうなだれる。
(言い方ミスったなこれ……)
母は頭を抱えている。
「急すぎるでしょ……」
「ごめん」
「謝る前に説明しなさい!」
「はい……」
父が鋭く見る。
「相手は誰だ」
「同じ大学の子です」
一瞬の間。
「ちゃんとした子なんだな?」
「はい」
即答。
それだけは、迷いがなかった。
姉が横から食い気味に入る。
「え、どんな子!? 写真ある!?」
「今はない」
「えー!見たい!」
兄はニヤニヤしている。
「やるじゃん颯太」
「いや、そういう話じゃないから」
父は腕を組んでいる。
「今度連れてこい」
その一言で、空気が締まる。
「……はい」
逃げ道はなかった。
(いつか全部説明しなきゃいけない)
それだけは、確実に分かっていた。
⸻
■夜・通話
「どうだった?」
颯太の声は少し疲れているのに、優しい。
「びっくりしてた」
桃華は小さく笑う。
「そりゃそうだよね」
「うん」
少し間。
「でもね」
桃華が続ける。
「ちゃんと受け入れてくれた」
「……そっか」
颯太の声が少しだけ緩む。
「うちはもうカオス」
「なにそれ」
桃華が笑う。
「母さん泣きかけて、父さん圧すごいし、姉ちゃん興味津々」
「想像できる」
少しだけ空気が軽くなる。
でも――
桃華がぽつりと言う。
「……嘘、ついちゃったね」
颯太は少し黙る。
「うん」
否定しない。
桃華の声が少し小さくなる。
「仕方ないよね」
「今は守るためだし」
颯太はすぐに言う。
「そう」
「今はそれでいい」
少しの沈黙。
桃華が続ける。
「でもさ」
「うん」
「いつか……ちゃんと言えるのかな」
颯太は即答する。
「言えるよ」
「ちゃんと全部」
「……ほんとに?」
「ほんと」
迷いはない。
「俺もちゃんと話すし」
「逃げない」
その言葉が、静かに響く。
「……うん」
桃華は少しだけ安心したように息を吐く。
⸻
■数日後・現場
「桃華ちゃん」
岸田ほのかが声をかける。
「体調どう?」
「大丈夫です」
即答。
でも少し間があった。
「顔色ちょっと気になるけど」
「大丈夫です」
もう一度繰り返す。
ほのかはそれ以上聞かない。
「無理しないでね」
「ありがとうございます」
笑顔を作る。
(作るのは得意になった)
それが少しだけ怖かった。
⸻
■桃華の心の中
“女優”としての自分。
“妻”としての自分。
そしてまだ揺れている“母”としての自分。
どれも完全じゃない。
でも確かに、そこにある。
隠す。
嘘をつく。
耐える。
そのすべては――
(守るため)
それだけは、揺らがなかった。
⸻
■夜
部屋の明かりが静かに灯る。
桃華はスマホを見つめる。
「……颯太くん」
「ん?」
すぐに返事が来る。
「これから……どうなるんだろうね」
少しの沈黙。
颯太の声は、やさしかった。
「どうにでもなるよ」
「俺たちなら」
「二人じゃなくて」
「三人で」
桃華は小さく笑う。
「……うん」
窓の外。
夜は変わらないまま流れている。
でも――
その中で確かに、“もう戻れない未来”が静かに動き始めていた。
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