第17話「気づきと動揺、そして揺れる未来」
■朝
「……ん」
目を覚ました瞬間、桜井桃華はゆっくりと体を起こした。
「……気持ち悪い」
小さく呟く声は、かすれている。
軽い吐き気。頭の重さ。
「……疲れてるだけ?」
自分に言い聞かせるように、もう一度呟く。
でも――
(昨日も、こんな感じだった)
違和感が、じわじわと続いている。
⸻
洗面所
水を出して、顔を洗う。
冷たい水が肌を叩いても、重さは抜けない。
鏡を見る。
「……顔色、悪い」
明らかに、いつもと違う。
桃華はしばらく鏡を見つめたまま動かない。
そして、ふと頭をよぎる。
「……まさか」
一瞬で心臓が強く鳴る。
「いや、そんな……」
すぐに首を振る。
可能性はある。でも、まだ。
(まだ、分かんない)
そう思い込もうとする。
⸻
■大学
講義中。
教授の声は遠く感じる。
(考えすぎ)
(ただの体調不良)
頭の中で何度も繰り返す。
でもそのたびに――
(もし、違ったら)
その言葉だけが消えない。
ペンは動いているのに、内容は入ってこない。
⸻
■昼休み
「桃華?」
顔を上げると、春日千香が立っていた。
「顔、やばいよ」
「え?」
「真っ青」
桃華は無意識に頬に触れる。
「大丈夫?」
「……うん」
少し迷ってから、
「ちょっと体調悪いだけ」
と答える。
千香は黙って桃華を見る。
「ほんとにそれだけ?」
「……」
言葉が詰まる。
千香の目が、少し鋭くなる。
「可能性、ある?」
その一言で、心臓が跳ねる。
「……まだ分かんない」
千香はため息をつく。
「検査は?」
「してない」
「しなよ」
即答だった。
「すぐ」
「……うん」
桃華はそれ以上言えなかった。
⸻
■夕方
ドラッグストアの前。
人の流れの中で、桃華だけが止まっている。
(買うのか……)
指先がわずかに震える。
もし違ったら。
もし当たっていたら。
どちらも怖い。
「……はぁ」
息を吐いて、足を踏み出す。
中へ入る。
⸻
■夜・部屋
机の上に、小さな箱。
それを見つめたまま、しばらく動けない。
「……やるしかない」
ようやく手を伸ばす。
震えている。
でも止められない。
(ちゃんと、知りたい)
それだけが理由だった。
⸻
■数分後
静かな部屋。
洗面所の前。
カチ、と音が落ちる。
その瞬間から、時間の流れが変わる。
(……)
喉が乾く。
指先が冷たい。
スマホを見るが、何も見えていない。
画面には「颯太」の名前。
(今、言うべきじゃない)
(でも)
思考が止まる。
そして――
ピッ
音が鳴る。
桃華の視線が、ゆっくり落ちる。
結果。
⸻
■沈黙
「……」
動けない。
声も出ない。
呼吸だけが浅く続く。
(……そう、なんだ)
怖さでもない。混乱でもない。
ただ、事実だけがそこにある。
「……ほんとに?」
かすれた声が落ちる。
⸻
■通話
震える指で、通話を押す。
「……もしもし」
颯太「おう」
いつもの声。
それが、逆に胸に刺さる。
颯太「どうした?」
桃華「……今、大丈夫?」
颯太「うん」
少しの間。
桃華は唇を噛む。
「……あのさ」
颯太「うん」
「さっきの話なんだけど」
颯太「……ああ」
空気が変わる。
桃華は息を吸う。
「もし、って話」
颯太「うん」
「……もしじゃなくて」
沈黙。
喉が詰まる。
颯太「桃華?」
その声で、少し崩れる。
「……ごめん」
颯太「謝るなって」
「違うの」
「謝りたいんじゃなくて」
もう一度息を吸う。
「ちゃんと、言う」
颯太「うん」
「私」
一拍。
「……たぶん」
「妊娠してる」
⸻
■沈黙
音が消える。
颯太「……」
桃華「……」
颯太「……ほんまに?」
桃華「まだ確定じゃないけど」
桃華「でも、結果はそうだった」
また沈黙。
長い。
重い。
颯太「……そっか」
小さな声。
「……そっか」
もう一度。
颯太「今、どこ?」
桃華「部屋」
颯太「一人?」
桃華「うん」
颯太「動ける?」
桃華「……うん」
颯太「今から行く」
桃華「え」
颯太「待ってろ」
桃華「でも」
颯太「でもじゃない」
颯太「一人で抱えんなって言ったやろ」
⸻
■沈黙
桃華は小さく頷く。
「……うん」
「……待ってる」
⸻
■通話終了
静寂が戻る。
桃華はスマホを握ったまま座り込む。
「……ほんとに、変わるんだ」
誰に向けた言葉でもない。
でも、その現実だけが確かにそこにあった。
⸻
窓の外。
夜の光は、何も変わらず流れている。
ただ一人の部屋だけが、静かに別の時間へと進み始めていた。
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