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第2話「彼女の本名、桜井桃華」


■大学の外れのカフェにて


大学のキャンパスから少し離れた場所にある、小さなカフェ。


駅前の喧騒からも外れていて、

ガラス窓の向こうには、ゆるやかに流れる昼の光だけがあった。


店内は静かだった。


コーヒーカップが触れ合う音と、

エアコンの微かな低音だけが、空間を満たしている。


その窓際の席に――彼女はいた。


“斉藤もも”


しかし今、その名前はどこか仮のもののように思えた。


ストローを指先でくるくると回しながら、

彼女は小さく息を吐く。


その仕草ひとつが、どこか現実感を薄くする。



「……まさか、大学で会うとは思わなかった」


ぽつりと落ちた言葉は、軽い冗談のようでいて、

どこか本音の揺れを含んでいた。


向かい側に座る颯太は、一拍遅れて頷く。


「俺もです……正直、まだ頭追いついてないです」


声は落ち着いているのに、

指先だけがほんの少し緊張している。


目の前にいるのは“推し”だった人間。


画面の向こうでもなく、

イベントのステージの上でもなく、


同じ机を挟んで、同じ空気を吸っている一人の女性。


それが余計に、現実を曖昧にしていた。



■静かな問い


「で、どこまで知ってるの?」


少しだけ声の温度が変わる。


さっきまでの柔らかさが、わずかに引き締まる。


颯太は、言葉を選びながら答える。


「その……たぶん、全部じゃないです」


「全部じゃない?」


「本名とか、プライベートの細かいところまでは……」


「そっか」


彼女は一度だけ視線を落とす。


ストローの動きが止まる。


そして――


ふっと、息を吐いた。



■自己紹介という境界線


「じゃあ、ここからはちゃんと自己紹介しよっか」


その一言で、空気が少しだけ変わる。


冗談でもなく、距離の探り合いでもなく、

一つの“区切り”のような響きだった。


彼女は背筋を正す。


そして、颯太の目をまっすぐ見る。


逃げ場のない視線。



桜井桃華さくらい ももか。これが本名」


その瞬間。


颯太の胸の奥が、静かに沈む。


“斉藤もも”という名前が剥がれていく感覚。


代わりに残るのは――

今までよりもずっと近い、現実の名前。


軽くない。


でも、確かにそこにある名前だった。



「大学は一応、普通に通ってるの。バレないようにね」


「……それ、かなり大変じゃないですか?」


「めちゃくちゃ大変」


即答。


迷いはなかった。


そのあまりにも正直な言い方に、

思わず颯太は小さく息を呑む。


しかし彼女は少しだけ肩をすくめる。


「でもね」


一瞬、声が柔らかくなる。


「普通の生活も欲しかったから」


その言葉は、軽くない。


どこか“諦めきれていない人間”の声だった。



■言ってしまった一言


沈黙の隙間で、颯太の口が動く。


止める前に、出ていた。


「俺……」


彼女が視線を上げる。


「どっちの桃華さんも、好きです」


一瞬、時間が止まる。


彼女の目が、わずかに揺れる。


驚きと、戸惑いと――少しの困惑。



「……変なこと言うね」


「すみません、なんか……そのまま出ちゃって」


「いや」


小さく笑う。


「いい意味でね、それ」


その笑顔は、

“斉藤もも”ではなく、“桜井桃華”に近い。


飾りが少ない。


少しだけ素のままの表情。



■距離の問い


沈黙が落ちる。


でも、不思議と気まずくない。


むしろ、これ以上ないくらい“本音の空気”だった。


彼女がふと口を開く。


「颯太くんさ」


「はい」


「なんでそこまで来てくれるの?」


軽い問いの形をしているのに、

中身は鋭い。


逃げれば全部崩れる種類の質問だった。



颯太は少し考える。


そして、ゆっくり言葉を選ぶ。


「最初は……正直、見た目とか、憧れでした」


彼女は何も言わず、ただ聞く。


「でも、何回か会ってるうちに……」


喉が少し詰まる。


それでも続ける。


「ちゃんと人として見てくれてるって分かって」


「……」


「気づいたら、応援じゃなくて、“好き”になってました」


言い切った瞬間、少しだけ怖くなる。


軽かったかもしれない、と。


でも――



「そっか」


たった一言。


でもその声は、拒絶ではなかった。


むしろ、受け取った側の静かな整理の音だった。



「嬉しいよ」


小さく、確かにそう言った。


その一言で、何かが変わる。


“推し”という距離が、完全に形を失う。



■現実の壁


「でもね」


彼女は少しだけ現実の色を戻す。


「私の仕事、分かってるよね?」


「……はい」


「普通の恋愛とか、無理だよ?」


それは警告ではない。


説明だった。


線引き。


でも――



「それでもいいです」


即答。


一拍の迷いすらなかった。



彼女は少しだけ目を細める。


観察するように。


試すように。


そして――



「ほんと、変な子」


ふっと笑う。


その笑いには、わずかな緩みがあった。



「……ありがとう」


その言葉は、小さくて、

でも確かに重かった。



■2週間後・イベント会場


水着撮影会。


ライトの下で、人の視線が集まる場所。


だが颯太にとっては、

もう“遠い世界”ではなかった。


近くて、現実の延長線上にある場所。


彼女がいる。


その事実だけで十分だった。



撮影の合間。


短い、ほんの数秒の空白。


彼女が颯太を見る。


「また来てくれたんだ」


「はい」


短い会話。


それだけで心拍が跳ねる。



そして颯太は、決めていた言葉を出す。


「桃華さん」


一瞬、空気が止まる。


彼女の目がわずかに揺れる。


まだ“慣れていない名前”。


本名。



「……なに?」


その一言で、すべてが始まる。


颯太は息を吸う。


逃げ道はない。



「俺と――結婚してください」



世界が一瞬だけ静かになる。


周囲の音が遠のいたように感じる。



「……え?」


当然の反応。


理解が追いついていない。



「交際0日でいいです」


「いや、意味わかんないって」


戸惑い。


それでも颯太は止めない。



「本気です」


短く、強く。



沈黙。


彼女は目を逸らさない。


逃げもしない。


ただ、真正面から見ている。



「……なんで?」



颯太は答える。


「これ以上、ただのファンでいるのが嫌だからです」


「好きな人として、隣にいたい」



それだけだった。


理屈じゃない。


でも、それが全てだった。



彼女はゆっくり目を閉じる。


数秒。


考えている。


逃げるためではなく、選ぶために。



「ほんと、バカだよね」


小さく笑う。


その笑いは、少しだけ優しい。



「でも――嫌いじゃない」


一歩、距離が縮まる。



「そんなに来てくれてるし」


「はい」


「お礼、ちゃんとしたいなって思ってたし」



そして――



「交際0日婚、ね」


間。



「いいよ」



その瞬間、世界が静かに止まる。



「ただし」


指を一本立てる。



「簡単じゃないよ?」



それでも颯太は即答する。



「それでもいいです」



迷いはなかった。



その日。


二人は… 夫婦になった。



最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

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