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第1話「30回目の握手、その先に」


これは、ひとりの女性と、彼女を追い続けたひとりの大学生が、「現実」と「画面の向こう側」の境界を少しずつ曖昧にしていく物語である。


“推し”という距離から始まった関係は、偶然の再会をきっかけに、日常へと侵食していく。


けれどその中で描かれるのは特別な奇跡ではなく、朝食の匂いと、大学の喧騒と、夜の静けさに埋もれるような、ごく普通の生活の積み重ねである。


それでも確かに、二人の世界は変わり始めていた。



大学4年生になったばかりの僕、水上颯太は、いつものように列に並んでいた。目の前には、透明なビニール越しに笑顔を振りまく彼女――斉藤もも。


高校3年の頃、友達に勧められて見た一本の作品がすべての始まりだった。最初はただの興味だったはずなのに、気づけばその笑顔だけが頭から離れなくなっていた。


握手会、サイン会、撮影会、ファン感謝祭――

可能な限りすべてのイベントに足を運んだ。バイト代は消え、遊びも減った。それでも「また会える」という一点だけで日常は成立していた。


そして今日… これは30回目の握手会だった。


■誘導


「次の方どうぞ〜」


スタッフの声が、会場の空気を少しだけ動かす。

列が一歩ずつ進むたびに、心臓の鼓動が速くなるのが分かる。


慣れているはずだった。

何度も来た。何度も見た。何度も会った。


それでも――この瞬間だけは、毎回初めてみたいに緊張する。


ビニールで仕切られた向こう側に、彼女がいる。


斉藤もも。


カメラの中でも、スクリーンの中でもない。

“今この距離”で存在している。



■目が合う一瞬


順番が来る。


足が前に出る。


視界の中心に、彼女が入る。


その瞬間だった。


ふと、彼女の視線がこちらで止まる。


「あ……」


小さな声。


ほんのわずかに、空気が変わる。


そして――


ふわりと、柔らかく笑った。


「颯太くん、だよね?」



■名前が呼ばれる衝撃


心臓が、一拍遅れる。


自分の名前が、彼女の声で呼ばれるという事実。


「……覚えて、くれてるんですか?」


絞り出すような声になる。


「うん」


彼女は当然のように頷く。


「だって、ずっと来てくれてるもん」


その一言が、軽くない。


ただの営業でも、ファンサでもない。


“見ていた側”から、“見られていた側”に変わる瞬間だった。



■積み重ねの告白


「今日で……30回目です」


そう言った瞬間、彼女の目が少しだけ見開かれる。


「えっ、ほんとに?」


驚きのあとに、小さな笑い。


「ありがとう。そんなに来てくれて」


その言葉は、軽く流されなかった。


ちゃんと“積み重ねの重さ”として受け取られている。


短い握手の時間が、やけに長く感じる。



■言ってしまった言葉


気づけば、喉が動いていた。


「俺……ずっと好きです」


一瞬、彼女の表情が止まる。


でも、目は逸らさない。


逃げないまま、ちゃんと受け止めている。


「いつか……本気で向き合えたらって思ってました」


スタッフの声が背後から響く。


「お時間でーす」


それでも、言葉は止まらなかった。


「また会いに来ます」


それが限界だった。


彼女は、少しだけ間を置いてから――


「……うん。待ってるね」


そう言って笑った。


その笑顔が、すべての起点になるとは、この時はまだ知らなかった。



■余韻のまま帰る夜


会場を出たあとも、手の感覚が残っていた。


ビニール越しの距離。

一瞬の視線。

名前を呼ばれた声。


全部が頭の中で何度も反響する。


ただの一日だったはずなのに、もう元には戻れない感じがあった。



■数日後


大学のキャンパスは、いつも通り騒がしい。


サークル勧誘の声。

春特有の浮ついた空気。

新しい出会いの匂い。


その中で、颯太は立ち止まる。


視線の先。


「……え?」


そこにいたのは、見覚えのある顔だった。


けれど、スクリーンの中ではない。


ステージの上でもない。


私服の、ただの大学生としての姿。


斉藤もも。



■世界のズレ


思わず声が出る。


「すみません」


振り返る彼女。


一瞬だけ、表情が固まる。


「……はい?」


「斉藤もも、さん……ですよね?」


沈黙。


数秒。


やがて、小さく息を吐いて――


「……バレちゃったか」


その一言で、世界の“線”がずれる。



■現実側へ落ちる会話


「ここじゃまずいから、場所変えよ?」


その声は、もう“ステージの彼女”ではなかった。


ただの一人の大学生の声だった。


颯太は、うなずくしかなかった。


「……はい」


二人は歩き出す。

誰にも知られないまま、距離だけが少しずつ近づいていく。


外の世界は、まだ彼女を“偶像”として見ている。

けれどこの瞬間だけは違った。


推しと現実の境界線が、静かに消え始めていた。



■2人の秘密の会話


春の風は、さっきより少しだけ冷たくなっていた。

キャンパスの喧騒から切り離された裏手で、二人は向き合う。


「……ほんとに来ちゃうんだ」


「来るやろ、そりゃ」


「理由になってない」


「でもそれが理由やねん」


ももは少しだけ笑った。その笑顔は、完成された“仕事の顔”ではなかった。


沈黙のあと、彼女は言う。


「大学には内緒で来てるの。普通に過ごしたくて」


「やっぱりそうなんやな」


「“やっぱり”って何それ」


軽い応酬。だが棘はない。


颯太は続ける。


「俺さ、ずっとファンとして見てて。でも今は……同じ人やって思ってしまう」


その言葉に、ももの呼吸が一瞬だけ乱れた。


「それ、困るんだけど」


「なんで?」


「ファンのままの方が楽だったから」


“楽”。


その言葉は少しだけ重かった。


「ファンってさ、ちゃんと線を引いてくれるから安心なんだよ」


「でも今、それが分かんなくなってる」


沈黙。


やがて、ももは小さく息を吐く。


「ここ、長くいる場所じゃない」


「うん」


「続きするなら、ちゃんと場所変えよ」


「続きって言うんや」


「言い方はどうでもいい」


少し視線を逸らすその横顔には、迷いがあった。


颯太は頷く。


「分かった」


二人は歩き出す。


まだ何も決まっていないまま。



■外の世界は騒がしいまま。


「斉藤もも、再び話題に」

「もも現象が社会現象に」

「大学で目撃情報出てるらしい」

「え、ガチで一般人と会話してたん?」

「普通にバレるやろあれ」

「写真流出まだ?」

「いやそれよりイベント来週あるよな」

「メンタル強すぎん?」

「普通に大学生活してるの怖い」

「距離感バグってる存在やん」

「推しと現実が同時に来るの意味わからん」


SNSは熱を持ち続ける。

だがそれは、どこか遠い世界の出来事だった。



■ “ 推し ” と “ 現実 ”


だがこの関係の中だけは、静かに同じリズムで続いていく。


朝は桃華。

昼はもも。

夜はその境界。


まだ名前のない関係のまま、それでも確かに続いていく日常として。


それは… “推し”と“現実”が交わる、最初の一歩だった。



交わるはずのなかった二つの世界が、同じ時間軸の中に並んだとき、そこに生まれるのは劇的な変化ではなく、“ズレた日常の同居”だった。


外では「斉藤もも」という存在が拡張され、消費され、語られ続ける。


しかしその裏側で、「桜井桃華」としての生活は、何事もなかったように進んでいく。


そしてその間を、水上颯太という一人の視点が静かに往復する。


特別な答えはまだない。


ただひとつだけ確かなのは、この物語が“終わり”ではなく、“続き”として書かれているということだ。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

もしこの物語に少しでも「面白い!」と感じていただけたなら——


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その一つひとつが、次の章を書き進める力になります。

読者の皆さまの応援が、物語の未来を動かします。


「続きが気になる!」と思った方は、ぜひ、見逃さないようブックマークを!

皆さまの応援がある限り、次の物語はまだまだ紡がれていきます。

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