従妹と出かける日
「ふわぁっ、ぐっ、起きるか」
起床時間を知らせるスマホのアラームを止める。遅刻はできない。身体を起こし、すぐに着替えてランニングに出る。痩せたことに安心して維持を怠れば、ここ一年の努力は水泡に帰すことになる。不思議なことに、体質が変わったのか、身体を動かすことがそこまで苦ではなくなった。むしろ、何の感慨も無く生活習慣に組み込まれた一種の儀式になりつつある。歯を磨くとかお風呂に入るとか食事をするとか、そういう生きる上で当たり前の習慣と同等に俺の一日に組み込まれてきた実感がある。
ランニングを終えてシャワーを浴びて出てくると、どこか温かな気持ちになる匂いが香ってくる。味噌汁の匂い、か? だとしたら随分と久しぶりな気がする。でも母さんはとっくに出勤している筈だけどな。うちの親は世間は休みでも仕事だなんだと朝から家を空ける。すれ違い生活になって随分と長い。最後に膝を突き合わせて会話をしたのはいつだろうか。
思えば、すれ違い生活になって食事を自分で作るようになって。折角だからと好きなものばかり食べていたからか、ぶくぶく身体が膨れ上がって行ったの。中学三年の秋だったか。その頃だっけ。他人と関わる気が完全に失せたのは。まぁでも結局今、佐倉さんに思いを寄せ、らしくも無く色々取り組んでるわけだが。
それでも、最近まで中途半端だった。内心どこか諦めていたと思う。雪夜が来たばかりの頃、俺が用意した食事を見て雪夜が若干顔を顰めていた。次の日から食事は雪夜が受け持つようになった。
「ランニング、お疲れ」
リビングの扉を明けると、雪夜が台所で忙しそうにしていた。
「出発までまだ一時間あるけど、なんかあったか?」
「……朝ごはん。用意したから、食べて」
「うん。ありがとう。いただくよ」
俺が日課を終える時間を見計らっていたのかと思ってしまうくらいに適温だった。温かで、でもすぐに食べ終わるだろう。ご飯、だし巻き卵には大根おろしとネギが添えられていて、味噌汁はナスとキュウリが使われている夏野菜の味噌汁だ。
目の前に座った雪夜がテレビをつける。朝のニュース番組だ。一瞬視線を惹かれるがでもその前に卵焼きを一口。噛むとトロっと零れる黄身と共に出汁の風味が広がり、ネギの甘みと大根おろしのピリッとした辛みを包んでくれる。
「将暉くん、卵焼き好きだよね」
「うん。これ、一番好みかも」
「そ、そう……味噌汁はどう?」
「急かさなくてもちゃんと食べるって」
そう言いながら一口飲んでみる。味噌汁は味噌の風味がちゃんと生きているのがわかった。出汁は控えめながらもちゃんと感じられる。味噌汁全体の味を邪魔しない良い塩梅だ。野菜は柔らかく煮られ、でも本来の食感を殺さない程度で味も程よく染みていて、身体が温まり内臓が少しずつ目覚めていくのがわかる。
「優しい味だ」
「そう」
不機嫌そうな顔だけど険悪な雰囲気はなく、既に出かける準備が整っている雪夜は食べ終わるまで目の前で見守ってきた。不思議と食べにくいとは思わなかった。
「気に入ってくれたのなら、良かった」
「雪夜に余裕があるなら毎日食べたいくらいだよ」
「むぅ……」
「なんだよ」
「そういうこと、気軽に言わない方が良いと思う」
「? そっか、気をつける。ご馳走様。さっさと準備してくるよ」
「服はそこに用意してあるのを着て。寝ぐせはちゃんと直して」
「え……はい」
そう、今日は雪夜の言うことへの返事は『はい』か『YES』以外許されないんだっけ。
「ん? ちょっと待て」
ソファーに広げられた服、こんな服、俺、持ってたっけ。新品か?
「それはプレゼント」
「プレゼントって……」
「……何?」
「いや、だって」
躊躇していると、雪夜は不機嫌な表情を隠そうとせず、睨むように目を細める。
「雪夜の隣を歩くんだから、今日。それなりにしてよ」
「にしたってこれは流石に」
えっ、だって。雪夜の計算的に上下合わせて一万はいるってことじゃないのか。わからない、服の相場がわからない。
「もらってくれないと困るんだけど。雪夜じゃブカブカ過ぎるし。これを参考に今日選ぶから、着替えたら鏡見て自分の姿を確認して」
話は終わりと言わんばかりに、食べ終わった食器を集めて雪夜は立ち上がり。
「折角痩せたんだから、努力を無駄にしないようにしようよ」
そう言ってキッチンに入っていく背中を見送り、改めて雪夜が用意した服を見る。
選んだことないタイプだ。何というかこう、俺が着るには背伸びし過ぎではないかという気さえしてくる。色は俺の好みに合わせてくれたのだろうなと感じる。黒のジャケットに白のTシャツにベージュのズボン。
「うーむ」
「何? 文句ある? 何も考えないでパーカーとジーンズ選びそうだから選んだのに」
「うっ」
服を見ながら唸っていると、後ろから銃弾のような言葉が突き刺さった。
「一番ひどい時はずっとジャージだったみたいだし」
「い、いや……」
「お腹が入らなくなったから、でしょ。ウエスト部分の伸縮が融通利くズボンだけ上にあったし。でも今は違うんだから」
何もかもお見通しのようで、白旗代わりにパジャマを脱ぎ捨て着替える。
「絞った上に筋肉もついてきたし、こういうのいけると思うよ」
「……試してみるよ」
年単位の習慣や考え方は、中々変わらないものだ。そういう意味では雪夜に相談したのは正解だったかもしれない。容赦も遠慮も無い、言葉に嘘はない指摘と提案は、俺の凝り固まり経験も足りない考え方を端からぶっ壊していってくれるのを早速感じている。
鏡を見てみる。何というか、垢抜けた感じとはこういうことを言うのだろうか。わからない。わからないけど。今まで着たことが無いタイプだからだろうか、そして俺が今、この服を少し気に入ってしまったからだろう、背筋が伸びる感じがする。服を買うのが趣味になる人がいるのも少しわかる気がした。
「行くよ。美容院の予約もあるし」
「あ、おう」
それにしても、まさか雪夜と出かける日が来るなんて。少し前を歩く年下の従妹はさながらランウェイを歩くかの如く、真っ直ぐに堂々とした姿勢で歩く。と思っていたらピタッと立ち止まり振り返る
「……並んで歩いてよ」
と言う顔には少し不満を滲ませている、ような気がして。
「いや、良いの?」
「今日、将暉くんに許されている返事は?」
「はい」
「わかったならちゃんと横を歩いて。迷子になられたら迷惑だから」
別に後ろを歩いても変わらないだろという言葉は飲み込んだ。よくわからないけど、そうしろと言うならそうしよう。




