トンキンという街
「……大丈夫ですか! 気をしっかりもってください!」
「……俺は……生きているのか……」
「ええ、ちゃんと手当すれば治ります。大丈夫、目を開けてください。私が分かりますか」
俺は、うっすらと目を開けた。そこには、高校生くらいかと思われる黒髪の少女がいて、俺の顔を心配そうにのぞき込んでいた。
「あんたは……ここは……確か俺は、新宿で……」
「ここは、トンキンの街外れの川辺です。あなたは、川に流されてきたのか、この川岸に倒れていたんです」
「……トンキン……どこだって……」
俺は、痛む頭を押さえながら、周りを見た。
そこは、高層ビルも雑踏もない、ただの山の中の川辺だった。
とても現実とは思えなかったが、俺の額に触れる少女の手には確かな人の暖かさがあった。
「……あんた名前は」
「私は、ショーフェン。あなたは?」
「俺……俺の名前……俺の名前何だっけ……」
「頭を打って。一時的な記憶喪失になっているのかもしれません。何か、身元を確認できるものはありませんか?」
俺は、痛む頭を押さえながら、体を起こし、ズボンを探った。そこには、財布があって、運転免許証があるはずだった。だが、あるはずの財布はなく、その代わり、薄い布切れが入っていた。
俺は、怪訝な思いで、そこに書いてある字を目で追っていったが、読み終わる頃には、放心したような目で布切れを見つめていた。
『お前の願いを適えてやろう。だが、お前は名前を失うことになる。だから、新しい名前をつけてやろう。お前はロセイと名乗るがいい。お前は、この世界でもう一度生きてみるがいい。だが、一つだけ忠告しておく。お前は今日より三年の間に自分の名前を取り戻さなければならない。もし、その時までに自分の名前を思い出せなければ、今度こそ、お前の命は尽きる』
このトンキンという街、いや、そもそもこの世界だが、どうも俺の知っている世界とは別の世界らしい。
水道も電気も通っておらず、当然スマホもネットも使えない。傍目には、ひと昔前の中国の農村っぽい雰囲気に似ているが、白人も黒人も混在しながら、ごく自然に暮らしている。当然ながら車も走っておらず、馬や牛が主な移動手段らしい。つまり産業革命前の、人または動物のみの労働による生産形態。おそらく、ハウス栽培や化学肥料もないんだろう。そうなれば、いわば天気に左右される非常に不安定な食糧事情。おそらく、労働力をその他の産業に手を回す余裕などはないだろう。食料が不安定な時代は、食料の価値が非常に高い。なんたって、生きていくためには、食べなければならないからな。
街の中央にある市場に行ってみると、やはり肉や野菜などの食料品の売買が9割以上を占めているが、どうも今年は不作のようで、全てにおいて物が少ない。
ゲンという単位の貨幣もがあって、それなりには流通しているようだが、ゲンを受け取らず、物々交換を望むものも多くいるのは、物が少ないからなのか、貨幣自体の信頼が薄らいでいるのか、どっちとも判断しかねるところだ。
統治機能もあってないようで、兵士や官吏はいるが、警察のような存在ではなく、暴動を鎮めるために派遣されているのと、税を徴収するために派遣されているようだ。なので、当然、盗み、ひったくりは横行するが、兵士たちはそんなことには目もくれない、つまり自分の身は自分で守れということらしい。
この国の名はインというらしく、王政がしかれているようだが、あまり名君とは言えないようだ。まあ、それはかつての世界と変わりない、結局、素晴らしい為政者などというのは、滅多にお目にかかれないってことだ。
「白菜も大根も高いわね」
熱心に市場を回っていたショーフェンが声を落として言った。
「高いって、どのくらい高いんだ」
「値段が去年の倍になってる。これじゃ、とても買えないわ」
「なぜ、そんなことになっているんだ」
「大地の神の機嫌が悪くて、今年は野菜が全体的に凶作なの」
「大地の神?」
「ええ、ダイデイという神様よ」
「それはあれか……なんというか、迷信……いや、自然崇拝というか……」
俺が口澱んでいるとショーフェンがこちらをじっと見て言った。
「ダイデイは恐ろしい神様よ、私たちは、いつもダイデイにその年取れた作物を捧げるし、ダイデイはそれを食べにくる。気に入れば、次の年は豊作だし、気に入らなければ凶作にしてしまう。去年は、ここの太守が捧げものを出し惜しんで、大したものを出さなかったからダイデイが怒ったらしいの」
「そいつは本当に食べに来るのか」
「ええ、ダイデイは人々が住むあらゆるところに現れて、その年取れた作物を要求するの。気に入らないと人を食うことすらあるわ。今年もそろそろダイデイが来る日が迫っている。私、怖いわ……」
ショーフェンの肩がかすかに震えていた。
やはり、この世界は、かつての世界とは違っているらしい。
しかし、神なんてものが本当にいるなんてな。だが、信じる信じないなんて、そんなレベルとうに過ぎている。
そもそも俺自身がこの世界に蘇るなんでこと自体が理解不能ってもんだ。
郷に入っては郷に従えだ。神様だろうが、なんだろうが、受け入れるしかないってことか。
「市場はどうだった? 何か、いいものでもあったかい?」
家に帰ると、ショーフェンの母親が明るく声を掛けてきた。
俺は、あの後、ショーフェンの家に連れていかれ、そこでしばらく看病してもらうこととなった。俺が自分の名前すら憶えていない記憶喪失者だと聞くと、ひどく不憫がって、当分この家にいるといいと言ってくれたのだった。
ショーフェンの家は、父親のトングと母親のヤオの三人暮らしで、はたから見ても、仲の良い家族という表現がぴったりくるような間柄だった。
農業を生業としていて、田が1丁ほど、この国でそういう単位を使うのかよくわからないが、とにかくそれくらいだ。他には、家で消費する程度の野菜畑、それに牛が三頭、ニワトリが10羽と小さいがよく吠える犬が一匹いた。
牛は二頭が大人で一頭はこの春生まれてきたらしい、食用というよりは作業用というのが正しいかもしれない。ただし、雌の牛からは乳が出るので、それは牛乳としても飲めるし、牛乳は発酵させれば簡単にチーズにもできる優れモノだ。
ニワトリは産んだ卵を食べることができるが、必要に応じてニワトリ自身を食することもできる。どうやら、この近くには海がないので魚はあまり取引されていないようだから、たんぱく質を得るための貴重な食材にもなる。おそらく、祝いの日には、食材として利用されることもあるのだろう。
犬は、ドグという名前だが、パッと見は秋田犬のような犬種だ。70センチくらいの体高があり、なかなか大きい。しかも、知らない人が来ると、響き渡るほど吠えたてるので番犬としては理想的だ。
俺も、最初の数日はだいぶ吠えたてられたが、どうやら怪しい者じゃないと理解したようで、最近は、声を掛けても見向きもせず昼寝ばかりしている。しかし、ショーフェンには尻尾を立ててじゃれてくるので、まだ俺をこの家の一員とはみなしていなようだ。
「ダメ、今年はやっぱりすべて高いわ。やっぱりダイデイが怒ったせいで、何もかも不作みたいね」
「そうかい、困ったね。うちは、まだ出来はそんなに悪くはないからいいけど、こんな調子だとこの冬苦労する人がたくさん出てくるんだろうね」
ヤオはまるで自分のことのように顔を曇らせた。
「大丈夫よ、今年を乗り切れば、来年はきっといい年になるわ。わたし何かそんな予感がするの。ロセイがこの家に来たのも、その前触れなんだと思うの」
「ショフェン、あんたが、そんなこと言うから、ロセイが困った顔をしているよ」
「俺は別に七福神じゃないから、そんな期待されても困る」
「何、七福神って?」
「いや、まあ、そのなんというか……いわば、ダイデイのような神様たちで、そいつらは幸福を運んでくるんだ」
「まあ、凄い。でも、そんなことを知っているロセイはやっぱり七福神なんだよ」
「だから、違うって」
「まあまあ、二人とも疲れたでしょう。夕食の準備ができてるから、早く食べましょう」
そう、確かに奥の食卓の方から、野菜スープのいい香りが漂ってきてる。もう腹が減って死にそうだ。と、そんなことを思ってたら、俺の腹がグウと鳴った。ショフェンとヤオが笑った。
塩味の聞いた野菜スープが、歩きっぱなしで疲労困憊の体には堪えられない。梅干しが入ったおにぎりもシンプルながら美味い。梅干しのしょっぱさが一日の疲労を吹き飛ばしてくれる。
「しかし、何を食べてもおいしいが、何か秘訣でもあるんですか」
ようやく腹も膨らんだ俺はヤオに尋ねた。
「母さんが作る料理はなんでも美味しいの!」
ショーフェンの言葉を窘めるようにヤオが言った。
「私の腕っていいたいけど、やっぱりこの辺りで取れる塩がいいのよ。独特な風味があって、なんにでも合うし、保存用の漬け塩としても最高なの」
「塩って、あれか?」
俺が指さした先には、少しピンク色をした大きな塩の塊が戸棚に乗っていた。
「そう、この先の山からとれる岩塩なの。行けばそこらへんに転がっているから、簡単に取れるの」
「そっか、それはありがたいね」
そう言いながら、俺は、ずっと手つかずなもう一つの皿の方に目をやった。
「トングは今日は遅いのか」
「街のお役人に呼び出されて出て行ったんだけど、確かに遅いわね」
実はヤオも心配していたと見えて、その顔が曇った。
「ただいま……」
ちょうどそんな話をしているところに、トングが帰ってきた。
「おかえり、あなた。随分、遅かったのね。何かあったの……」
おそらく、長年連れ添ってきた夫婦だからこそなんだろう。トングの顔つきで何か困ったことになったことをヤオは感づいたようだった。
トングは、疲れたように椅子に腰を落とすと、ショーフェンが持って来た水をごくごくと飲んだ。
みんなの目がトングに向けられていたが、トングはしばらく黙ったまま何から話そうかと思い悩んでいるようだった。だが、俺たちの顔を見つめると覚悟を決めたようにしゃべりだした。
「この街の太守が、今年は不作になりそうだから、税が足りない。だから、いつものように収穫の5割ではなく、6割よこせと言ってきた……」
その言葉に絶句したヤオとショーフェンの顔が真っ青になった。
「……6割なんて持っていかれたら、この冬食べるものがなくなって餓死する人がでてくるかもしれない……」
ショーフェンが消え入るような声でつぶやいた。
「父さんたちもそれを必死で訴えたんだが、去年の量に足りなくなるからダメだの一点張りだ。そもそも米は、年年の天候に左右されるから量なんて毎年違うにきまっている。これまでだって、それは当たり前のことと理解してもらえたんだが……」
「じゃあ、なんで!」
「それは建前で、実のところは自分の懐に入れるためなのさ」
吐き捨てるようにトングが言うのを聞いて、俺もそれが真実だろうと思った。
この国では太守は派遣制らしく、ここの太守は昨年の暮れに着任したばかりだそうだ。おそらく、そいつはひどく欲深なやつなんだろう。普通に考えれば、おそらく、5割の時でも一定の額は太守の取り分になっているんだろうが、今年の作況を見て、少しでも自分の取り分を多くするために、6割寄こせと言い出したんだろう。まあ、欲深いのは人の常、投資家のやつらも、利益の配当割合についてはひどくうるさかった。
俺は、しばらく、不安そうな顔で語り合うショーフェンたちを黙って見ていたが、ついに意を決した。
「その太守って奴には直に会ったのかい?」
「いや、俺たちが会ったのはただの役人だよ」
「それなら、その役人に太守と直接話がしたいと言ってみてくれないか」
「それはもう言ったが断られた。太守は俺たちと話すつもりはないようだ」
「なら、こう伝えてみてくれ。太守様の利益になりそうな話がありますから、是非、お会いしたいと、後悔はさせませんとね。太守はきっと会うというだろうよ」
俺がそういうと、トングもヤオもショーフェンもびっくりしたような顔でこっちをみた。
「ここでは、随分と世話になったんで、借りは返したい。大丈夫、俺に任せてくれないか」
俺は、にやりと笑って、そう答えた。
そろそろ俺も覚悟を決めなきゃいけない。
この世界で生きていくなら、元手が必要だ。
その元手を得るためのチャンスが来たってことだ。




