「遊び半分」の契約関係と、未来の愛娘に足を踏まれる幻影
一方、王都の遥か別の一角。エルガード公爵の私室は、息が詰まるほどの静寂に包まれていた。
キリアンは、遠くにそびえる壮麗な王宮のシルエットを正面に見据える大きな窓の前で、立ち尽くしていた。
軍部特有の黒と銀を基調とした、広々とした室内。
しかし今夜、帝国軍最高司令官たるこの男は、山積みになった軍事報告書に一切手を付けていなかった。彼の思考は完全に停止し、今日の夕方、スラムの市場で起きたあのあまりにも不条理な出来事の分析を、脳内で何度も何度も繰り返していたのだ。
『偉大なる公爵閣下。退屈な王女を探すよりも、踊り子を探した方がよっぽど楽しいのではありませんか?』
キリアンはゆっくりと右手を下ろし、カチッとした軍服の襟元に触れた。そこには、今なお濃密な王宮の薔薇の香りが残っている。
彼が最も嫌悪する唯一の女であり――同時に、彼の「正式な婚約者」でもある女の香りだ。
コン、コン、コン。
「入れ」
キリアンが命じる。その声は、いつもの冷徹で抑揚のないものに戻っていた。
扉が開き、現れたのはヴァンスだった。彼はキリアンの副官であり、士官学校時代からの親友でもある。堅物なキリアンとは対照的に、ヴァンスはニヤニヤとした笑みを浮かべながら扉を閉めた。
「報告いたします、公爵閣下」
ヴァンスはおどけた調子で、わざとらしく恭しく言った。
「我が部隊は、例の赤いサリをまとった女を見失いました。市場の雑踏の中へ、煙のように消え去ってしまったとのことです」
ヴァンスは歩み寄り、ふと鼻をくんくんと鳴らした。
その鋭い目聡さは、キリアンの襟元から漂う薔薇の香りを瞬時に捉える。
「おや、おや……ずいぶんと特徴的な、王宮の薔薇の香りだねぇ」
ヴァンスは胸の前で腕を組み、にやつきながらからかった。
「まさか、市場で君の足を踏みつけていったあの不届きな街の踊り子が……」
「違う」
キリアンは即座に言葉を遮った。その声は、どう見ても防衛本能が働きすぎていて必死だった。
「香水の香りが似ていただけだ。そもそも、あのアリーシア王女のような箱入り娘が、あんな汚いスラムの市場に足を運んで泥を被るはずがないだろう」
「へえ、そうかい? でもね、王女の離宮からの報告によると、彼女は夕方から頭痛で寝込んでいるらしいよ」
ヴァンスは意地悪く返した。
「この帝国で、君に対してそこまで狂った度胸を見せる女なんて、一人しか心当たりがないんだけどな、キリアン」
キリアンは机の上で拳を固く握りしめた。無駄なプライド(男の矜持)のせいで、腕の血管がピキピキと浮き上がる。
「違うと言ったら違うんだ、ヴァンス。私が彼女を追ったのは、単に不審であり、異国のスパイである可能性を疑ったからに過ぎん」
「はいはい、出ました! プライドだけは一丁前だな!」
ヴァンスは堪えきれずに爆笑した。
「いいかい、友よ。薔薇の香りがする『謎のスパイ』を血眼になって追いかけるくらいなら、さっさと二人の関係を既成事実化(正式に婚姻)しちゃえばいいじゃないか。どっちみち、二人は婚約しているんだからさ」
「婚約」という単語を耳にした瞬間、キリアンは冷ややかに鼻で笑い、傲慢な仕草で執務椅子の背もたれに体を預けた。
「あの婚約が、紙の上の政治的契約に過ぎないことは君も知っているはずだ、ヴァンス」
キリアンは冷徹に言い放ち、己の威厳を取り戻そうとする。
「皇帝は私の軍事力を必要とし、私は魔塔の機密文書へのアクセス権を必要とした。アリーシアとの関係はその程度のものだ。私はただ、己の目的を果たすまで、この王宮のゲームに付き合って遊んでやっているだけに過ぎん。あの我が儘な女に対して、本気になる時間など私にはない」
「遊んでやってる、ねぇ?」
ヴァンスは呆れたように首を振り、キリアンの執務机の上に置かれていたフルーツバスケットから勝手にリンゴをつまみ上げると、シャキッと気楽にかじった。
「バチが当たっても知らないよ。最初は『遊び半分』で始めた契約関係ほど、エルガード公爵家の血筋(世継ぎ)が増えるのが一番早かったりするんだから」
「口を慎め、ヴァンス!」
キリアンは一喝した。その顔はみるみるうちに赤黒く染まり、自らの動揺(照れ隠し)を必死に覆い隠そうとしていた。
キリアンは引き出しから小ぶりの短剣を取り出すと、机の木肌へ力任せに突き立てた。ヴァンスの手元から、わずか数センチしか離れていない場所だ。
――ドスッ!
「私の部屋から失せろ。さもなければ、明朝の弓術訓練でお前のその軽口の叩きようを標的にしてやる」
キリアンは低く冷徹な声で囁いた。
ヴァンスは即座に両手を挙げ、降伏のポーズを取る。だが、その生意気な笑みは消えていない。
「はいはい、了解だよ、強がりの公爵閣下。これにて退散するとしよう。だけど僕の予言を覚えておきなよ。いつか絶対に、自分の吐いた言葉をそっくりそのまま飲み干す羽目になるからさ!」
ヴァンスが部屋を出て扉を閉めると、再び静寂が室内を支配した。
キリアンは机に突き刺さった短剣に視線を戻す。ヴァンスの言った『エルガード公爵家の血筋』という言葉が、どういうわけか耳の奥で奇妙にリフレインしていた。
疲労のせいか、あるいは薔薇の香りが濃厚すぎて脳の回路がショートしたのか。あまりにもあり得ない妄想が、突如として彼の脳裏をよぎった。
キリアンは想像してしまったのだ……もしも、ヴァンスの言葉が現実になったら?
いつの日か、この冷徹なエルガード城の廊下を、小さな子供がドタバタと走り回る姿を。
自分の血を受け継いだ黒髪を持ちながらも、あの美しく鋭い瞳と、不敵な笑みを浮かべる生意気な唇を持った――アリーシアに瓜二つの小さな女の子。
その幼い少女が、いつの日か甘えるように自分の足を踏みつけながら、『パパ、自由の代償は高いのよ!』なんて生意気に囁く姿を。
――パシィィン!
キリアンは突然、静まり返った室内で自分の額を激しく叩いた。小気味いい音が部屋に響く。
「クソッ、私は一体何を考えているんだ?!」
キリアンは掠れた声で毒づいた。
いつもは氷のように冷徹なその顔が、今は耳の先まで完全に真っ赤に染まっている。脳内が勝手に作り出したとんでもないビジュアル(妄想)のせいで、心臓がいつもの倍以上の速さでうるさく脈打っていた。
よりによって、今日の夕方に自分の足を踏みつけていった女との間に子供ができる妄想をするなんて。しかもその女は、一年前の自分が「一生視界に入れることすらお断りだ」と呪うように誓った相手なのだ!
キリアンは慌てて机の上の冷水を一気に煽り、アリーシアの目元を持った少女の幻影を脳内から強引に洗い流そうとした。
「狂っている。……ただの働きすぎによる疲労だ」
しかし、この若き公爵がどれほど必死に否定しようとも、その夜、彼は自覚せざるを得なかった。
鉄壁を誇っていたはずの彼のプライドの牙城が、たった一人の女の影によって、音を立てて崩れ始めているということを。




