09:決裂
小さい頃から悪口は嫌いだし、笑い声に無条件でびびってしまうし、かといって周りに合わせず浮くのも怖いし……。
「わたくしってなんなのかしら」
寮の自室の机に突っ伏して、傍らで控える侍女のナタリーにアデルは問うた。
ある朝の話である。
「そんなものありませんわあ」
「そんなもの……」
自分を雑な言葉にくるまれて言い捨てられた。
「……あんなにお優しいあの御方が、どうしてあんな思いをされなくてはならないの?」
「お優しいからですわあ」
腕を枕にしながら、笑顔のナタリーを見上げた。おっとりと頬に手を添えている。いつも通り。
アデルはむっと頬を膨らませ、立ち上がった。ナタリーと目を合わせて、言い募る。
「第一王子殿下は本当にお優しいの!」
「存じておりますわあ、お嬢様」
だってね、と無視してアデルは語り始めた。
友達のご令嬢に話したら、少しだけ格好悪い、と言われた話。価値観の違いを思い知った。
みんなどうせ身分と顔立ちにしか興味がないのだ。地位と名誉と顔と所作にだけ黄色い悲鳴を上げているのだ。
「確かに第一王子殿下は秀麗な容姿をお持ちですけれど!」
「わたしそんなお話していませんわあ」
「わたくしも最初は見目麗しいからとお慕いしておりましたが、それは初めの話ですっ」
アデルは見たのだ。見ちゃったのだ。
マノンが入学当初、貴族令嬢に嫌がらせを受けていたときのこと。恐らくは、彼女の実の母親から貰った大切なネックレスが無理矢理奪われて、魔法訓練用の、泥がたっぷりの沼地に放り投げられたところを。
マノンは大きい琥珀色の瞳を見開いたあと、躊躇いなく沼地に飛び降りた。
流石のわたしも泣いちゃいますよーと涙目で呟きながら、靴も靴下も足も制服も髪も顔も汚しながら、必死にもがいて沼地を漁っていた。
けれどアデルにはそれを手伝う勇気はなくて。
おろおろと周りを伺い、マノンを見て、耳と目を塞ぎ、逃げるようにその場を立ち去ることしかできなかったのだが。
ふと移動教室先の窓を見下ろすと、その沼地があった。
マノンの姿を見るなり飛び込んで、彼女を一度引き上げた第一王子の姿も、見えた。
「全身泥だらけになりながら、それでも一緒に探していたの!」
端正な顔を汚しながら、切実に、かつ冷静に探していた。
「あんなに、あんなにお優しい御方が、どうして闇系統魔法使いだからと婚約者から冷遇されなければならないの?」
魔法系統。簡単に言えば、どんな魔力かを表すものである。
人は誰しも、摩訶不思議なエネルギー、魔力を持っているもので、魔力を用いてなにかすることを魔法と呼ぶ。魔法を使用する際、魔力は使用者の魂の色に染まる、と言われている。
実際魔力は人や生物によって性質が異なっており、使用しやすい魔法が個体によって異なる。
それをもとに分類したおおざっぱな魔法の系統のことを、そのまま魔法系統と呼ぶのだ。
そして、ラフィネ教の教えによれば、闇系統魔法使いは闇の神の眷属であり、魔力生物は基本的に闇系統ともう一つ魔法系統を併せ持っている。
アデルの言葉に、ナタリーはそっとアデルの頭を撫でた。
「そういうものですわあ」
男爵令嬢のくせに平民同然の生活をしている。
そう、何度も侮辱されたことのあるナタリーに言われると、アデルはなにも言えなくなってしまったのだった。
――あれは、いつのことだったか。
アデルは天井をぼんやりと眺め、数か月前のことを思い出した。
あのときのわたくしは、恋に浮かされていて……。
いや、恋と呼ぶのもおこがましい。
彼のクラスの前を通るときには髪に手の櫛を通したり、ふわりと香水をつけたり。
横顔をそっと覗くだけで頬も心臓も熱を持って。
……そのまま、友人たちと合流し、冷えた頬を動かすのだ。
ええそうですわね、気味の悪い御方ですわ、と。
心を蝕んでいく、変えようのない馬鹿な過去。
どう後悔しても、今更なにも変えられない。どうせ自分がなにかしていたところで何も変わらなかった、と思うことさえできれば、今よりは多少貴族らしく生きられていただろうか。
無理な話だけれど。
アデルは身を起こした。
今日は、髪飾りをつけて学校に行く。
「おはよう、ナタリー」
「おはようございます、お嬢様」
朝食です、と差し出されたフレンチトーストに、アデルはテーブルに駆け寄り、椅子に座った。
「いただきます」
しっとりした味わいに目を閉じ、頬を緩めた。
アデルがそうしている間に、ナタリーは髪に櫛を通し、整えてくれる。
今日は、最後にハーフアップにしてバレッタで留める。
食べ終わったタイミングで、ナタリーは三面鏡のところへ誘導してくれた。
ぴたりと真ん中に納まる可愛らしいバレッタ。いろんな感情が溢れて、飛び跳ねたくなる。
制服に袖を通すと、ますます心が躍った。勢いあまって、その場でくるくる回ってみたりする。スカートがふわりと身をくるむ。やがて反対に回りだし、数秒もすれば元通り。鏡に映る、自分の笑顔。
「ふふふ」
不安はある。それに、恥ずかしさもある。
けれど、似合っていると褒めてもらえた。同年代の、男の人に。
アデルは少々はしたないほど口許を緩ませた。
浮かれすぎだ。
さきほど思い出した己の過去が、舌に苦味を伝えた。
失敗をした過去は、じわじわと効いてくる遅効性の毒のように心を重くする。
しかし登校時間は迫る。
「ナタリー、行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、お嬢様!」
鞄を両手に持ち、アデルは自室を出た。
歩き進めるとそこらでご令嬢たちが会話を交わしている。今自分は他人にどう見えているのだろうと不安になる。余計な心配をするから、疲れる。
アデルは早くも帰りたくなるがぐっとこらえ、教室に向かった。
編み上げブーツが動き、そのたびスカートが跳ねる。
気がつけばいつも自分は地面を見つめている。
前を見るのは怖い。自分の顔を見られるのも、相手の目を見るのも恐ろしい。
だけど、変わりたいと言ったばかりだ。
アデルはよし、と意気込んで顔を上げた。
「おはようございます、アデルさん」
途端声を掛けられ、アデルはびくりと振り向いた。
グレージュのボブ。はっきりと吊り上がった灰青色の瞳。オルタンス・ド・ダンシェだ。
「おはようございます、オルタンスさん」
汗を滲ませつつにこやかな笑みを彼女に向け、アデルは告げた。手元、鞄の紐を握った両手はそわそわと落ち着かない。
オルタンスは、からりと微笑むと、何も言わずに去っていった。
お昼ご飯に誘われなくなってからも、彼女は毎日簡素な挨拶だけを今でも続けてくれていた。ああ見えて温情のある人だ。
「おはようございます、アデルさん」
ふわふわと愛嬌のある笑顔を浮かべ声をかけてきてくれたのは、エロイーズ・ド・トート。
「おはようございます、エロイーズさん」
彼女のオレンジがかったブロンドが揺れる。
こちらも、本当に優しい人だ。未だに、なにかと話しかけてきてくれる。
まあ、とエロイーズは鞄を魔法で浮かせ、両手を胸の前で合わせた。
「どうなさいましたの? その髪飾り。とってもお似合いですわ!」
「あ、ありがとうございますわ、エロイーズさん」
屈託なく笑う彼女は、お願いするように頬の横に手を滑らせた。
「アデルさん、今週末どこかに出かけませんこと? オルタンスさんとも一緒に。最近していなかったでしょう?」
アデルは微笑を浮かべ静止した。焦燥がじわりと迫る。
自分はもう何日、誘いを断っただろう。
きっとこれが、最後だ。そんな気がする。
『だから、第一王子殿下のこと。気味が悪いでしょう?』
『ええ、わたくしも、そう思いますわ』
「……えっと」
アデルは言い淀んだ。エロイーズはどこか必死そうに笑いかけてきている。
エロイーズも、オルタンスも、本当に優しい。アデルの方から向かえば、再び仲間に迎え入れてくれるだろう。何事もなかったかのように、いつも通り、編み物や刺繍、音楽の話ができる。
この先もずっと、孤立しないで済む。
だけど、貴族なのだ。人のうわさ話に花を咲かせ、笑うような。
――孤立して、もしもマノンのように目立ってしまったら、自分は耐えられないくせに。
今からでも、すみませんと恥を忍んで再び輪の中に入る。それが貴族としての最適解。
友人を失わずに済む、最善。
――強い人間じゃないくせに。これ以上自分が汚れるのは嫌なのね。
アデルは、マノンの悪口も、第一王子の悪口も、もう言いたくない。もううんざり。
平民なのにとか調子に乗ってとか殿下に近づいていい気になってるとか生意気とか気にくわないとか頭が悪いとか品がないとか怒りの感情を直接的に口にする幼稚な女とか無知とか恥知らずとか、恐ろしい魔法とか人間かどうか疑わしいとか気味の悪い髪と目の色とかあんなのが王子様なんてとか、イメージと違ったとか失望したとかありえないとか悍ましいとか、あげつらねるのも躊躇うような、そういうの、そう言うの全部。
ぜんっぶ、うんざり。
臆病でどうしようもない自分にも、もう。
変わりたい。
もしも、縁を断ち切ったとしても。エロイーズとオルタンスなら、あえて嫌う真似はしないような気がした。
変わりたいのと離れても、その勇気を笑わないでいてくれる気がした。
だからアデルは、言った。
「……ご、ごめんなさい。エロイーズさん。お誘いはありがたいのですが、その日は予定がありますの……」
その瞬間、最後の糸が切れた音がした。
エロイーズのおっとりとした目が見開かれる。彼女は戸惑うように眉を顰めた。なにか言いたそうに唇をすぼめて、どうして、というように目を揺らし、結局唇を引き結び、困り眉で微笑した。
「そう。残念ですわ」
うっすらとした安堵と不安が広がった。
教室に着いてからぼんやりと思考をする。二人からくすくすと悪口を言われる想像をする。そうはしないと勝手に期待しているのに、期待し切ることすらもできない臆病者だった。
ただ、それと同時にぐるぐると、アデルは今の自分が周りからどう思われているのだろうと最悪な想像ばかりが駆け巡る。
授業が始まってからも、とにかく後ろが気になって落ち着かない。
が、まあ、時は過ぎる。そんなこんなで昼休み、ドキドキで室内庭園に歩くのだった。
このときにはもう不確定な二人についてはそれほど不安ではなく、それよりクレマンになんと言われるかという不安ばかりが頭の中を埋めていた。それに少し、期待も。
足は急いた。
扉を開け、こんにちは、とクレマンに呼びかける。
彼は振り向くと、ぱっと笑顔になった。
「こんにちは、アデルさん。……髪飾り、いいですねっ」
クレマンは自分の髪を指さした。それにアデルは、ええ、と顔を綻ばせ、お隣失礼しますとベンチに座る。もちろん、クレマンと同じベンチの、端。
「せっかく買ってもらいましたのに、仕舞われているのでは勿体ないなと思ったんです」
ランチボックスを広げ、アデルは手を合わせた。
ぽつぽつと食べ進める。
その間、口が空いたときに会話を交わす。
彼の言葉も声も、いつだって自分と同じ温度を孕んでいる。
同じような熱さで、詩について話せる。
楽しい。だってこんなにも等身大の自分でいられる。
時折沈黙が降りる。アデルがほとんど話さないときもある。それでもいい。
彼の一人語りは、暖かで、素朴で、好ましい。
漠然と、この日々がずっと続けばいいと思った。
たとえそれで、教室の居場所がなくなったとしても。
その翌日から、二人が挨拶をしてくれることはなくなった。
それは、別によかった。一抹の寂しさはあったものの、自分が選択した結果だ。当然のことだと思う。
ただ、子爵令嬢たちの口から、お可哀想に、お一人で、と小馬鹿にするように言われたとき、二人が挨拶してくれることでどれだけ自分が守られていたか、痛感した。
そう言われるとなんだか自分が惨めで恥ずかしい人間であるかのように思われる。
アデルは自席で赤面し、俯いた。
そろりと窺うと、オルタンスとエロイーズは、二人でそれなりに仲良くしているようだった。ちらとオルタンスがこちらを見た。ほんの少し蔑むような寂しがるような顔をしたあと、エロイーズとの会話に微笑を浮かべ戻っていく。
居場所がどこにもなかった。
当たり前だ。自分で選んだ。
悪口を言ってやっと得られる居場所などいらないと、自ら手放した。
教室で自分の存在だけが猛烈に浮いているような気がする。周りの視線が全て自分を蔑んでいるように思えてくる。
自分だってそうしただろうに。
マノンから元気よく挨拶され、無視をした。
マノンの悪口に意見を求められ、笑顔で同調した。
マノンの大切なネックレスが沼地に落ちたとき、見て見ぬふりをした。
マノンが冤罪で教師に怒られているとき、巻き込まれないように逃げた。
一つ一つ上げていけばきりがないほど、最低なことを何度も繰り返してきた。
彼女が間違っていると気づいていたのに、指摘してあげるだけの勇気がなかった。
そんな臆病者が、どうしてこんなことで泣きそうになっているの?
ただ、教室から居場所がなくなっただけ。それも、自らの選択の結果。
それでどうして。
じわりと涙が滲んできて、アデルは慌てて瞬きをした。
逃げたくないと思ったが、それが間違っていたのかもしれない。弱虫のアデルに、逃げずにいられる強さなどあるわけがなかったのだ。
今からでも、二人に話しかける?
そんな勇気もない。二人にとっては、そんなの迷惑でしかない。
二人にまで陰口を叩かれるのは嫌。
あんな臆病者、そりゃあ貴族社会で生きていけないわよね。
誰かの言葉が、不意に刺さった。
くすくすと笑われる。
惨めだ。本当に。
「うわあ! なにこれ砂? マジックじゃないんだから。……わたしの参考書はー?!」
マノンが、頭を抱え、独り言ちていた。相変わらず大きい独り言だ。
アデルは彼女の横顔を眺めた。いつだって生き生きと表情を変えている。
鞄を開けたらたっぷりと入っていたらしい砂が溢れだし、鞄を伝って机へと零れ落ちていた。というか、マノンの制服にまで飛んでいるし、椅子にも流れている。
……謝りたい。
アデルは、切実に思った。
マノン・ブーロに、謝りたい。
たとえ彼女が強い人間だとしても、傷ついたはずだ。酷い言葉ばかりだったのだから。
どんなに辛かっただろうか。
思えばアデルは、彼女のことをほとんど知らない。
アデルが知っていることなんて、平民だったが、光系統魔法が使えるからブーロ男爵家の養女にされた、というだけだ。
いつ養女になって、学園に入学するまでどんな生き方をしてきたのか。全く知らない。
嫌がらせを笑えるようになるまで、一体どれだけ傷ついてきたのか、知らない。
ぎゅっと、白い手袋を嵌めた両手を握る。
恐怖で、身体が震えていた。
今更自分がしたことの重大さに気づいたって、過去は変わらない。
「ねえ貴女、どうしてそんなに無様なのに生きていられるの? 羨ましいわぁ、わたくしが貴女だったら惨めったらしくて生きていられないもの!」
甲高い声が響く。
ぐしゃりと眉を歪める。
情けない。
弱い。
大嫌い。
地味だし、そのくせ変に憧れてちょっと高い香水買ってみちゃったりするし、弱いし、泣き虫だし、人と話すのは苦手で、すぐどもるし、声小さいし……。
唇を思い切り噛みしめる。
泣かないでよ。弱虫。
震える息を吐きだす。
でもこれで大好きな人たちを侮辱せずに済む。
そんな風に思えたら、よかったのに。
どうせ自分は、変われない。
「自分を惨めだと思ったら、それこそ本当に惨めじゃないです?」
いつの間にか下がっていた頭が、マノンの言葉で思わず上がった。
見れば、からかいに行った伯爵令嬢に真正面から向き合い、不思議そうに首を傾げていたのだった。




