08:髪飾り
その日、クレマンよりも先に着いたアデルは、そわそわとランチボックスを広げていた。
唐突に、彼にしては乱雑な開け方で扉が開いたと思ったら、そこには瞳を輝かせた、桃色髪の少女がいた。
溌溂とした眉から、ぽかんと力が抜ける。
アデルは尋常でないほどの鼓動に、思わず胸に手をやりかけた。
一瞬で頬が赤く染まり、頭が熱くなる。真っ白になったそこは、碌な思考ができない。
「……えっと! すみません! お邪魔しました!」
快活に笑って、バタバタと忙しなく少女――マノン・ブーロは出ていった。
取り残されたアデルは、ただただ追いつかず静止するほかない。
……会えたのなら、謝り、たかったな。
今更謝ったところでどうにもならないと知っているが。許しを請うが故の謝罪かもしれないが。
アデルが目を伏せていると、数分でクレマンが扉を開けた。ゆっくりと、静かに。
「こ、こんにちは、ク、レマン様」
はにかみながら言うと、彼はいつも通り柔らかに微笑み、
「こんにちは、アデルさん」
お隣失礼いたしますとベンチに座った。
いただきまーすとうきうきしているクレマンの様子に、少しほっとした。
昨日、嫌なことを話させてしまったから。
小さくクレマンに話しかけた。
「クレマン様、は所作がとても綺麗ですね」
まだちょっとだけ名前呼びに慣れない。
「そうですかね。アデルさんも、仕草が上品ですよ」
クレマンは、人を真正面から褒めるのに、少し言い淀むし、照れたように頬を引っ掻く。
なんだか自分に似ているので、親近感から頬が緩む。
「……ありがとうございます」
そして、褒められたことにいい気になって、ますます口許がだらしなくなる。
いただきますと手を合わせ、アデルはランチボックスからサンドイッチを手に取った。一つ目はぎゅうぎゅうに具が詰まったたまごサンド。
小さく口に含む。
クレマンを横目に、彼の話に耳を傾ける。
無駄にゆっくり味わって食べるのは、どうしてだろう。彼が褒めてくれた自慢の侍女の料理を堪能したいからか。それとも、彼の話を聞きながら食べるこの時間が、一等好ましいからだろうか。
「……あの」
ふと話が途切れたタイミングで、口を開く。そろりと彼の方を窺えば、そこにはやっぱり、暖かな微笑がある。
好奇心で控えめに輝くピスタチオグリーンの瞳に、アデルはそっと眼前の花々を示した。彼は首をかしげ、何一つ変わらない花園に目をやった。
アデルはその様子に唇を綻ばせ、
「……クレマン様の、好きなお花が気になったんです」
ルーセヴェルの冬は早い。この外ではもうそろそろ冬らしく冷たい風が吹くというのに、春の柔らかさを孕んだ風に揺られ、花々はころんと、慎ましやかに咲き揃っている。
「花、ですか」
んーと彼は顎に手を添え悩んだ。ぼーっと虚空を見つめる目に、ほんのりと期待を膨らませる。
あれだろうか、これだろうか、と脳内でアデルが自分の好きな花を思い浮かべていると、彼はやがて一つ頷き、アデルの視線をある花へと誘導した。
「フリージアが好きですね。特に黄色が。甘やかでありながら爽快な香りが好きなんです」
そういえば、柑橘系の香水が好きだと言っていたのだったか。
アデルは納得して、口許に手をやり、くすりと笑った。
「可愛らしいお花ですよね」
「ええ。あとはローズ・ノワールなんかもいいですよ。香り高く花弁の深紅が美しいところとか」
「ここの花には、香りがありませんけれどね」
天井に広がる半透明なローズを見上げ、アデルは呟いた。このローズも、魔力植物でないとはいえ魔法にかかっている。香りはない。
「魔力に侵された植物の特徴ですね。ほんのりと無機質で、これはこれで好きですよ」
魔力生物学が好きな人だ、そう言うのも納得だが。
「わたくしは、たまに実感が湧いて恐ろしくなります」
微苦笑を彼に向けた。
見た目は清らかで愛らしい植物たちが、突然魔力生物のように(まあ実際そうなのだが)牙をむいてきそうで、どことなく薄気味悪くなる。
「ぱっと見では植物と変わらないのが、かえって擬態しているような、その、知能を感じてしまうというか……」
魔力植物はあらゆる生殖機能を失う。代わりに、魔結晶というものができ、空気中から魔力を取り込んで、小さな魔結晶を生成し、空気中に放出する。この小さな魔結晶を誤って普通の植物が消化してしまうと、その植物も魔力を含むことになり、魔力植物となるのだ。
核となっている魔結晶が魔力を取り込んだり溜め込んだりする機能を果たしているので、魔結晶を破壊すれば魔力生物は死ぬ。
「なんとなく分かる気がします。僕は、その気味悪さも含めて好ましく思うのですが……えっと、この話やめましょうか」
クレマンが苦笑した。多分アデルの顔色が悪かったのだろう。些細な変化に彼が敏感であっただけで、アデルがビビりなわけではない、と信じたい。
「アデルさんはどんな花が好きなんです?」
「……改めて聞かれると、中々困りますね」
自分で質問したくせに明瞭な回答が思いつかず、アデルは困り眉で笑った。
「あははっ。昼休みはまだまだありますから」
そう笑われても、アデルは焦る。話を自分が止めてしまっているのだから。
と思っていたのだが、慌てるアデルを放置して、クレマンは一人で美味しいと昼食を満喫し始めた。ならいっそ存分に悩もう、と真剣に悩んだ。
バスケットをきゅっと握りながら、ふらふら揺れる。何分か経って思いついた答えは。
「小さくて可愛らしいお花が並んでいる様子、が好きですわ。……すみません、答えになっていませんね?」
我ながら、たっぷり数分悩んでこの返事はないと思う。
クレマンはよほど間抜けに感じられたのか、笑いを噛み殺して言った。
「いえ、アデルさんらしくていいです。小さくて可愛らしい、というと、ミュゲなどですか?」
「ええ、まさに。あとは、ですね」
ふと懐に入っている髪飾りの存在を思い出し、アデルはそっと取り出した。
両手でバレッタの両端をつまみ、表面をクレマンに見せる。
「ポワ・ドゥ・サントゥールですとか」
照れくさくなって、目線が下がる。前髪がやや目にかかった。
「……その。母が入学祝いで買ってくださったのですが、わたくしには合わないような気がしてしまって、ですね」
どうして髪飾りを持ち歩いているんだろう、などと思われるに決まっている。
確実に変な子。
「あの、いつも持っているわけではなくて。き、気分でどうするか決め……いえ」
それはそれでもっと変。
言い訳に困窮しアデルが口を噤むと、クレマンは下がった髪飾りをじっと見つめていた。
バレッタには、小ぶりながら淡く優しい風合いの桃色と白色のポワ・ドゥ・サントゥールが、フリルのように乱れ、並ぶ。繊細な細工の葉の新緑が、ほどよいメリハリをつけてくれている。
わざわざ保護の魔法を使ってまで持ち歩くようなものではないが、こんなにも素敵なものをつけてしまったら、自分の地味さが一層目立つように感じてしまうのだ。
まさしく宝の持ち腐れ。身に余るほど魅力的な品だった。
唇を引き結び、俯いて頬の赤みを誤魔化していたアデルに、クレマンはにっこりと笑って、すごいことを言い出した。
「素敵ですね。あの、もしよければつけてみてくれませんか? 髪飾りなんですから、その、髪に飾られているところを見たいです」
調子に乗って髪飾りを見せるのではなかった。
アデルはほんのちょっと、自慢したさに取り出したことを後悔しながら、頬を染め、汗をかいてクレマンを見上げた。
多分微笑はやや引きつっていたと思う。
が、クレマンも照れたように目を逸らして頬を引っ掻いていたので、お互い様ということにする。
「……や、やっぱりよくありませんよね。事情があるんでしょうし、えっと、忘れてください」
今までなら、都合のよい言葉に従い、忘れていただろうか。
アデルは含羞を帯びたまま、小さく頷いた。
「……す、少し、少しだけお待ちください」
バスケットをクレマンと自分の間に置いた。膝の上、紺色のスカートにバレッタをほんのり沈ませ、ハーフアップを試みる。
横髪を、たまにするように握って見せて、腕を頭の後ろに持ってくる。この時点で髪がぐしゃぐしゃである。
ちらりと隣を見やると、なにやらむず痒い顔のクレマンと目が合った。
無性に恥ずかしくなってきて、顔を逸らす。
今は手に意識を集中させなくちゃ。
気を取り直し、今度は手の櫛をかけてから挑戦してみる。
が、一人ではなかなかうまくいかない。どうしても途中で髪が乱れてしまうのだ。
ある意味当然である。なにせアデルは生粋の子爵令嬢だ。いつも髪は侍女のナタリー頼みである。生まれてから一度もやったことがないのに、いきなりハーフアップだなんて無謀だったかもしれない。
しかしここでやっぱりできませんでした、はかなり恥ずかしいことではなかろうか。
髪飾りをつける以前の問題だ。
それにしても、さきほどから隣で心配そうに前のめりになったり、あちゃーとでも言いたげに表情を歪めたり、クレマンの感情が忙しない。
……従者をしているらしい彼の方が、こういうことには長けているのかもしれない。だがしかし、年頃のご令嬢が殿方に髪を触らせるなんて言語道断。
勇んで髪を結ぼうとした以上、なけなしのプライドもある。
とはいえ。おっともったとやっているアデルの姿に、気遣い上手の彼が放置するわけもない。
「あの、すみません。少し、いいですか?」
見かねたクレマンが立ち上がり、傍に寄って来た。
じわじわと赤面し、アデルは目を伏せると髪飾りをクレマンに渡した。左斜め上に踵を揃え、身体の向きを動かす。これなら多分、彼も髪を弄りやすいはず。
「御髪、失礼いたしますね」
アデルがそわそわするほど丁寧な手つきで、クレマンがアデルのキャメル色の髪に触れた。
……恥である。貴族としてどうかと思うし、年頃の少女としてもどうかと思う。
肩に力を入れ、スカートをきゅっと握った。
表面を撫でるような優しい動きで、絡み、崩れたアデルの髪が綺麗に整えられているのが、なんとなく伝わってくる。
毎朝ナタリーにもこうしてもらっている、と、今朝方の侍女の手つきを思い出して、少し緊張を解いた。
が、やっぱりあの人の毛質相当硬いな、などとぼそりと呟かれて、ドキリと肩を持ち上げた。
……あの人。彼の主人のことだろうか。
落ち着かない。
「……あ。分かりましたわ」
「へ?」
後ろから聞こえた声に、アデルは目を細めた。顔を熱くしたまま、
「クレマン様は、何に対しても仕草がお優しいのです。一つ一つ丁寧に扱っているから、所作が綺麗に見えるのだわ」
一人納得したアデルに、芯から照れたような声が降ってきた。
「……そうですか? 褒めていただいて光栄ですけれど」
珍しく口の中でこもったような彼の響きに、アデルは口許を押さえてころころと笑い声をあげた。
クレマンは失礼しますねと、耳上の横髪を掬い上げると、一つにまとめてバレッタを留めてくれた。ぴったり水平、少しの傾きもない。
「できましたっ」
横からにこりと覗き込んでくれたクレマンにお礼を言って、おずおずと見上げた。
「……ど、どう、ですか? あの、わ、わたくしでご期待に沿えました?」
つんつんと髪飾りをつついてみたくなる気分をぐっとこらえる。そんなことをしたら、せっかく綺麗に飾られたバレッタがズレてしまう。
「えっ、あ、はい。とてもお似合いです。とても!」
恐らくは自分と同じくらい赤の差したクレマンの動揺が滲む言葉に、心の奥から沸々と嬉しさが浮かんでくる。困り眉ではあるけれども、アデルは満面の笑みを滲ませた。
「ありがとうございますっ」
アデルがそう言えば、さきほどまで同年代の青年らしい戸惑いと照れを滲ませていたはずのクレマンは、少年らしからぬ穏やかで柔らかな眼差しをするのだ。
「そんなに喜んでいただけてよかったです。無理強いしてしまったかと、少し後悔していたんです」
ランチボックスを持ち上げ、クレマンはベンチに腰掛け直した。
やっぱり丁寧、とアデルは満足して、中断していた食事を再開していた。
放置してしまってごめんなさい、マナーがなっていなかったわ、と内心で謝りながら、サンドイッチを口にする。卵の冷ややかな甘さとバゲットの香りが口の中いっぱいに広がる。
お互い時折話したいことがあれば口を開き、お互いの話を良いスパイスに食事を進めて。
あっという間に昼休み終了の鐘が鳴り響く。
いきなり教室につけていくわけにもいかないし、とアデルは髪飾りを外した。
元通り保護の魔法をかけ、隠しにしまいこむ。
その様子を眺めていたクレマンは、なにかを言いかけて、苦笑して口を閉じた。
「では、わたくしはこれで」
アデルは席を立つ。汚れがないことを確認すると、バスケットを両手で握り、ブーツで石の上を歩いた。
室内庭園を出るドアのドアノブに手をかけた瞬間、あの、とクレマンに呼び止められた。
彼がいつもそうしてくれるように、手を下ろした。踵を返し、彼と真っすぐ目を合わせる。
「僕は似合っていると思います、そのバレッタ!」
「……」
アデルは驚いて声も出なかったし、顔が赤くなっている自覚があったから、とりあえず頭を下げた。それから数秒して、落ち着きなく頭を上げ、真っすぐ告げる。
「あ、ありがとうございますっ」
これで義理は果たしたとばかりに大慌てでその場を後にする。
思わず両手を両頬に当てる。腕をバスケットに引っかけたまま、アデルは早歩きで廊下を抜けたのだった。
そして、授業を終えるなり寮の自室に駆け込んで、侍女のナタリーに髪飾りを見せ言った。
「ナ、ナタリー! あのね、お似合いだって! わ、わたくしに似合っていると、言ってくださったのよ!」
息を切らし、頬を紅潮させ言うアデルに、ナタリーはのんびりとした調子で、
「まあ、それはよかったですね。ですが落ち着いてくださいなあ」
ぽんぽんと肩を叩かれ、アデルは大きく息を吸った。
ラフィネ魔法学園の寮は、基本的に一人部屋だ。『献金』の量によって大きさが異なってくる。アデルは下位なのであまり広くない、とはいえ男爵家の屋敷の書斎程度の大きさはあるか。
真っ白な壁には魔結晶が埋め込まれており完全防音。その他守護の魔法もかかっている特別製。備え付けの家具はないため、アデルは実家からテーブルと椅子二脚、ランプ、本棚、ベッド、クローゼット、ドレッサーを持ち込んでいる。
壁の色に合わせて用意した白い椅子に座り、アデルは息が落ち着くまでしばらく待って、改めて目を輝かせた。
「こう、つけてくださってね」
話し続けるうち、アデルはだんだん口角を下げた。
「好きだとか気になるだとか、わたくし言えませんけれど、でもね、わたくし、クレマン様と明日も話せないか、楽しみになるの」
にこにこと頷いてくれる幼馴染に、アデルは言葉に詰まった。
「えっと、居心地がいいの。……それで、……だから」
「ええ、ええ」
ナタリーは優しく微笑みかけた。
「分かっておりますよ。……いいのですよ、お嬢様」
ナタリーはゆっくりと言い聞かせるように続ける。
「なにも恋情ばかりを好きと呼ぶのではないでしょう? わたしは、お嬢様のことが好きですわあ。そういうことではなくって?」
ナタリーの言葉に、アデルはこくんと首肯した。
「……あのね、ナタリー。わたくし、変わりたい」
はっきりと口にする。
「わたくし、今の自分なんか大嫌い。自分のことを、好きになりたいの」
きゅっと拳を握りしめ、アデルは不安げに自分の侍女を窺う。ナタリーはまあと手を合わせた。
「では、明日はそちらの髪飾りをつけてみましょうっ」
ふんわりと高く響くナタリーの声に、アデルはこくりと頷いた。ナタリーは笑みを深くすると、
「明後日は、ほんの少しお化粧を華やかにしてみましょう」
なおも言葉を紡ぐ。
「その次の日には少し大きめの宝石をつけてみましょう」
アデルは唇をへの字にした。
「そのさらに次の日には、ハンカチを可愛らしく致しましょう」
「……ナタリー、わたくしが変えたいのは内面だわ。見た目も、その、変えたいけれど」
アデルは困り眉で言った。が、対するナタリーは自信ありげに口角を上げる。
「見た目に自信を持てるようになれば、自然と自分を愛おしく思えるものですわあ。それに、お嬢様は既に成長されておりますよ」
「……そんなこと、ないと思うけれど」
ナタリーに強く言えず、アデルは口を噤んだ。
本当に、成長なんてできているのだろうか。
一年生が終わるまで半年もない。あと二年半で婚約者を見つけなければいけないのに、クレマン以外の男子生徒とろくに会話出来ない。
そもそも女子生徒とすら、旧友でなければできない。
沈んだアデルに、ナタリーは暖かな紅茶を差し出した。
「いつか、自信を持つことができた日に、マノン様に謝りましょう」
アデルは、伸ばしかけた手を凍らせた。顔を曇らせる。
「……そんなこと」
「できますわあ」
納得いかない弱弱しい顔をしていたからだろう、ナタリーはもう一度言った。
「できます」
ナタリーの手から紅茶を入ったカップを受け取る。
「お嬢様なら、できますわあ」
「……ありがとう」
揺れた琥珀色の水面に映る、歪んだ自分の顔。
アデルはじっとその顔を見つめ、そろりと唇をカップにつけた。ぎこちないながらも笑みを作り、見上げる。
「明日、バレッタをつけて学校にいってみる!」




