07:逃避
『だから、第一王子殿下のこと。気味が悪いでしょう?』
そう友人に問われ、アデルは。
「……っ」
飛び起きて、あらあ、どうなさいましたあ?と朗らかな声に、心拍数がやや落ち着いた。
周囲を見渡すと、そこは寮の自室だった。
「お嬢様?」
心配そうに困り眉になった、やや年上の侍女……ナタリーに、アデルはふるふると首を振った。
「大丈夫、嫌な夢を見ただけ」
そうはいっても、過去というだけで自分がやった行動には違いないのだが。
ナタリーは部屋のカーテンを開けた。昼の清々しい日光が部屋に入り込んできた。窓の外、太陽が明るく照る。
「そうですかあ。では、朝食をお運びいたしますわあ」
のほほーんと間延びしたナタリーの口調が、アデルは好ましく思える。
……ほんの数週間前のことなのに、つい忘れたくなっていた。
冷や水を浴びせられたようだ。
そうだった。アデルは、加害者になったのだった。
せめて傍観者でいられたらよかったのに、それも出来なかった。弱いから。臆病だから。
ぐずぐず沈んでいく思考を慌てて引き揚げ、にこやかにナタリーが運んでくれた朝食を口にする。
「いつも美味しい。ありがとうっ」
「あらあ、それはよかったですわあ」
ナタリーはころりと笑った。
アデルの侍女はナタリー一人だ。そのナタリーとも、領が隣で爵位も子爵と男爵でほとんど変わらないため、ごく普通の友人と言ってもいい。いや、『ごく普通の』というには、付き合いは長いのだけれど。
寮にいる間、家事全般も兼ねてくれているナタリーは、黒のロングスカートに白いエプロンという、女性使用人として模範的な服装だ。
ふんわり膨らんだ頬を滑る、ウェーブのかかった栗色の横髪。後ろ髪は綺麗にまとめられている。装飾性のあるバレッタは、大人らしい上品なかわいらしさがあった。
「……ねえ、ナタリー」
「どうなさいましたぁー?」
ぼーっと毛布を眺め、クリームイエローの瞳を揺らした。毛布を抱きしめながら、アデルは小さく問うた。
「わたくし、変われているのかな」
昨日は、名前を呼べた。自分から話しかけられるようになった。それに、ハンカチについても、自分から聞いた。本も、最初は自分から。
しかしそれは、ただクレマンが優しいだけではないのか。親しみやすいだけではないのか。
本質は、どうせ変わっていない。どうしようもなく臆病で、思ったことすら大切にできない腰抜け。
クレマンと出会ったところで、言葉を交わしたところで、自分は変わらない。
……おかしいな。そう思うのをやめたくて、昨日頑張ったのだけれど。
「お嬢様」
ナタリーは屈んで、ベッドで起き上がったままのアデルと目線を合わせた。
「変わろうと思えたのなら、変われているのですよ? 自信をお持ちなさい」
「……ありがとう」
ぐるぐると涙腺に涙が溜まる。熱を帯びた水の膜をこすり、涙がこぼれないようにする。情けない。
身支度を整えて、昨日用意した荷物を改めて確認すれば、今日も学校だ。
鬱々とした気持ちを飲み込んで廊下を歩き、寮から校舎へと移動する。周りには同じようにして登校している生徒が大勢いた。
今日はこの授業があるから嫌だ、だとか。小テストはなかったか、だとか。そういうなんてことない会話が交わされる。
……なにを思い上がっていたのだろう。人を躊躇なく傷つけた時点で幸福になる資格などないのに。
席に着く。ちらりと、向かい側の教室を覗く。それとなく魔法を使って視力を上げてみたりして。
お目当ての、艶やかな黒髪を伸ばした青年を見つけ、罪悪感から即座に目を逸らした。
……本当に、なにをしているのだろう。
アデルは、相変わらず広がるマノンへの悪口も相まって、ひそやかにため息を吐きだしたのだった。
室内庭園に着いて、アデルはびっくりして目を見開いた。
クレマンがぼーっと遠くを眺めている。内側から憂いが滲み出たような目。
まるで、自分みたいな目。
不謹慎にも、というべきか。アデルは後ろめたい親近感を覚えた。
ベレニスの詩集が好きだと知ったときと同じ、普段人当たりのよい笑みの彼が、自分と同じような表情を見せることへの、強い歓楽が胸を突く。
アデルは己に嫌悪を覚え、ゆるりと首を振った。
「……こんにちは。ク、クレマン様」
酷い人間。
心の中で吐き捨てた。ベンチに座り覗いた彼の横顔が、驚いたようにこちらを向く。一拍遅れ、
「ああ、こんにちは、アデルさん」
ころりと、いつもの人好きのする笑みを浮かべた。
先程までの気鬱が、アデルの前から姿を消してしまった。取り繕いが上手い。やはりクレマンとアデルとでは、人間関係に対する器用さが違う。
じっとアデルが見つめていると、彼は困り眉で微苦笑した。
「……どうされました?」
変わらず穏和な声音に、アデルは顔を赤くして、首を振った。
「なんでも……」
言いかけて、いや、でも気になる、と言葉を止める。
困り顔の彼に言うのは憚られる。そもそも自分は、どうするというのだろう。聞いたところで、かける言葉など持ち合わせいないだろうに。
「……」
途中で言葉を見失い黙り込んだアデルに、なんとも生ぬるい視線を向けると、クレマンは花々へ目をやり、細めた。
「これは、アデルさんの名前しか知らないから話せることなんですけれど」
例えば僕は、と、小さく吐き出された息は、切り詰めたように少し震えた。
「目の前で人が殺されそうになっても、きっと身代わりにはなれない」
ドキリ、と音がした。心臓からだった。脳が一瞬、鼓動で揺れた気がした。もちろん、気がしただけ。
実際にはアデルは何一つ変わらないまま、室内庭園のベンチに座っている。
ぴたりと心の内を言い当てられた。汚い本音がこの世界に晒しだされ、やんわりと責められたような、気まずい罪悪感が胸を包む。
「それどころか、多分僕は」
クレマンの背が丸まる。顔に掌を押しつけて、彼は絞り出した。
「僕は、本当に本当に大切な人でも、守れない」
瞬間、アデルは顔を凍りつかせた。
違った。
アデルとは、違った。
たとえその場にいるのが自分にとってどれだけ大切な人でも、アデルは自己保身しか考えられない。守ろう、なんて思えない。
項垂れた彼を、ぎこちなく見つめる。
呆然と見開いたアデルの瞳が、乾き始める。
距離を取らないと。
自分なんか、燃やされて消えてしまいそうだ。
ちりちりと胸が腫れあがるように痛む。
「……なんてことを、考えていたわけです」
ぱっと顔をあげたクレマンは、そう取り繕うように笑った。
言えない。
自分のこの、鉛でも飲み込んだような罪悪を、話せない。共感を求めた自分が愚かだった。
アデルは血の気が引いていた。
一瞬でも共感してしまったことに懺悔の念が沸く。
なによりも、彼の柔い部分を話させてしまったことに、強い罪悪感を覚えた。
「……その、えっと」
案の定言葉が上手く出てこない。
またクレマンに困り笑いをさせてしまった。
どうにかしなくては、と考える。目を彷徨わせる。口を中途半端に開いたり閉じたり、壊れかけのドアのような動きを繰り返す。
「……わ、わたくしは、人を悪く言う言葉が大嫌いです」
やっと出てきた言葉が、これ。
後悔が降ってわいた。が、クレマンは聞いてくれてしまう。話し続けるほかない。着地点も分からぬ、嫌な自分の本音の話を。
「それは、綺麗ごとを言っているわけではなくて。どなたにも嫌いな食べ物があるように、そこにその人自身の善悪が関係ないように。わたくしの嫌いなものは、人を悪く言う言葉、という話なのです」
顔が見れない。
アデルは髪を握りしめた。背が丸まる。目を細める。
「わたくしは、逃げたのです。都合の悪い、嫌いなもの全てから」
日ごとに焦りが増していく。
将来のことを考えるたび、漠然とした不安に襲われる。
緩やかに首が絞まっていく。
悪口を聞き流せる胆力も、悪口に立ち向かう勇気もない。
明日もあの教室に行かなくてはいけない。
冬休みまでには、新しい友達を作らなくてはいけない。
卒業までに、婚約者を見つけなければいけない。
これから先も一生、貴族社会を生きなくてはいけない。
そういう義務と責任から、逃げた。
自分から、逃げたのだ。
「貴方はすごい方です。すごい方なんです」
「……」
黙るクレマンを恐る恐る見上げたら、なんとも複雑そうな顔をしていた。
「逃げただけなら、どれほどよかったか」
唇を引きちぎりそうになるほどに噛みしめる彼は、なにをしたのだろう。
少しだけその強い言葉が自分に向けられたようでびくりと肩をすくませてしまった。
どこまでいっても自分は臆病らしい。
「…………すみません。本当、嫌な話をしましたね」
「そんな。気にしたのは、わたくしですから。こちらこそ申し訳ございませんでした」
お互いおどおどと言葉を詰まらせる。少しの間沈黙が広がった。
こんなときでも、ここは春の柔らかな風に包まれている。
「……えっと。ここは、綺麗ですよね」
今までに彼から聞いたことがないほど雑な導入に、動揺の良く見える引きつり笑い。
口許を抑え込む。両手で蓋をする。
「……ふふふっ」
が、駄目だった。笑ってしまった。
クレマンはきまりが悪そうに頬を引っ掻く。それを見て、小さく言い訳をした。
「あの、すみません。馬鹿にしているわけではなくて」
さっと心に影が差す。
前にも似たような弁明をしたな、などと考える。
「いえ、その。確かに笑われることを申し上げたなあと思いまして」
つられ笑いを浮かべたクレマンに言われ、アデルはますます口許を緩めた。
能天気に春の花が咲き誇っていた。
補足。ナタリーは母音が「あ」のときだけ伸びちゃうみたいです。元々口癖があらー、だったのが、いつの間にか言葉全体の癖になっちゃったからです。でもお嬢様だけは頑張ってきりっと言えるよう意識しているんだと思います。




