06:ランチボックス
翌日、アデルはそわそわと室内庭園を開けた。
そういえばここ数日で、友達との会話が随分減った。少し寂しい気もするが、気が楽だと思う自分もいる。
扉から控えめに顔を出す。
それに気がついたクレマンが、ぼんやり遠くへ投げていた目をこちらに向け、ぱっと微笑んでくれた。
「こんにちは、アデルさんっ」
「……こ、こんにちはっ!」
ぱ、と一歩飛び出す。ベンチの近くまで歩き、お隣宜しいですか、と自信なさげに聞くと、彼はもちろんと快諾してくれた。
鞄を握り込んでいた手を緩め、アデルはいつも通りベンチに座った。
……今日の目標は、クレマンのことを名前で呼ぶことである。
流石にここまで関わっておいて、名前を一度も呼んでいないのはよくない。昨日、今までの会話を振り返って思ったのだ。クレマンはよくアデルのことを呼んでくれるのに、アデルは全く呼ばない。
まるで名前を覚えていないみたい。本当によくないわ。
緊張気味ににこにこと笑いながらランチボックスを開き、ふと隣を見れば、彼は微笑みを浮かべてサンドイッチにかじりついていた。野菜のしゃっきりした音が鼓膜を刺す。
唇に力を入れ、アデルはむぐむぐと悩んだ。
が、アデルは好奇心に負け、大きめの声で囁きかけた。
「……い、いつも思うの、ですけれど」
「へ? はい」
不思議そうに目を丸くしつつも、彼はにこりと話を聞く姿勢に入ってくれる。目だけがこちらに向けられて、顔は相変わらず花の方に向いていた。
「昼食、美味しそうですね」
言ってしまった、食い意地が張っていると思われないかな、とやや恥ずかしく思いながら、不自然に見えないよう微笑んでみる。成功しているかはわからない。
きゅっと、胸元まで伸びた癖っ毛を握る。
クレマンはぽかんと口を開けたあと、はははっと笑い声をあげた。地面の上を滑るような、心地の良い笑い声。
「そうですか? 自分で作っているので、嬉しいですね」
「まあっ」
アデルは目を見開き、口許を押さえてクレマンをそっと、じっと、見上げた。
「すごいですね」
我ながら語彙のなさが哀れ。
アデルは忙しく情緒を動かしていると、クレマンは遠くへ視線を投げ、苦笑した。
「僕の主人が、毒を盛られると面倒だからいっそお前が作ってくれとおっしゃったんですよ。あれは……十歳くらいのころかな」
十歳。
彼の横顔を見る。多分愛嬌のある少年だったのだ、とアデルは思う。だって今もそうだから。
いえ、ご主人が十歳のときの話かもしれないけれど。
「ええ、はい。そうです、十歳でした」
正確に思い出せたらしく、クレマンはうんうんと納得して頷いた。
「今頃お一人無表情で食べ進めているんじゃないでしょうか」
無表情なの?
「お一人なのに、どうせ虚空に美味しい美味しいぶつぶつ呟かれているに違いありません」
その想像をしてしまったらしく、ふっとクレマンは吹き出した。それにつられて、彼の主人も知らぬのに、アデルも吹き出してしまった。両手で口許を抑える。失礼だったかも、と彼を見ると、彼はおかしそうに笑った。
「すみません、アデルさんにする話じゃありませんでしたね。それにしても貴方は、知らない人の話に楽しそうにお笑いになる」
「語っているク……あ……貴方が、楽しそうでしたもの」
駄目だった。言おうとすると、どうにも照れくさくって、喉が詰まって仕方がない。
クレマンは一瞬戸惑いの表情を見せたものの、やや照れくさそうに頬を引っ掻いた。
「そんなに楽しそうにしてましたか?」
「ええ、とても!」
アデルは自信をもって頷き、意味もなく照れ笑いをした。ちょっと張り切って声を出してしまったことが恥ずかしくなった。
そんなアデルにクレマンも困惑の表情を向け、いたたまれない雰囲気になりかけたが、彼は話題を変えた。
「ところで、アデルさんの方は?」
「えっと、侍女のナタリーがいつも作ってくれているんです。美味しそう、でしょう?」
本名はナタリー・ド・ヴィエ。二歳年上の、アデルの唯一の侍女であり無二の親友である。
おっとりした顔立ちの侍女を思い浮かべ、アデルはやや自慢げにランチボックスをクレマンに見せた。といっても、少し彼の方にボックスを動かすだけだが。
「ええ」
クレマンは柔らかに目を細めた。
「ナタリーさんはきっと、アデルさんのことが大切なんでしょうね。どれもこれも美味しく食べるための工夫が見て取れますし、栄養の均整がとれていて健康にいいんですよ。それに、一週間はメニューが被らない」
アデルは目を瞬いた。一週間。……もしやこちらが毎日のぞき見していたように、向こうにも見られていたのだろうか。
心を読んだように、彼はすみませんと謝罪した。気まずそうに目を逸らしながら。
「職業柄、他人の動きをつい見てしまって。お察しの通り侍従をしているものですから、人の動きを見て先回りするのが癖になってしまったんです」
本当にすみません、と謝られ、いえいえとアデルは、手をわたわたと動かした。慌てすぎてぎくしゃくした変な動きになった。
「謝られることなんてありませんよ。……その、わたくしも美味しそうで見ていましたし」
謝られると罪悪感に襲われるので、切実にやめてほしい。
自己中心的ながらアデルはそう思った。
「でも僕の個人的な興味で……そういえば最初、『いつも』と言ってましたね」
申し訳なさそうに眉を寄せていたクレマンは、ふと思い出したように言った。
「……は、はいっ。そうです……」
アデルは髪を握りながら頷いた。
食い意地が張っている、と思われたかな。それ以前に不快だった?
不安にさいなまれていたアデルに、クレマンはあははっと軽やかに笑った。
「それじゃ、せっかく美味しいんですから、食べないともったいないですね」
アデルは目を見開き、それからふふふっと口許を押さえた。その通りだと思った。
手を合わせ、クレマンからも褒められた自慢の侍女の料理をいただく。
今日のご飯はタルティーヌ。シンプルながら、バランスよく配置された具と、スライスされたパンの歯ごたえがほどよくて美味しい。
……じゃない。いえ、美味しいのだけど。
今日のアデルの目的は、名前を呼ぶこと。もぐもぐと美味しそうにサンドイッチを食べる横顔に、アデルはタルティーヌを一口飲み込み、話し出した。
「……その。わたくし」
「え? ええ」
マイペースに昼食を楽しむクレマンに向かって、アデルは口を回す。とにかく話さねば。話さなければ名前を呼ぶこともできないのだ。
「わたくし、編み物が好きなんです。きっと、ク……ク……クレマン様、の、ご主人よりは下手かもしれませんけれど」
言えた!
多少声は震えたし、不自然ではあったが、言えた。
手ごたえを感じクレマンを見ると、なんだか生温かい目を向けられていた。
それから、にこーっと屈託のない表情で、
「そうですか、編み物がご趣味なんですか! 例えばなにを編むんです? マフラーですか?」
と。
それにアデルは、彼のご主人はマフラーとあみぐるみばかり編んでいるのかな、などと余計なことを考えつつ告げた。
「なんでも編みますけれど、えーっと」
恥じらいゆえに目を伏せ告げた。
「こ、こちらのバスケットとか……」
アデルはランチボックスを取り出したバスケットを持ち上げ、クレマンに示した。彼は目を丸くした。
「えっ。ご自作なさったんですか。ランチボックスを入れて形が崩れないの、頑丈で素晴らしいですね」
彼の言葉に緊張をほぐし、アデルはほっと笑い、少し得意になって控えめに続けた。
「内側に布製の袋をつけているんです。あとは、丈夫な素材のリネンを使っていて」
「なるほど、そうすればいいんですねっ」
妙にキラキラと目を輝かせるので、なんとなく今までの奇妙な知識の幅が腑に落ちた。
色んな人の話に興味を持って聞いているから、その分知識が蓄積されていくのだろう。
彼が同じクラスであったらよかったのに、と残念に思う。が、そうなったら多分、自分の嫌な部分も知られるかもしれないから、今のままが一番かもしれない、とも考える。
「……ク、クレマン様はすごい人ですね」
言おうかいわまいか悩み、アデルは口を開いた。そろりとクレマンの顔色を窺うと、彼はころんと目を見開きこちらを見つめていた。
あまりに真っすぐな眼差しであったので、アデルは目を逸らす。もごもごと口ごもり、それでも彼にだけは誠実にいようと、言葉を吐きだす。
「わ、わたくしは。人と関わること、ずっと、ずっと苦手です。正直それほど興味もありません」
誰かの悪口などどうでもいいし、他人がなにをどう思うか、考えるかを知りたいとも思わない。どうせ知ったところで、相手を苦手に思うか、自分を嫌悪するかの二択なのだから。
クレマンは黙って耳を傾けてくれている。
「で、ですから。ですから、すごいなあ、と思うのです」
どもり。言葉を変に切り。早口になり、あるいは、遅くなり。
しかも、囁きに似たか細い声だ。
拙い話と形容されても仕方ない。自分でもそう思う。小さい頃から話し方を学ぼうとしなかったからね、と今更ながら生き方を後悔する。
拙い拙いアデルの話を、クレマンはただ、黙って隣で聞いてくれていた。
せめてもの誠意を、と思い顔を上げれば、そこにはにこりと微笑みを浮かべた彼がいた。
「……それだけ、です」
まるで内容のない話、とアデルは自嘲気味に苦笑した。クレマンは変わらぬ微笑のまま、穏やかに告げた。
「アデルさんは、編み物が好きなんですね」
……なかったことに、された?
一瞬ショックを受けて固まっていると、彼は微笑を崩し、ちょっと慌てて続けた。
「僕は、人と関わることが好きですよ。けれど得意だとは思えません。どれだけ言葉を尽くしても、相手に理解しようとする気がなければ、僕のことは伝わりなんかしないんです。反対に」
どことなく必死さの滲む顔で、クレマンは笑った。
「僕が知ろうとしても、相手に理解されようとする気がなければ、相手のことが理解できはしないんですよ」
――アデルさんは、編み物が好きなんですね。
それは、初めて自分から話したこと。
初めて、彼に知ってもらいたくて紡いだ言葉。
「だから、えっと。アデルさんも、僕みたいにはなれるんだと思います。不慣れなだけで、貴方は充分、人と話すこと、関わることを楽しめているように見えるので」
にへら、と苦笑したクレマンに、アデルはふふふと口許を押さえ笑った。
この人の表情作りは好ましい。等身大でいて、柔らかい雰囲気を作ろうと意識しているのが分かる。
魅力的。
アデルは目を閉じて、開けた。
「クレマン様。わたくしは、リス・ブランの花の香りが好きです。夏季休暇の課題の薬香水も、リス・ブランを使用しましたの」
それから、と思い出し、告げる。
「ど、どうして魔力生物学を履修しているんですか?」
きょとんとしていたクレマンは目を逸らし、思い出すように顎に手を当て、やがて小さく吹き出した。
「はははっ! そういえばそんな話しましたね」
まだ笑いの残る声。アデルはちょっとじっとりした目を向けたいような、照れて目を逸らしたいような、微妙な気分になった。
「単に好きだからです。不人気で好きな教科なら、確実に履修できると思って」
「ああ……」
そういえば、選択科目が決定した時期、五月あたりに抽選で外れて魔力生物学に当たった生徒が項垂れていた。
定員割れを起こすほど不人気な科目だ、自ら申請すれば当たり前に通るはず。
「……面白いのですか?」
恐る恐る問うと、クレマンは柔らかな目をぼーっと遠くに投げた。
「面白いですよ。どんな姿にも理由があるんです。知ることができれば、おぞましくはあるものの恐ろしさはもう感じません。魔力生物のイメージから無機質さが消えます。一種の生き物なのだ、と納得できるんです」
彼はパンを口にした。ゆっくりと噛み、飲み込む。
「アデルさんの選択科目は、なんでしたっけ?」
ふわりと微笑み、アデルは答えた。
「魔法演奏と、魔法地学と……ええと、なんだったかしら」
「魔法演奏! なにをされるんです?」
「大した腕ではないのですけれど、ピアノを少々……」
空中の鍵盤を弾く動作をしてみせる。
「ク、クレマン様は、なにか演奏されますか?」
ぎこちなく首をかしげ聞く。
彼は、僕ですか? ときょとんとして、苦笑いで続ける。
穏やかな昼下がりだった。
アデルはにこにこと微笑みながら、この時間ができるだけ長く続きますようにと祈るのだった。




