10:太陽
「わたしは惨めなんかじゃありませんよ! むしろ幸せです! 素敵な人たちを愛せたのですから!」
途端、アデルは頭を殴りつけられたような衝撃を感じた。呆然とマノンの言葉を傾聴する。
「自分を最低だって思ってしまったら、なんにも動けなくなりますよ? だってそれ以上落ちることないですもん。まあいっかってなっちゃいます」
マノンは砂の掃除を進めながら、同時に本を開いた。
入学当初はなんの魔法も制御できなかったのに、意識を分散させながら、手足を使うように魔法を使えるようになっている。
それはそうだわ、とアデルは思った。
マノンは学園書庫で理論をゼロから勉強して、放課後、先生に何度も辛口での教えを乞うていた。上達しないわけがない。
彼女の真っすぐで純真な笑みを、真正面から見てみたい。
アデルは、そう思った。
「それに、これはわたしの選んだことでもありますから! 無様でも何でも、受け入れて前に進みませんと!」
『ラウル様を『悍ましい』と言い捨てる貴方に、彼を愛せるとは思いません。きっと政略結婚でも幸せにしてくれるだろうと思ったわたしが大馬鹿でした! 貴方にラウル様を任せられません!』
あの日、マノンはそう叫んでいた。
そうだ。アデルは過去、逃げた。それが嫌だと思って、行動を起こした。その結果笑われて、めげそうになっている。
無様だ。貴族としては、恥ずかしいほど。
けれども、受け入れて前に進まなければなにも変わらない。
こう選択してしまった以上、もう二人と縁を取り戻すことは、してはいけない。二人は優しいから、もしかしたらもう一度縁を結び直してくれるかもしれないが、アデルの存在は、貴族社会において二人の弱点にしかなりえない。
貴族としての自覚が足りない。そう、二人が批判されるかもしれない。それは嫌。
なら、わたくしはどうしたい?
自問する。答えはすぐに出た。
……ああ、謝りたい。
マノンにもそうだが、これまで散々助けられてきた、オルタンスとエロイーズに。
二人の厚意を、何度断ってきただろう。
人見知りしてどうしようもないアデルに、エロイーズはオルタンスを紹介してくれた。お茶会で一人でいたとき、心細くて泣きそうになっていたとき、話しかけてくれた。
オルタンスは、本来ちんたらしているアデルのような人間が苦手だろうに、言葉を待ってくれた。仲良くしてくれた。
多少なり利害の一致はあっただろう。あぶれ者になりたくないから、話しかけられるあぶれ者に声をかけた。知り合いはいればいるほどいいから、付き合った。
嫌な思いもした。けれど総合すれば、それなりに楽しかった。
だから、謝るの。
そう思うのに、身体が動いてくれない。凍りついたように、その場から動けない。動く勇気が出ない。
髪飾りに、そっと手で触れる。心臓が高鳴った。
話しかける。謝る。それだけ。
相手はあの二人。大丈夫のはずだ。
落ち着いて、と繰り返し自分に言い聞かせる。向こうを窺う。
よし立つぞ、と意思を固めた瞬間、授業開始のチャイムが鳴った。
そのまま謝る勇気が出ないまま、昼休みになった。
逃げるように教室を去り、息を切らしながら室内庭園へ急ぐ。逃げるように、というか実際逃げている。
肩が上下する。早歩きでも疲れる。
どこか縋るように扉を開けると、心地よい春風が頬を撫で、髪を揺らした。
……クレマン様、いない。
力が抜ける。その場でしばらく深呼吸を繰り返し、心拍数を落ち着けた。
コトコトと控えめに歩き、ベンチにそわそわと座る。
今日も、室内庭園に咲き誇る花々からは香りがしない。にもかかわらず花の香りがほのかに薫るのは、アデルが香水をつけているからだ。
似合わないくせに背伸びした、華やかな薔薇の香り。
膝の上にバスケットを載せ、ぼんやりと見つめた。
今更自分に何を思うわけでもない。失望すら、とうに消え失せた。
ただ、ため息だけが漏れた。
「あっ」
ころころと明るい声に、アデルはぱっと顔を上げた。
「アデルさん、こんにちはっ」
にこりと微笑んだクレマンが、入り口に立っていた。
が、アデルの顔を見るなり、心配そうに眉をひそめこちらに駆け寄ってくる。その姿が酷く歪む。ぐにゃぐにゃと、深い海底から空を覗くように。
彼はやがて目の前に立つと、ゆっくりとしゃがみこんで目線を合わせ、
「大丈夫ですか?」
アデルは顔を背けた。
目に張られた膜が、優しく声をかけられて、決壊した。
情けなさでかっと顔が熱を帯びる。
「……」
クレマンは少しの間、アデルの言葉を待っていてくれた。
だけどアデルは、声を出すとどもってしまいそうで、黙り込む。ただ目を両手で抑え込んで、顔を守るように俯き、背を丸める。
でも、いつものように、横に髪が流れてこない。髪飾りをつけているから。
ふと人が腰を下ろす音がして、耳を澄ませた。
「……一緒にいる人が泣いてしまったことなどないので、僕は、どうしたらいいかわかりません」
ほとんど平常通りだが、ほんの少し声が震えていた。
「僕自身も、人前で泣いたのは六歳の頃が最後です。だから、泣いている人がどうされると嬉しいのか、わかりません。つまり僕は貴方になにもできません。……なので、思わず笑ってしまうようなしょうもない話をしましょう」
予想外の方向に話が転がり、一瞬思考が止まった。ぼろぼろと涙を流しながら、アデルはクレマンの話に耳を傾け始めた。白い手袋がびしょ濡れである。
ハンカチを探すのにもたついていると、隣からあのピスタチオグリーンのハンカチが差し出された。
「……っあ、ありがとうっ、ございますっ」
しゃくりあげた。本当に恥ずかしい。
「このくらいしかできなくて、ごめん。すみません」
そうぽつりと呟いたクレマンのハンカチを受け取るついでに、恐る恐る彼の顔色を窺う。少しだけ声の聞こえ方に違和感があった。
彼はほんの少し顔を背けるようにしていた。こちらを見ないように、なんて配慮だろうか。
嫌われていないか、表情を見れない不安は募るが、その気遣いが有難かった。
アデルは手を伸ばすと、ハンカチを受け取った。手触りが柔らかで、心地いい。湿った手袋で、控えめな手つきで両手で握る。握るというより撫でると言った方が適切かもしれない。
「くだらない僕の初恋の話です」
目を閉じて、クレマンは静かに語り始めた。
「その人は、強い人でした」
彼にしては珍しく言い淀み、言葉をじっくりと選んだ。
「実の両親と、無理矢理引き離される形で領主に引き取られたのですが、その領主が不慮の事故で亡くなりました。要するに宙ぶらりんの状態だったのですが、義母と義姉からは厄介者扱いで、まともに礼儀作法も習わないまま学園に放り込まれました」
血統を重んじる貴族が養子縁組をするというのは、ほとんどない。精々が、優秀な下位の貴族の者が遠縁の上位の貴族の家に入る、という程度だろうか。
それ以外でなら、国が認めるほど、子孫に継承する価値のあるなにかがなければならない。
例えば、マノン・ブーロの光系統魔法。光系統と闇系統はとんでもなく希少であり、ラフィネ教によれば光系統は神の御力であるので、古来ラフィネに準じるルーセヴェルとしては認めざるを得ない。
つまり、無理矢理引き取られることは分かるが、それほど素晴らしい能力を持つ者が、その後厄介者扱いというのは違和感がある。
アデルが、泣くのをやめ首を傾げていると、クレマンが答えを提示してくれた。
「領主が非常に狡猾で、なんとも微妙な記述で書類の提出をしていたので、最初は虚言人扱いだったようです。まるで見世物のように笑われ、嫌がらせを受けましたが、それでも前を向いて学び続けました」
まるで見世物。
やはりこれはマノン・ブーロの話だろうか。
ほいほいと貴族が平民と養子縁組するとは思えない。
「愚かしく見えるほどに真っすぐで。それに僕は救われて、それで僕は、その人に何でもしてあげたいという気持ちになったんです」
ぎこちなく言葉が繋がれていく。
「お慕いする、という言葉に恋情が内包されていることに、納得したんです」
なんとなくわかる気がする。
かつての想い人を思い浮かべ、アデルは心臓をはねさせた。それは恋愛なんて軽い理由ではない。深い、罪悪感から。
そういえば、と手元のハンカチを見つめる。
あの御方の瞳は、ちょうどこのように漆黒の、深い深い色だった。
「僕は別に報われたいだなんて思いませんでした。その人には僕ではない想い人がいて、その想い人が僕の主人でしたから」
静かに浮かんでいた微笑みが、苦々しく変わった。
「僕は本当に心から二人が結ばれてほしいと思っていました。思っていたはずなんです。だって」
呼吸のリズムが不自然に崩れる。クレマンが、こちらを向いた。
「だって、たかが恋でしょう?」
細められた目と目が合って、じわじわと涙がせり上がってきた。
「そんなものより、大切な人の幸せの方が大事に決まっている」
クレマンは、泣くのを堪えるように眉根に力を入れている。
ああ、やっぱりこの人は強いなぁ……。
またぼろぼろ泣き始めた自分をどこか冷めた感覚で認識しながら、アデルはハンカチを目元にそっと押しつけた。
「ですが、二人の恋愛の成就を願うには、身分の差が大きすぎました。……何年も監禁されて、行動するたびに逐一そしられ、なじられ、それでもなお、尊き血液を身に宿した者としての義務があるだなんて馬鹿げているのに」
以前言っていたな。だから主人は刺繍や編み物が得意なのよね。
今のマノンへの批判を見れば、言葉で人を傷つけるのがいかに容易いか、箱入り娘のアデルでも簡単に理解できる。
その気になれば、人なんていくらでも殺せる。
彼の主人は、監禁されていた間、どれだけの言葉を投げつけられてきたのだろう。
「僕の主人が、彼女のことを好いているのは明白でした。ですがあの人は、愛に疎く、自分に鈍感です。二人が身分差に苦しむくらいなら、いっそ主人が自覚なさる前に、彼女に僕のことを好きになってもらえればと思いました」
頭を引っ掻くように抱え、彼は言葉を吐き捨てた。
「……どうしようもない馬鹿だ」
ねえ、アデルさん、と呼びかけられる。独り言が会話に戻る。
「僕は好きになってもらえるよう努力しました。でも分かっていたはずなんです。彼女が真っすぐに人を愛して揺るがないこと。主人が人に好かれてしかるべき魅力のある人であること」
懺悔するような暗い声音で、
「だのに、僕ではだめですか、と言いました。本当はもうすっぱり諦めたかったのかもしれません。そのための言い訳に、二人の恋の身分差を、二人へかける情を用意しただけなのかもしれません。だから誰にも好いてもらえない。こんな僕を最低以外の何者だというんでしょう」
クレマンはベンチの上でうずくまった。
「実際に少しだけすっきりしたところも含めて、僕は僕のことが大嫌いになりました。主人に告白を隠して一丁前に味方の顔をしている。反吐が出そうになりました」
小さく、呟いた。
「だけど、あの人の味方は僕しかいないんだ。つくづく環境に恵まれない御方です。どこまでも恵まれない御方です」
しばらく、沈黙がその場を包み込んでいた。数分か、はたまた十数分か。
唇を湿らすと、クレマンはその沈黙を破った。
「だけど、バレたんでしょうね。しばらく休んでくれと言われました。他人のことになると鋭いお方ですから、誤魔化すこともできません。言葉に詰まっていると、せめて昼休みの間だけでもいいから、と」
……だから、アデルがここに来てから数日後に現れたのだ。ここを普段使いしているわけでは、なかったから。
「ずっとこのままでいるわけにもいきません。ただぐるぐる自己嫌悪に苛まれ続けるのも疲れました。けれども、僕にできることなんてなんにもない」
アデルさん、とまた呼びかけられる。
名を呼ぶ彼の声は、どこまでも柔らかに響く。
「例えば僕は、目の前の、本当に大切な人が殺されそうになっても。戦おうとしても、いざ前に飛び出そうとした途端、足をすくませるんでしょう」
以前、そんな話をした。
やっぱり強いな、とアデルは思った。
「そんな人間です。そんな、醜い人間です」
痛々しく、苦しげに。心底自己嫌悪するような引きつり笑い。それがアデルを見た。
「……ね?」
なにが笑える話なの。嘘つき。
そう冗談めかして内心思う。甘酸っぱい話を期待していたのかもしれない。
でも、彼が話してくれた意図は分かる。
弱みを晒してくれたのだ。こちらが弱音を吐きやすいようにしてくれた。
「……わ、わたくしも、醜い人間です」
覚束ない口ぶりで、いかにも臆病そうにアデルは口を開いた。思い出すと、また涙が溢れてくる。
「授業中、二人組を作るとき」
地面を睨む。ひたすらに恥ずかしさがこみあげてきて、顔が熱い。
「あぶれて、おろおろした挙句、泣いてしまいましたっ」
周りの、馬鹿にするような困惑するような、なんとも呆れた、愚かなものを見る目。
十六歳にもなって、人前で泣くはしたない女。そんな目。
情けない。つい咄嗟に、縋るようにエロイーズとオルタンスを見てしまったことも含め。
「わ、わた、わたくしは、なんってやつでしょうか! 謝ることすら出来ないっ。お、怯えて、大好きな方の悪口に同調してしまうような人間ですっ」
嗚咽が混じる。顔を覆う。ただでさえ小さい声が、籠る。
なんて聞き苦しい話。
「その分際で、わたくしは……っ」
内容も話し方も、拙い。本当に嫌だ。
「悪口を言われて、酷く傷ついてしまいました、自分だって他の人にやったことなのにっ」
アデルはハンカチを顔に押しつけて、くしゃりと握った。
クレマンと向かいあうような関係でなくてよかった。ベンチを遠く離れて座るような関係でよかった。
こんなところ、誰にも見られたくない。
「……それは、辛いでしょうね」
すとんと、胸に素直に落ちていくような、穏やかで静かな声音。
横目で彼を窺えば、彼はぼんやりと春の風に揺れる花々を眺めていた。
「……どうしてっ、そんなにも、お優しいお言葉をくださるのですか」
優しくされると、一層傷口を主張する雫が溢れてくる。大した怪我でもないのに、いつも大袈裟な、傍迷惑な雫。狡いと思う。思うのに、止まらない。どうしても被害者になりたいらしい。
彼の優しさに、つけこんではいないだろうか。
不安でゆらゆら揺らした瞳をクレマンに向ける。彼はこちらを見ずに、
「僕は、僕の知らない人がアデルさんに悪口を言われようとどうでもいいです」
ころりと悪戯っぽい笑みを浮かべようとして失敗した、中途半端な微笑。
「それに、悪口を言ったからって、嘲笑されていい理由にはならない。そう思いませんか」
香水の匂いが、薄くなった。
涙をとめどなく流しながら嗚咽を漏らすアデルに、クレマンは静かに話し続けた。
「僕が主人の嫌いな料理を出してしまったとき。人は間違うものだ、と僕の敬愛する主人は笑って完食してくださいました。むしろ、こんなことを頼んですまないと」
それから、と口にするクレマンは、そのときだけは純粋に敬愛の笑みを見せていたように思う。
「自分は貴方が思うほど美しくはないのですと、使用人たちからの主人への悪口に反論できなかったことを、僕は告白しました。僕の愛した人は、言いました。それは醜いではなく、弱いというのです、と。そして、弱いというのは罪ではないのです。誰もが皆弱い部分を持っています。だから人の弱いところは許し、自分の弱いところは自覚することが大事なんです、と」
彼はすぐにいつもの気弱な苦笑に戻った、というには少し、暗かったか。
「……全部、全部借り物の言葉です。僕には、これくらいしかできなくて」
きっとクレマンが好きだというその人たちを、アデルは好きになるだろう。
その、借りものだという、ほかならぬ彼の言葉に発破をかけられた気がした。
人は間違う。弱いところがある。
そんなチープな言葉でも、自分の為を思い彼がくれた言葉なら、一つしかない宝物になる。
「……弱い自分が、嫌いです」
「僕も、そうです」
やっぱり彼はいい人だ。いつだってアデルの気持ちを察して、弱さを曝け出してまで救ってくれようとする。
そのおかげでアデルは今、ふわりと微笑むことができた。
「お揃いですねっ」
虚を突かれたようなクレマンに、アデルはぎゅっと笑みを深める。
「クレマン様とお揃いの弱さなら、許そうと思います。そうしたいです」
するりと、彼の名前が、何か月も呼んでいたように口に馴染んだ。
アデルの笑みに彼がなにを見たかは、わからない。ただ一つ確かなのは、ようやくいつも通りの笑みを、クレマンが見せてくれたというだけ。
「いただき、ます」
アデルは決意を固め、鈍らないうちにと手を合わせ、ランチボックスを勢いよく空にしていく。
「……美味しいですね」
なんとなく、これだけは言いたくなって、告げた。
ここを、普通の――雑談を言う、なんとなく心地いい場所に戻したかったのかもしれない。
「そうですね。今日は中々上手にできました」
「……ふふっ。食べているものは違いますのに。感想を共有できるのですね、不思議です」
「あははっ。確かに。傍目から見れば随分間抜けな会話に聞こえたかもしれません」
そうして笑いあう。
心地いい。だから、後ろめたさなくここに戻るために、頑張らないと。
アデルは食事を平らげると、さっさと立ち上がった。
「では、行ってまいりますね」
「ええ、また」
「はい」
言葉少なにクレマンと別れ、心臓を高く鳴らし、アデルは一歩、踏み出した。




