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11:詩集

 アデルは室内庭園を出て、壁に沿うと、そっと手鏡と化粧道具を取り出した。


 鏡に写る自分の顔を見つめ、いつもナタリーがやってくれているのを思い出す。鏡台の前であれこれ話しながら施してくれるので、手直しくらいなら一人でもできる。


 目が腫れている。が、腫れを誤魔化す化粧など知らない。アデルは諦め、不格好にならない程度に化粧を乗せた。悪くはないはずだ。


 それに、多少不格好でもいい。重要なのは自分の顔などではない。


 足早に教室に戻る。カツンカツンと、速いリズムが響いた。


 いつもより気持ち大股で歩く。ふくらはぎまで伸びたスカートが、今までにないほど広がった。


 教室の廊下の窓からそろりと中を覗く。心臓が高くはねる。ぎゅっと、バスケットを両手で握りしめる。


 エロイーズとオルタンスは果たして、いた。

 隅で静かに談笑しているのが見える。

 何気なく廊下を見たらしいエロイーズと、目が合った。

 柔らかな垂れ目が見開かれて、気まずそうに逸らされる。


 それで、覚悟が決まった。


 アデルは目を閉じ、深呼吸を済ませると、手に汗を滲ませ、教室の中へ入った。


 さきほどまでとは違い、自信なさげな足音が小さく鳴る。


 一歩ずつ進むたびに、周りの視線が気になって目線が下がる。髪が、遠慮がちにふわりと囲いにくる。


「それで、そのときに――」

「……あ、あのっ」

 震える声で割って入った。オルタンスの言葉を遮る形になる。


 恐る恐る顔を上げた。

 エロイーズの、困惑の強い目。オルタンスの、困惑より侮蔑が勝つ目。

 二人に見られ、アデルはかあっと顔を赤くした。自分だけ立っているというのもあり、落ち着かない。


「申し訳ありませんでした。……な、何度も、ランチのお誘いを断ってしまって」

「……それはっ」

 だからオルタンスに詰められる前に、アデルは頭を下げた。


 大方、オルタンスはのこのこ戻ってきたものと思ったのだろう。彼女の放つ正論は強烈だ。自分の情けなさを再確認する羽目になる。


 そうなればきっとアデルはなにも言えなくなり、逃げる。


「ありがとう、ございました。楽しかったです……」

 聞こえたかどうか、というほど小さな声。囁くと言っていいその声が二人に届いたかはわからない。

 だけど、逃げなかった。


「……なんですの、あれっ!」

 きゃらきゃらとした嘲笑に、一瞬達成感に包まれかけた頭が、瞬時に冷めた。

 羞恥と痛みで赤面する。目頭が熱を持つ。


 近くのクラスメートの声だろうことはすぐに予想できた。

 アデルはそのまま動けなくなった。惨めなことは百も承知で、自分が自分をこれ以上嫌いにならないよう、謝罪し感謝することを選んだ。後悔はない。清々しさも感じる。


 なのに、自席に戻ることができなかった。


 そのとき、頭上から突き放すような言葉が降ってきた。

「ただ合わなかっただけですわ」

 オルタンスだ。


「わたくしも、アデルさんとのお話、楽しんでおりましたわ」

 エロイーズにも告げられ、アデルはぱちぱちと瞬きを繰り返し、顔をあげ、もう一度頭を下げた。


 くるりと背を向け、のそのそと席に着く。


 髪飾りに触れる。細心の注意を払い、外した。ふわりと髪が解放され、いつもの位置に戻ってくる。アデルの顔を守るように、流れてきた。


 背中を丸め、肩を揺らす。


 ぼろぼろと、発熱した目から涙が溢れだした。ポケットから取り出したハンカチはもう湿り気を帯びていて使い物にならない。


 両手で顔を覆う。目元を抑え込む。手袋に水分が浸透してくる、気持ちの悪い感覚。ついさっきもこうなった。


 ……どうして今頃になって、二人と一緒にいて楽しかった記憶が出てくるの。

 一緒に教室を移動するとき、他愛のない話をしたり。拙いアデルの話を二人して聞いてくれたり。魔法演奏のとき、お互い下手さに笑ったり。

 寂しい。


 けれども、最近はずっと一緒にいると苦しかった。疲れてしまった。もういいかと思ってしまったのだから、仕方がない。


 ひとしきり寂しさに沈み終えると、笑みが浮かぶ。


 ここ最近ずっと二人に対して感じていた後ろめたさは、消えていた。


 授業頑張ろう、とアデルは涙を拭い、次の授業の準備を整え始めるのだった。






 その日の授業を終え、そそくさと寮へ戻る。

 一部始終を侍女のナタリーに話しながら、だらだらと課題を進める。


「……もうやだ」

 筆記用具を机の端に寄せ、アデルは机を枕にした。むにむにと頬を机に押し付ける。痛い。

 唇をかみしめる。自分は何度泣けば気が済むのだろう。いい加減疲れたし頭痛がしてくる。


「なんでわたくしはこんなことでこんなに傷ついているの?」

「それはお嬢様が大切に大切に育てられてきたからでございます」

 ふわふわと頭を撫でられ、アデルは頬を膨らませた。

「多少は厳しくしないと駄目なのね。自分の子供を育てるときの参考にしましょう。そんな日が来るか分からないけれど」


 それこそ甘やかされて育ったのだ。婚約者を見つけられなかったら、両親なら、まあずっとお屋敷にいなさい、とか言い出しかねない。跡継ぎは優秀な領民から養子をとればいいのだし。父が、お気に入りの給仕見習いに調子に乗って執務を教えて困らせていたのは記憶に新しい。


「……わたくし、一生未熟者のまま人生を終えるのかな」

 結婚することも子供を育てることもせず。貴族だからとぬくぬくいい思いだけして。

「あらあ。落ち込んでいらっしゃいますね。それではこのまま眠ってしまいましょう。湯浴みの準備も晩餐の準備も終わっておりますわあ」


 おっとりと微笑まれ、アデルは身体を起こした。積まれた参考書に目をやり、姿勢を整え、机と向き合いなおした。

「課題を終わらせるわ」


 後ろでくすりと笑われて、アデルはほんのちょこっと頬を染めたが、一度勉強に集中してしまえば、年上の侍女に暖かく見守られていることも、将来への漠然とした不安も、なにもかも頭から追い出すことができた。


 そんなこんなで課題を終え、ナタリーの手料理に舌鼓を打ち、もの悲しい気分になりながら入浴を済ませ、ベッドに潜り込めば、すとんと意識は暗闇に落ちた。


 やけに長く感じた一日が、無事に終わったのだった。







『本当に人間なのかしら』

『怖い』

『これから目も合わせられない』

『嫌、恐ろしくてたまらない』

――『やはり闇系統(あんけいとう)魔法使いは悍ましい存在ですね』


 翌朝、なんだかほろ苦い思いで目を覚ます。とても嫌な思いをした気がするし、既視感があったのだが、具体的な内容は思い出せない。

 こうあやふやなときは、大抵過去の出来事を再現した悪夢を見たときだ。


「おはようございます、お嬢様」

「おはよう、ナタリー」

 りー、と口許を緩ませ、アデルは寝ぐせのついた髪を撫でつけ、ベッドから降りた。

 悪夢の余韻で悪い気分を、ナタリーの出してくれた紅茶で落ち着ける。


 ふうと、アデルが呑気に息を吐きだしている間、ナタリーは彼女を素早く鏡台の前に誘導し、櫛で髪を梳かし……と、身支度を進めてくれる。

 髪から寝ぐせを取ると、ナタリーはちょっと悪戯っぽく笑い、化粧道具を握った。

「今日は、いつもよりお嬢様好みの化粧をしてみましょう」


 数日前そんなことを言っていたなあとアデルは苦笑し、やや顔を強張らせると、頷いた。

 いつも化粧は地味目にと頼んでいた。ナタリーの腕を疑っているわけではないが、自分に自信がなかったから。


 ナタリーは手際よくアデルの顔に色を乗せていった。いつもと違うのは、アイラインをやや強めにローズが彩っているということ。それから、机に飾ってあったバレッタを手に取り、横髪を掬い取ると、ハーフアップにする。

 いつもより少し甘めな印象になった。


 あんまり変わらないながら、目許のローズが目に留まり、少しだけ頬が緩む。

 好きな色だ。かわいいから。

 のんびりと朝ご飯を食べ、そっと髪飾りに触れる。ナタリーの手によって寸分の狂いなく中心にあるバレッタ。


「……ふふふ」

 これを身に着けるために数年来の友人を失うことになったと思えば、変われてはいる気がする。

 そうだ、周りからなんと言われようと、アデルは昨日逃げなかった。ようやく、自分を嫌いになる選択をせずに済んだ。


 アデルは柔らかに顔を綻ばせ、上機嫌で支度をした。

 どうせなら学園書庫にでも行こう。

 そう思い立ち、鞄を持つ。


「あらあ? いつもより早いのですね?」

 ブーツを履き直し、軽くトントンと床を叩く。

「ええ。せっかくだから、もう出るの」

 不思議そうに首を傾げた侍女に笑いかけ、アデルは扉に手をかけた。


「では、行ってらっしゃいませ、お嬢様」

「うん、行ってきます」

 流麗に腰を折った彼女を横目に、アデルは一歩踏み出したのだった。


 白々しく塗りつぶされた廊下を歩く。窓辺に目を向ければ、快晴が広がっていた。木々は大きく身体を広げ日の光を浴び、黄色やオレンジ色に染まっている。

 炎を木に押し込めたら、きっとこんな風になるだろう、と思う。


 学園書庫の前までたどり着くと、アデルはやや手汗を滲ませ、そろりと扉を開いた。


 ここは真っ白だった廊下や教室とは一線を画す。艶やかに磨かれたダークブラウンの床には芸術的なほど効率的で美しい魔法陣が張り巡らされている。床は元々白色だったのに、魔結晶を埋め込んだためにこのような色になったらしい。落ち着きのある色が書庫に合っていて、アデルは好きだ。


 天井には変わらず宗教画が描かれているものの、壁は見えないほどびっしりと本が敷き詰められていた。インクの匂いが充満しているこの空間が、やっぱり存外好きだ。

 出入り口付近にはテーブルが設置されており、真面目な数人の生徒が勉強している。


 中でも一際、カトリーヌ・ド・ヴィアボルトの姿が目立って見える。本人の典麗な顔立ちも然ることながら、佇まいがとにかく際立って美しい。


 この書庫の粛然とした空気は、どうやら彼女が生み出しているらしい。

 淡々と勉強を進めていた彼女は、ふふふっと笑い声が響くと、そちらに目すら寄こさず告げた。


「エメ・ド・ヴェサ子爵令嬢、アラベル・ド・ジョル伯爵令嬢。少々おしゃべりが過ぎます」

 名指しをされた二人はさっと青ざめ、申し訳ございませんでしたと口をそろえる。

 端的ゆえに冷淡に響いた指摘に、アデルは内心凍りつくような戦慄を覚えた。


 素晴らしい御方ですけれども、怖い……。

 絶対に敵に回したくない。陰口もしんどいが、彼女の正論は強烈すぎる。

 ぎこちなく、アデルはその場から離れた。


 切り替えて。人の手では取りようがないほど高い位置にある本を魔法で取り寄せ、パラパラと捲る。アデルが一生かかっても読み切れないほどの本が、ここには収められている。広大なこの場所を、あてもなくふらつく。

 気まぐれに本を手に取り、少し読んでは別の本に惹かれる。


 そうだわ、詩集。お気に入りの詩集を、クレマンにも聞いてもらいたいな。そうしよう。あの人ならきっと、ふわりと笑って聞いてくれる。

 アデルはキラキラと目に星を灯し、見上げた。


 誰かに話を聞いてもらいたい、なんて。家族とナタリー以外には抱きもしなかった。くだらない話も自分の弱いところも、聞いてほしい。


 目当ての本を見つけると、アデルは引き寄せ、扉の前にある貸し出し手続き用の紙にペンで本のタイトルと自分の名前を書いた。アデル・ド・トゥルーズ。ソレイユとエトワール。

 本をぎゅっと抱えると、昼休みが楽しみになった。


 教室に着くと、もうほとんどの人が席についていた。アデルも自席に着き、読み直そうと本の表紙に手をかける。


 一人の時間も好きだった、と思い出す。小さい頃は自室にこもってずっと編み物か読書をしていた。一人に孤独感を覚えるほど、人恋しい性分でもなかったか。

 いや、あのときはずっと侍女が傍にいたから、やはり一人ではなかったな。


 自然を謳う言葉に埋もれていると、人を悪く言う言葉など聞こえない。

 幽遠な言葉は、聞いていると心地よかった。


 そうして朝の時間を乗り越え、アデルは授業中、勉学に励む。幸い、人と関わる必要のない授業ばかりだったので、公衆の面前で泣くなどという醜態を晒さずに済んだ。


 分からないことがあったからあとで復習しようと、教師にあれこれ話しかける生徒たちを横目に考えた。……あの中に入る勇気などない。


 待ちに待った昼休み。いそいそと荷物をまとめ、アデルはタン、タンと小さくはしゃぐ足音で室内庭園へと向かった。


 扉を開ければ、クレマンはなにやらそわそわしていたのを止め、微妙な笑顔でこんにちはと挨拶してくれた。アデルはぱっと、喜色に染まる。挨拶を返し、お隣失礼しますとベンチに腰を下ろす。


「……昨日は、お恥ずかしいところをお見せしました。もう大丈夫、だと思います」

 クレマンはほっとしたように笑った。


「ならよかったです!」

 ……心配、してくれていたのだろうか。だとしたら申し訳ないことをした。

「髪飾り、またつけているんですね」

 彼は自分の髪を示した。はい、とアデルは本を握る。

「昨日も、きちんと髪飾りをしていたんですよ」

 はにかみ笑いで主張する。クレマンはそれに瞠目し、柔らかに目を細めた。

「そういえば、そうだった気がします」

「……それで、えっと」


 話すのは苦手だ。しどろもどろになりながらも、温柔な顔に肩の力を抜き、ゆっくりと息を言葉の形に吐き出す。


「こちらの本、ご存知ですか?」

 クレマンに差し出したのは、朝借りた本。彼は、ああと表紙を撫でた。手と手がくっつくんじゃないかと思って、アデルは心臓をドキリと鳴らした。彼の手に嵌まった白い手袋は、かっちりした作りをしている。革製だからだ。


「知っていますよ。いい詩が詰まっていますよね」

 アデルの手に嵌っているのは、繊細なレースの手袋。花柄の可愛らしい刺繍が入っており、うっすらと肌の色が透けて見える。シルク製のものをつけるときもあるが、花柄がかわいいのでこちらをよく使っている。


「アデルさん?」

「えっ」

 狼狽し顔を上げる。当惑に眉をよせ、苦笑するクレマンに、アデルはますます動転し、バタバタと腕を揺らした。


「えっと、その。わ、わたくしこの方の詩はここが一番好きで……」

 一度詩について話し始めると、縷々と続いていく。


 ……ついついじっとクレマンの手と自分の手を見比べてしまった。

 殿方の御手だなんて見る機会なかったし……。

 胸の内で言い訳を述べる。


「……わたくし、マノン・ブーロさんに憧憬を覚えていました」

 ぽろりと零れた。

 聞いてほしいこと。真っ先に思いついた。


「いえ、今も覚えているのです。この詩を読むと、彼女のことを連想します」


 真冬、白く輝く『ソレイユ』を詠んだ詩。寒々しい冬の朝でも、ソレイユ――太陽はいつも輝いている。そういう詩。

 彼女に憧れていることを、まっすぐ語る。語ることができる。

 向き合ったクレマンが、受容以外の感情を写さない、静穏とした笑みを浮かべているから。


「彼女が掲げた、子どもの落書きみたいな理想論に惹かれてしまうのです。彼女なら成し遂げられるかもしれないと、思うのです」

 脳裏に焼き付いた光景。


「だって彼女」

 あれはいつ頃だろう。季節なんてどうでもよくなるほど、あの瞬間、アデルの胸は熱かった。その熱量のまま、なんだってできそうなほどの熱を与えられた。


「自分に嫌がらせしてきた生徒を、授業中ふざけた生徒の魔法から身を挺して庇ったのですよ」

 なんだ元平民か、とあからさまに彼が安心したことよりも、マノンが大丈夫ですかと制服をボロボロにしながら庇った生徒に聞いていたことが印象に残っている。


 大丈夫よ、と素早く距離を取られた、庇ったはずの生徒に、マノンはにぱあっと顔を輝かせ、屈託のない笑みを浮かべ、言ったのだ。

 それならよかったです!と。


「この世の全ての人が彼女のようになれば、彼女の描いた理想論も机上から離れ、地に足をつけるでしょう」

 アデルは顔を覆った。


「……こう語る口先は、以前友人たちと共に、彼女の悪口を紡いだのですが」

 ああ、なんて二枚舌。嫌になる。


「マノン・ブーロさんは、強いお人、と思います。しかしわたくしは、荒唐無稽な行動に、どこかで見下しているような気もします。そんな弱い自分が嫌いです。大嫌いです。彼女に挨拶をされて返すことのできない人間です」


 爵位の高い方から話しかけないといけない。そのルールを知らなかったらしい彼女に、笑顔で挨拶されたことがある。アデルは返すことができなかった。答えてしまえば、自分が彼女以下だと宣言するようなものだから。当時も批判の的であった、彼女以下だと。

 どうせ、同格でも人見知りが災いして声など出せなかっただろうが。


「けれどね、わたくしが自分のことを大嫌いな話など、どうでも良いのです。ただわたくしは、誰かにこうして、彼女のことが好きだと言ってみたかったのです」


 アデルはころりと目を細め笑った。

 清々しい、晴れやかな気分だ。


 今ここにいる自分を、クレマンの目に映る自分を、好きになれるとは言わないまでも、嫌いにはならずに済んでいる。


 ずっとずっと抱えていた、鬱屈とした罪悪感と敗北感と自己嫌悪。それを口にすることは、多分自分が最も嫌悪する行為と同じだ。

 人の悪口を言う。聞いていて不快な言葉を使う。

 それがアデルは嫌いだ。


 だから、今マノンについて話すことを楽しめていることがいい。自嘲することよりも心を軽くすることが、とてもいい。


「あー、僕も好きですよ、彼女のこと。大切な人のために、無茶苦茶でもなんでも、真っすぐ感情のままに動ける人です」


 そう軽やかに笑ってから、クレマンは言い淀むように視線を逃がした。

 アデルはそんな彼の様子に頬を染めた。歓喜ゆえだった。


「……ね。魅力的、ですよね」

 もごもごと小さく口の中でつぶやく。

「……」


 クレマンは口許に手を当て、しばらく黙っていた。


「あの、クレマン様……?」


 なにか言ってしまった?と青ざめ問うと、面食らったあと、彼はやや早口になりながら誤解を解いてくれた。

「いえ、いえ! アデルさんに問題があったわけではなくて。ただ僕が楽になろうとしたというか、目先の心地よさのために今後貴方との関係を捨てるような真似をしかけたというか……!」


 珍しく噛みかけているのが妙につぼに嵌ってしまって、アデルは口許を押さえ吹き出した。


 彼の言いたいことは、感得している。


 しかしそれを言葉にしてしまえば、お互いに気まずくなるだけなのだ、多分。身分を知らないままではいられなくなる。今後を考えなくてはいけなくなる。

 長くは続かないと分かっているが、それでも。


「……あの。クレマン様。もしもどこかでお会いできたときは、声をかけてもいいですか?」


 もうしばらくは、一緒にいたいと思った。

 クレマンは目を瞠ったあと、静謐とした瞳を細めた。やや照れたように頬を引っ掻く。


「ええ、もちろんです」


 魔結晶を取り込んだ花々を、香り豊かな香水が包み込んだ。

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