04:シャンペトル
その日、アデルは不安で寝付けなかった。
放課後になって、もしや自分はよくない質問をしたのではないかと思ってしまったからだった。
クレマンとの会話を振り返り、楽しかったは楽しかったが、クレマンはあんまり明るい話をしなかった。もしかすると嫌なことを思い出させてしまって、思考をそちらに向かわせてしまったのではないか、と不安になったのだ。
一度思いつくとどうにも気になって気になって、明日世界が終わるような絶望的な気持ちにまで落ち込んでいた。
そういうわけで、どう謝ろうと考えることでしか不安を解消できず、到底眠るような気分になれなかったため、酷く浅い睡眠しかとれなかった。
しかも、夢の中でクレマンにもう話しかけないでくださいと言われた。
ぱっと目覚めたときの安堵感と言ったら、ない。
侍女に、お嬢様ぁ、すごい顔色ですよー、と言われてそうよねとしか思わなかった。
こんな状態で午前中の授業に集中できるわけもなく。
昼休み、友達との会話もそこそこに、逃げ出したいような、むしろ早く会いたいような変な焦燥感と不安感に苛まれながら、室内庭園に向かった。
誇張なしで手足が震えていた。
それはそれはもう慎ましやかに扉を開けると、あ、と言いたげに口を開き、にこり、と笑みを作ってくれたクレマンがこちらを向いた。
すぐに顔色の悪さに気づき、心配そうに眉をひそめる。
「アデルさん。大丈夫ですか?」
「……え、えっと。はい」
会うたび最初に緊張するの、そろそろやめてしまいたいわ。
ドッキンドッキン、死ぬんじゃないかというほど脈動する。
ぎこちなく、クレマンの前まで一歩一歩足を出した。
ベンチに座るのも忘れて、クレマンがなにか言いかけたのも掻き消して、アデルは擦れる声で小さく叫んだ。
「あのっ。昨日、ご迷惑では、なかったですかっ」
「……えっと」
クレマンが、困惑気味に笑った。頭上に大量にはてなマークを浮かべているのが分かる。
話しだしを間違えた、とアデルは悟った。
「……すみません。なんのことですか?」
問われ、アデルは右手で横髪を握った。幼少期からの癖が、また出た。
「あの、昨日の、質問です。あのあとから、声音が暗かったように感じて」
「質問……ああ、刺繍のことですか?」
クレマンはそれとなくベンチを魔法で綺麗にしつつ、またもや苦々しく笑った。
「……確かに、えーっと、少し暗い話を、しましたね」
うろうろと視線を彷徨わせている。が、やがてまだ言葉を探りながらも、アデルに目を合わせ告げた。
「大丈夫です。アデルさんの問題ではないです。むしろ僕は、アデルさんから関わろうとしてくれたことが、嬉しかったんですよ」
その言葉に、アデルは目を見開いた。心臓がきゅっと詰まり、目がかっと熱くなる。震えないよう、唇を引き結んだ。
嬉しい。関わろうとしたことが。
そんなこと、一体誰に言われたことがあっただろう。
クレマンはふらふらと目を移し、にへら、と口を微妙な笑みの形にした。
「多分あれは、ええ。はい。僕が、誰かに話したかったのかもしれません」
困り眉で、彼はすみませんと頬を引っ掻く。
「暗い話は、あんまり好きではありませんよね。すみません」
「……そ、そんな、こと、なかった、です」
たどたどしいながらも、アデルは言葉を紡いだ。目を丸くしたクレマンに、昨日のように笑ってほしくなった。
「貴方の、言葉。わたくし、聞けて嬉しかったんですよ」
肩が竦む。そうでもしないと、自分はしっかりと声が出ない。眉がしゃんと立っていて、口はむっとしていた。両手は、髪を強く握りしめていた。バスケットはふらりと左手の腕に垂れた。
「暗くても、明るくても。わたくし、貴方のお話、好きです」
にこ、と控えめに笑って見せる。怒っていると誤解されたくなかった。まあ、卑屈なアデルの表情作りで、怒っているとは思われないだろうが。
つまり、クレマンを否定しているのではなく、受け入れようとしている、ということが伝わってほしかったから、笑った。
それを見上げたクレマンは、きょとんとしたあとに、困り眉で破顔した。
「……はははっ!」
口許を手で押さえ、それでも口を開いて、笑い声をあげた。アデルを見る目が、なんとも柔らかに細められる。
「ありがとうございます」
お隣、宜しければどうぞ。
そうにこやかに示されると、アデルはじんわりと頬を熱くして、ベンチの端に腰を下ろした。
「ありがとう、ございます」
なんでかにやつく口許を両手で押さえ、クレマンの方を向く。アデルは頭を下げた。
彼はにこりとアデルに微笑みかけると、庭園に向き直ってランチボックスを開いた。手を合わせ、口に運ぶのはガレット・コンプレット。
「僕はガレットが一番好きなのですが、アデルさんは軽食ではなにが好きですか?」
問われる。が、答える前に、つい思った。
一番好きなの、ジャムじゃないのね、と。
マイペースにガレットを口に含み、美味しいと頬を緩めるクレマンの横顔をじっと見つめ、くすりと苦笑した。やや緊張で汗を流しつつ、問う。
「ジャ、ジャムを載せたパンでは、ないのですね?」
「……ははっ! ええ、はい。基本なんでも好きなのかもしれません」
心底おかしそうに笑うクレマンに、つられてアデルも顔を綻ばせた。
よかった。会話、出来た。
「……わ、わたくしは、サンドイッチが一番好きです」
領を視察したときに、領民がくれる野菜で作ったサンドイッチ。これがとびきり瑞々しくて、美味しいのだ。
そして、上に立つ者として気を引き締めることができる。
……のだが。
香ばしいそば粉。とろとろの卵。
気になる。とても気になる。
アデルの実家近辺は基本ほどよい気候に適度な降水量、低魔力濃度と小麦を育てるのにうってつけの土地だ。
そば粉なんてわざわざ買い入れない。
つまりは、ガレットを作ってもらう機会なんてない。
「……どうしました?」
「い、いえ」
アデルは取り繕うように苦笑した。それから、控えめな声量で囁いた。
「その、美味しそうですね」
「美味しいですよ」
言いながら、クレマンはまた、ガレットを口に運んだ。
「でも生地が少し厚いですね。もっと薄いとよりらしさが出ていいんですが」
「……そうなのですね」
どうしましょう、全く分からない。
整った正方形の生地は、アデルの目には均一に薄く伸ばされているように見える。これよりさらに薄くなんて想像できない。
クレマンはちょっと遠くの花々に目をやり、のんびりと食べ進めている。
……わたくしも、食べよう。
アデルはランチボックスを開け、静かに目を輝かせた。
様々な模様、形のパイが、美味しそうな顔をして不規則に散らばっていた。
宝石を扱うようにそっと手で包み、頬張る。
サクサクしていながらまろやかに口の中に溶けていく。香り豊かなポムの酸味が、まろやかなバターと絡む。
にまにまと頬を緩め、クレマンの輪郭のはっきりしない、肩の力が抜けた話を聞く。
……この方、話題が尽きないわ。
ここ数日、ゆったりとではあるが、碌な相槌も打てないアデル相手に、昼休み中ほとんど話しかけてきてくれている。
多分頭がいい人なんだと思う。
「そういえばこの前の授業で、魔法強化薬について取り上げられましたよね。この歴史が意外と面白くて。知ってますか? 魔法強化薬って元々魔法睡眠薬だったんですよ」
面白い先生の授業内容みたいなことを話しているかと思えば、次に口を開いたときには、時々雲って美味しそうですよね、という、共感できなくもない雑談を持ってくる。
侍女の美味しいパイを食べながら聞いていると、あっという間に昼休みが終わったのだった。
貴族社会において、食事の時間を誰とどのように過ごすかというのは大変重要で。特にルーセヴェルにおいては、昼食の時間が社交では非常に重きを置かれていて。
二週間近く誘いを断り続けていたら、当然誘われなくなるのだった。
翌日、昼休み。
アデルは一人嘆息し、侍女お手製のランチボックスを今日も抱え、室内庭園へと向かった。
とうとうあのお二人からの誘いがなくなった。
廊下を一人で歩く。頭が真っ白だからか、足の進みは妙に速かった。
いよいよ、学園生活が孤独になってきた。これからどうしようか。
あれこれ考えるものの、いい案は浮かばない。ただ、やらかしてしまったという嫌な実感と焦燥感だけが存在していた。
いや、分かっていたはずなのだ。こうなることくらい。
二人は毎日、誘ってくれた。それを断り続けたのは自分だ。一週間も断れば見切られてもおかしくないのに、二週間近く辛抱してくれたのは彼女たちの優しさでしかない。
分かっていたはずなのに、どこか甘えていた。二人の優しさに。どうせこのままずるずると関係が続いていくと、どこかで油断していた。
そして、心地のいい方へと逃げた。
アデルは唇を噛んだ。
これからが不安で仕方がないのに、肩の荷が下りたような感覚もある。
……いえ、やっぱり今すぐにでもお二人に縋りたい。
基本的に、学生時代の交友関係がそのまま大人の貴族社会に出たときの関係だ。このままでは将来永久に孤独になる。それは貴族としてまずい。
しかし、気まずそうに食堂に向かう二人に縋れるほど、アデルの意思は強いわけでもないのだった。
今日も室内庭園にはクレマンがいた。彼はいつもと変わらない。
「あ! アデルさん。宜しければお隣どうぞ」
そう相好を崩し、こちらを見てくれた。
「……ありがとうございます」
息が詰まった。彼に比べ自分があまりに未熟な気がした。
お隣失礼いたします、と小さく呟き、いつも通りベンチの端に腰掛けた。
膝の上のランチボックスをぼーっと眺める。
そろりと隣を窺うと、彼は本を読んでいた。
苦くとも笑みをほとんど崩さない彼が無表情なのはなんだか新鮮で、じっと横顔を見つめてしまった。顔立ちはそうでもないはずなのに、やはり不思議と愛嬌のある表情をする。
無表情なのに。
くすりと笑い、アデルは口許を抑える。
それからまた、疑問が二つ、同時に浮かんだ。
その本はなんだろう? お昼は食べないのかな?
アデルは好奇心から、こう口にした。
「……あ、あの。すみません。そちらのご本は?」
「へ?」
集中していたらしい彼は声を裏返らせた。ああ、とこちらを向く。
クレマンは本に指を挟んで閉じ、表紙をアデルの方に向けてくれた。
――ル・ヴォンとシャンペトル。
素朴で暖かな筆致。幼少期から親しんできた筆跡だ。
アデルは思わず表紙を指さす。
「「べレニスの詩集!」です」
クレマンと声が揃った。
ぱっと顔を輝かせたアデルに、彼は驚きの微笑を向ける。
「……ご存知ですか?」
アデルはだらしなく緩んでしまいそうな口を引き結んで、こくこくと頷いた。
「ベレニス、わたくしも好きです」
「本当ですかっ」
クレマンは声を大きくして問い、それに力強く肯定するアデルを見つめた。アデルもクレマンを見る。
お互い数秒沈黙したあと、同士を見つけた喜びで、二人ともぱあっと目を輝かせた。
アデルは流れ出るまま言葉を紡いだ。
「彼女の詩はどれも暖かで素敵ですよねっ! 母が好きで、ほとんどの作品は読んだことがあります! 華やかなシャンデリアやドレス、宝石だけではなくて、道端に生えた小さな花を愛でるような優しい眼差しが印象的で」
「分かります、飾り気のない家族愛や自然愛が伝わってきますよね。どれも読むとほっと一息つきたくなる余韻があります。生活に根差している風景を詠んだ詩が多いので、一度立ち止まって、今まで自分が見てきた風景と重ねられるのもいい」
「まあっ」
アデルは感動で口元を押さえ、頬を紅潮させた。
「お分かりになりますか? わたくしもそう思います。お気に入りの詩はありますか?」
「ああ、それならこの辺りの詩が……」
二人してテンションが上がって、近づきすぎた。
ほんの三センチもないほど顔を近くしていたことに気がつき、お互い気まずい顔でそそそ、と元の位置に戻った。
体の向きをすっと正し、アデルは控えめに、話を戻す。
「わたくしは『ノン・ブケ』が好きです。お言葉が柔らかで。それと『雨とラファール』も。特に『雨とラファール』は、読んで以来風音に耳を澄ませてしまいます」
「いいですよね。風と言えば、『八月のブリーズ』が僕は好きです」
「ああ! 分かります。ベレニスが謳う風はいつも自由気ままで我儘で、ちょっぴり感傷的なのが魅力的に生き生きと表現されていて、大好きです」
「同感です、ベレニスご自身も彼女の描く風のように魅力的な方だったのでしょうね」
「ええ、彼女が、十六歳を迎えられた世界で一体どんな詩を描くのか気になります」
「確かにそうですね。幼少期から病に侵されていたからこその、独特な湿り気のある観察眼が、どのように変化するのかが気になります」
「若くして亡くなられたのがとても惜しい方ですよね」
随分と話が弾んだ。
背伸びをしない、気を遣わない、身分に縛られない、それでもいい。それでも許容してくれる。
相手にどう思われるかを考えるまでもなく言葉が溢れる。とめどなく会話が続く。
素直な言葉を吐き出せる、月並みな言葉でも伝わる、思ったことをそのまま言葉にできる、好きなものを否定されないかと怯えるに好きなものの話ができる。
周りの目も気にする必要がない。
怯えてどもる不安がない。
とても居心地が良かった。
後悔も、後ろめたさも束の間忘れられた。
後悔し続けるのも、後ろめたさを感じ続けるのも、しんどい。
疲れてしまうのだ。なんて、自己中な話だが。
人と話すことがこんなに幸せだということを、久しぶりに思い出した。
昼休みが終わる直前、慌てて食事をした。
「……あの、そういえばどうして、昼食より先に読書を?」
アデルはサンドイッチを飲み込み、クレマンに聞いた。彼は心底困ったように苦笑して、
「気分転換をしたかったので」
そう、口を小さくした。
それ以上突っ込んだことを聞くことなどできず、アデルは、ではと立ち去る彼の背をぼんやり見つめていた。




