02:ジャム
ラフィネ魔法学園。我が国ルーセヴェルに存在する、貴族の青少年のための教育機関だ。三年で卒業できる。
元々は、古くより神の御力とされる魔法を扱う知識を授けるための場所。
要するに宗教機関ということになるのだが、宗教機関の権力が弱まった現代においては、もっぱら貴族たちの婚姻相手探しの場になっている。それと同時に、貴族にのみ使用が許される魔法の習得が大きな存在意義だ。
そしてアデルの学年、今は一年の代に、我が国の第一王子殿下もいるし、その婚約者である筆頭公爵家のお嬢様もいる。
それと、治癒という珍しい魔法を使える元平民の男爵令嬢もいる。
名はマノン・ブーロ。ドの称号がないのは、根っからの貴族ではない証である。アデルだって、本名はアデル・ド・トゥルーズだ。
マノン・ブーロのいるこの教室は、いつだってピリついている。
彼女は窓際の一番前、ぼろぼろの道具を机に広げ、ぴしりと背筋を伸ばし、じーっと窓を眺める。そんな変人だった。
アデルはその少女のことが嫌いではなかった。むしろ好きだったし、ひそかに尊敬の念を抱いていた。一週間ほど前、彼女がとある人物に喧嘩を売るまでは。
そっと嘆息し、アデルは教科書に目を落とした。余計なことは考えたくないし、耳に入れたくない。
ラフィネ魔法学園の教室は、広々とした真っ白な空間だが、天井には神々の絵が色鮮やかに描かれているし、貴族たちの煌びやかな私物が机にくっついており、神秘的ではあるが賑やかだ。所々に宗教機関としての名残が感じられ、自然と背筋が伸びる。
昨日、初めてクレマンと目を合わせた。
綺麗だったな、などと考えて、アデルは緩く首を振った。
どうせ何をしたって自分は人を傷つけてしまう。まともに話もできない自分が恥ずかしい。
アデルは気を抜くと、すぐに自己嫌悪に沈んでしまう性分であった。昨日、午後一発目の授業が始まるころには既に、拙いお辞儀を後悔していた。
変な礼をしていなかっただろうか、せめてさようならの挨拶くらいはっきり明るく言えればよかったのに。意気地なし。
と、こんな具合に。
憂鬱な気持ちを堪えて授業を終え、昼休み。
「アデルさん、本日も?」
真っ先に話しかけてくれたのは、エロイーズ・ド・トート。入学以前から親しくしていた、オレンジがかったブロンドに、垂れた瞳が特徴的な少女だった。
「ええ、すみません」
アデルは彼女に、苦い笑みを浮かべ頭を下げた。
「残念ですわ」
そう口を尖らせたのが、オルタンス・ド・ダンシェ。こちらは入学後に仲良くなったお嬢様で、グレージュのボブへアが特徴だ。
二人の咎めるような視線に、ただただ気弱に笑みを返し、アデルは逃れるように教室を去っていった。
「……エロイーズさん」
「……もう少し」
呟く二人の声は、聞えないふりをした。
多分、もう長くはもたないだろう。二人との関係は。
一人、カツンカツンと控えめに足音を鳴らし、廊下を歩く。
二人とは、入学して同じクラスになり、大人しい子爵令嬢、男爵令嬢同士三人でひっそりとお昼ご飯を食べていた仲間だ。
しかしアデルは、ここ一週間ほど彼女たちの誘いを断っている。教室の居心地が悪かったからだ。それに、たとえ三人の間だとしても、周りの空気に呑まれ誰かの悪口を口にするのが嫌になってしまった。
貴族の雑談と言えば、学問の話、誰かの悪口、噂話。マノンがいるので、アデルのクラスでは基本的に噂話や悪口で盛り上がる。皆マノンに飽き飽きしているからだ。
アデルはそれが嫌で、室内庭園に逃げて来たのだった。
付き合いの悪い者は排斥されるのが貴族というものだ。もしかすると平民もそうかもしれないが。
アデルはそのうち、排斥対象になるだろう。それでいいと思った。疲れてしまった。
後ろめたくのそのそと、それでいながら気は急いた。バスケットを両手で握りしめる。
室内庭園に続く白い扉を開けると、恐らくは似たような状況の青年と目が合った。
今日もいる。
気まずいなあ、とは思った。
けれども、もしも出来るのなら、昨日のように彼の話を聞きたいとも思った。それをするには、能力も気力も足りなかったが。
「こんにちは、アデルさん」
「……こ、こんにちは」
ぎこちなく頭を下げる。何気なくベンチに座ろうとして、クレマンの座っていない、手前のベンチの傍で固まった。
知り合いになってしまった以上、あえて離れた席に座るのもなんだか嫌味っぽいだろうか。
かといって勿論隣に座る度胸はない。
気にしすぎ? 普通にいつも通りの場所に座ればいいのかな。
何度か、声を出そうと口を開きかけ、閉じる。
アデルは困り果て、下がり気味だった頭を完全に俯かせ、控えめにため息を吐き出す。決して彼には聞こえないように。
お隣良いですか、と聞こうとするだけで、馬鹿みたいな速さで脈打つ心臓。自分に呆れるしかない。
柔らかな色合いのバスケット。前腕と上腕をきゅっとくっつけて、ぎゅっと両手で握っているから、すごく近くに感じる。
やや癖のある自分のキャメル色の髪が視界の外側に落ちてきて、再びため息が漏れそうになった。
しかし、このまま突っ立っているわけにはいかない。
話しかけよう。お隣、よろしいですか、と。
そうしたら、余程冷たい人でない限り、返答をくれる。よいですよと言われたら、ありがとうございますと、距離を取って同じベンチに座る。いや無理ですごめんなさい、と言われたら、そうですよねすみません変なことを言いました、と別のベンチに座る。
簡単なことだ。
……。
簡単な、ことなのだが。
アデルは左手をバスケットから離し、頬に当てた。
ああ、駄目。
想像するだけで声が裏返るような気がして、苦笑されるような気がして、顔が羞恥で赤くなってしまった。
そのまま地面の上に縫い留められたように動けないでいると、クレマンが見かねたのか、声をかけてくれた。
「……どうされました?」
その声音があまりに柔らかで、強張っていた肩から力が抜けた。
昨日のことを思い出す。顔を上げても、少女たちの侮蔑の双眸ではなくて、きっと暖かな目が存在するだけだ。
アデルは右手でバスケットを握り直し、そろりと重力に従って腕を下ろした。
白い石の上、謙虚なヒールの厚底ブーツが卑屈に揃っている。
それをカツカツと動かし、アデルはクレマンの傍、ベンチの端に立ち、ぎこちなく、変な角度で顔を上げた。
クラバットにペリドットのブローチが輝いているのを視界の中心に捉える。
「……ぁの、その、……お隣……」
今すぐ穴を掘って隠れてしまいたいほど、声が上擦った。その上声量が小さくもごもご口の中で消えた。
が、それだけで彼には十分だったようだ。クレマンは、ああ、とぱっと声音を明るくした。
「隣、宜しければどうぞ」
彼が左手をつけると、昨日と同じように、淡くくすんだ緑がベンチを滑った。
「ありがとうございます」
きちんと、人と会話出来た。
そのことを不思議に思いながら、頭を下げて彼と距離を取り隣に座る。膝の上にバスケットを置くと、しっかりとした素材のスカートにぽふんと沈んだ。
ランチボックスを広げ、いただきますと手を合わせる。
ちらりと、昨日のように髪の間から彼の横顔を盗み見る。
……凄い人。
緩やかに口を開きだす彼に、そんなことを思った。
「ここのベンチ、白くて綺麗ですよね」
「……え。あ……」
こくん、と頷く。そうするのが精いっぱいだった。
「なんでも、何十種類もの白い素材を試して、結果的にこの色に落ち着いたそうですよ。よーく見ると、パールのように上品な光沢だと分かりますでしょう」
「……あ、はいっ!」
返答をしなくては、と意識していたら、今度は変に大きな声を出してしまった。彼は特に言及せずに、続けてくれる。
「パールといえば、この前授業中に魔力生物学の先生が見せてくださったのですが、魔力生物の場合は黒色を帯びて見えるそうです」
魔力生物。魔力を内包した生物の総称だ。といっても、基本的に人間は除かれるが。
魔力植物もそうだが、魔力を持っている生物は美しいものと恐ろしいものの差が激しい。
そして魔力生物学とは、基本おぞましい感じの魔力生物について学ぶ選択科目だ。
アデルは選択していない。聞くところによれば解剖はあるし、ほとんど男子生徒のようだし。選択科目の中でも不人気な科目。好き好んで履修する理由がない。
自ら魔力生物学を受ける生徒というのは、大半が、魔力生物を狩る狩人として生きることを決めた下級貴族の次男坊三男坊。はたまた魔力生物を研究する魔力生物研究家を目指す変わり者か、といった具合なのだ。
だからこそ、平和主義的に見えるクレマンが魔力生物学を受けていることが、意外だ。
パールなどもはやどうでもよくなり、アデルは耳を傾けた。
「色合いがとても素敵でした。たとえようがないのですが、あえて例えるのなら夜空のような。暗い中に光沢がじんわりと滲んでいました。僕は元々黒が好きなので、余計に綺麗に見えたのかもしれませんが」
……魔力生物学の話をされても困るところだったが、パールの方を深掘りされても、ちょっと別の方に好奇心が向いてしまっていた。
まあ、軌道修正するようなコミュニケーションをする勇気は、アデルにはないのだけれど。
だから、ひとまず話に乗ることにした。
想像してみる。
きっと、アデルが良く知るあのパールの色に、宵闇を思わせる黒いベールがかかる。薄い薄いベールなのだろう。だから、ちらちらとパールの艶やかな、白のような虹のような御身が見え隠れする。
黒が白を、白が黒を目立たせるのだろう。
黒はきっと、あの御方の髪の色のような……。
「……それは、さぞ綺麗なのでしょうね」
自然と零れでて、即座に後ろめたさが思考に影を落とした。
サンドイッチを口に入れる。サンドイッチを入れたところで、飛び出た言葉はもう喉の奥に戻ってはくれない。
きゅっと目を細めた。勝手に力が入った。
密かに慕っていたあの人は、綺麗な濡れ羽色の髪に、見事な漆黒の瞳を持っていたのだった。
「ええ、綺麗でした」
軽やかなクレマンの言葉が、春のように穏やかな室内庭園に、小さく響いた。
それきり沈黙。
気まずい。
なにか声を出さなくては、と思うのに、声が出ない。感情が言葉として形を成せずに消えていく。
「……」
アデルは黙り込んだ。
と、隣でなにやらカチャカチャと金属音がするのを聞いた。なんだろう、と疑問に思うと、好奇心を抑えきれなかった。
そろりと髪の間から窺うと、クレマンはガラス瓶に詰まったジャムを、山型パンの上に塗っていた。ふわふわのパンに、ごろりと果肉の感じられる、色鮮やかなフレーズのジャムを。
とても美味しそうだった。
ついじーっと見つめてしまう。その視線に気がついたクレマンは、やや照れくさそうに頬を引っ掻いた。
「……好きなんですよ。特に酸味の強いものが」
「……ふふふっ」
アデルはにまにまと頬を緩め、口の中で笑った。綻んで開きそうになる口許を両手で覆い、笑みが去るのをじっと待った。早く消えてほしい、と必死に願う。
「そんなに面白いですかね」
不思議そうな、というよりは毒気のない不服さから唇を尖らせたらしいクレマンに、アデルはますます笑みを深め、同時に強く、申し訳なく思った。
「す、すみませんっ。馬鹿にしている、わけではなくて」
とろけそうになる頬を右手で押さえながら、アデルはそう頭を下げた。左手はランチボックスに添えている。
アデルは自分のか細い声に嫌になるけれど、彼はそうでもなかったらしい。クレマンは控えめな笑い声をあげた。
「はははっ」
ドキリ、と心臓が高鳴った。存外低い声だった。
「……その、あの……」
アデルは言葉を詰まらせて、おっかなびっくり、告げた。
「あ、貴方も、人なのだなあ、と、思っただけ、なのです」
分かってはいたつもりなのだけれども、ようやくはっきり実感できたような気分だった。
だって彼は、知り合いではない人の意を汲んで、居心地が良いように調節してくれた。あまりに暖かなものだから、完全な存在に見えた。ある意味で無機質な存在に見えた。
人がそんなに暖かなものではないと知っているから。
けれども彼は、穏やかな笑みを崩してころりと表情を変える。照れたり、笑ったり。
それが妙に意外で、自分のようで、緊張が緩むのだ。
クレマンは、分かっていますよと、いつもの底知れず優しい声音で答えた。
「……気を悪くなさらないでくださいね。僕も、笑いを噛み殺しながら慌てて謝る貴方が、とても人らしくって、なんだか安心したのです」
人であるならば、彼はどうしてこうも穏やかで暖かなのだろう。醜い自分とは大違いだ。
そしてその醜い自分が、一体クレマンにはどう見えているのだろう。
人らしくって、安心する。それはつまり、アデルが人らしくなかったという意味で。……。
そんなことを思い、アデルは膝上のランチボックスを見つめた。
「アデルさん?」
問われて、いえ、と小さく呟く。
こういうところ、だろうか。
不安になるけれども、考えれば考えるほど、喉が詰まるような錯覚を覚える。だんだん頭の中が白ばむ。
アデルは、どうかクレマンが気にせず別の話を続けてくれますように、と最低な祈りをしてしまった。
楽しいのだ、楽しいのに、声が出てこない。受けることはできるのに、答えることはできない。
そんな自分が嫌になって、益々背中が丸くなる。
頑張って返答を返そうとしたら、固くなって変になる。もう嫌。
自分なんて大嫌い。
「……アデルさんは、ジャム、好きですか?」
のんびりと問われた。ほんの少し遠い声。こちらを向いていないと、分かる声量。
姿勢が崩れていたことに気がつき、アデルはすっと背筋を正した。子爵令嬢として、せめて姿勢だけは美しく保っていたい。
「はい」
するりと言葉が溢れた。脆そうな声に辟易しかけると、そうですかっ、と少しはしゃぐようにクレマンの声が高くなった。
「僕もご存知の通りジャムが好きです。特にフレーズが。シフロゲットですとか。ルーセヴェルの南方の品種で、しっかりした酸味と柑橘系の強い香りが特徴的なんですよ」
そういえば、我が国の南方は香水が大きな産業となっているのだった。
「アデルさんはなんのジャムが好きですか?」
「……アブリコです」
あまりにも定番すぎるだろうか。ミルティーユやカシスなんかも勿論食べたことはあるが、アブリコの爽快なさっぱりした甘味と香りが好きだ。ねっとり絡んでくる甘ったるいものも好きだが、酸味の強いものが好き、と話す人にそれを告げないだけのコミュニケーション能力はあるつもりだった。
「ああ、いいですね」
言いながらクレマンは、たっぷりとジャムを載せた山型パンに口をつけた。サク、と小気味良い音が響く。
……そっか。
アデルは気づいた。無理していい返答をしようとすると、自分は不自然になってしまう。どれだけ控えめでも、下手くそでも、自然体で返事をした方がいい。
だって今、すらすらと言葉が出てきた。
クレマンは恐らく、アデルなどよりもよほど会話が上手い。ならばそれに任せていよう。
自分は、ただでさえ絶望的に会話のテンポが遅いのだから、さらに遅くする必要もない。
そう決めてしまうと、肩から力が少し抜けた。
クレマンは話が上手い。アデルはただ聞いているだけでいいから、楽しむのがとても楽なのだ。
やがて、昼休みも終了間近になった。あと十五分ほどで終わり、その五分後には午後の授業が始まる。
「では僕は、これで」
彼はそう立ち上がり、シンプルな革のケースを隠しに入れた。パン屑はしっかりと魔法で掃除している。
軽やかに歩みを進めるクレマンが、アデルの前を通り過ぎた。
このままじゃ駄目、言いたいことを何一つ言えないまま、彼とお別れになる。
カツカツと、真っ白の石を柔らかに撫でる足音が遠ざかっていく。
下を見れば、相も変わらず卑屈に揃った厚底ブーツ。
深呼吸をする。すう、はあ、と喉の準備をする。
胸に手を当て、心の準備もする。
顔を、上げる。
「……あのっ」
アデルは、そう、声をかけた。彼は時間に余裕がないはずなのに、扉の前で、律儀に足を止め、こちらを向いてくれた。ドアノブにかけた手も、下ろしてくれた。
耳鳴りがするよう心臓がバクバク鳴る。
アデルは頭を下げないように意識した。それでもやや下がり気味になった、緊張でいっぱいいっぱいの顔。
乾き切った口を、なんとか開ける。恐ろしく重い。
開いて、開いて、噛まないで、とアデルは祈った。
「……あの、わたくし、あ、貴方のお話、お聞きするの、楽しい、です……」
よかった、相手の反応がどうであれ、言えた。
一生分の勇気を使い切ったような気持ちで、アデルはクレマンの方を見た。
彼は目を見開いていた。零れ落ちそうなピスタチオグリーンと目が合い、さっと視線を下げた。
時が止まったかと錯覚してしまいそうになるほど、緊張した。数秒の静寂で、アデルの頭の中には様々な最悪が駆け巡る。
突然なんですか、気持ち悪い、だから? そりゃそうでしょうね、こっちが無理して合わせているから……。
冷や汗が噴き出た。いつの間にか息を止めていた。
でもクレマンは、アデルの嫌な想像を破り去るように、それはそれはもう嬉しそうに破顔したのだ。
「そうですか! それはよかったっ!」
心からの喜びが滲んだ声だった。
心拍数が一瞬で高まった。
ふわふわと頭が熱を帯びる。あんまりにも彼が嬉しそうにしたから。
アデルが達成感やら幸福やらでぼーっとしていると、昼休み終了の鐘が鳴った。
「え? あら?」
当然クレマンは、とっくに室内庭園を去っていた。
……は、早く教室に戻らないと!
アデルは我に返り、あたふたと荷物をまとめ、室内庭園を後にした。
どこか浮ついたような気分で、思う。
クレマン様は、いいお人。
そして、ジャムが好き。お話を聞いてもらうのも、多分好き。
アデルは、跳ねるような足取りで廊下を歩くのだった。
補足。この世界では魔法を使うのに必要な魔力は全人類もっています。扱う許可がでているのが貴族だけなのです。日本の武士だけ帯刀が認められている、みたいなことで、貴族の特権の一つです。
あとシフロゲットはガリゲットとシフロレットを混ぜたような品種です。勿論実在しません。ここで言うフレーズとはイチゴのことです。




