01:ハンカチ
しばらく毎日投稿です。宜しくお願い致します。
今日もいる、とアデルは思った。
名も知らぬ青年が、今日の昼休みもベンチに座っている。
数日前から、毎日見かける。一週間ほど前に新しく自分の居場所となったここ――学園内の、室内庭園に。
アデルはひたすらに気まずさを感じ、庭園を愛でるようにゆっくりと歩いた。
キャメルの髪が、ふわりと風に揺られる。
真夏でも春の花――ミモザやリラが咲き誇る不思議な場所である。土地に染みついた魔力や魔力を含んだ風の影響だと言うが、不勉強なアデルはよく知らない。
その都合上、花々が他に比べ小さくなり、植えられる花も制限されることから、普通の貴族令嬢や貴族令息、つまりこの学園の大半の生徒は寄り付かない。
そもそも、王城のように立派なこの学園には、豪奢な庭園が施設内に数多く存在する。あえてこの場所を選ぶ必要はないのだろう。
要するに、あえて人を避けるわけでもないのなら、こんな場所には来ないのである。
アデルは息を漏らしそうになった。しかしここ以外に行くあてがない。致し方なく、ベンチにひっそりと腰を下ろした。
学園で一番小さなこの室内庭園に、ベンチは二台のみ。平均的な人間が三人座れる程度の大きさで、隣り合うように設置されている。純白が特徴的な、細やかな装飾の施されたベンチだ。
アデルは、入り口付近の方にスカートを押しつけるように座った。彼は反対のベンチの一番端にいるから、二人で座る場合、一番距離を取れる座り方だ。
これも数日前から変わらぬことである。
ご令嬢らしく両足を揃え、膝の上でランチボックスを広げた。
黙して食す。
二人の遠い遠い間に、会話はない。
これもまた、数日前から変わらぬことだ。
カトラリーを使用し、侍女の作ってくれた料理をぎこちなく口に運ぶ。いつもなら美味しいと口を綻ばせるところだが、今は緊張で味がしない。
それでもこの場を訪れるのは、離れたときに彼がもしも万が一落ち込んでしまったとしたら、と考えてしまうからだ。自分だったら、自分が嫌いだから来なくなってしまったのではと考え込んでしまうのだ。
自意識過剰だと、分かってはいるのだが。
目の前に広がる、淡い青、紫、黄色、赤色、黄緑色……。魔力の影響で、色素が酷く薄いのだ。小ぶりな花々は鈴のように連なって、柔らかに葉の上に被さっている。敷き詰められた緑色の中から、大輪の花が悠々と顔を出していた。
天井には、変質した半透明のローズがこちらを見下ろしている。
魔力で整えられた、均質な真っ白の石造りの壁や柱に、蔓が絡み、巻き付いている。
室内が花で埋め尽くされているのだけれども、香りはしなかった。魔力を含んだ花は、生殖に関する能力を失う。
時折風が吹き抜けるほかに、自然の音はない。自分の深呼吸をする音、カトラリーを動かす音、身じろぎしたときの衣擦れ、そんなものにぼんやりと耳を傾け、ふと顔を見上げる。
すると幻想的な景色が映る。この環境は中々に好ましかった。
……隣に人さえいなければ。
だなんて考えてしまった。いけない、とアデルは首をぎくしゃくと振った。キャメル色の髪が頬を撫でる。
昔から、人の悪意が苦手だった。貴族令嬢たちを集めたお茶会では空気に圧倒され、碌な記憶がない。いつも人の視線に怯え、おどおどとお決まりの挨拶だけをして、あとは黙っていることが常だった。忘れられていれば御の字、思い出したように水を向けられれば終わりだ。折角の厚意を無駄にして、あ、だとか、ええと、だとか、意味のない言葉だけを発して、ほんの一秒で終わる発言に、何十秒もの時間をかける。貴族向きの性格ではないのだ。
だが、王族などであればいざ知らず、田舎の子爵令嬢。同じく嘘や見栄を張るのが得意ではなく、また会話も苦手な男爵令嬢や子爵令嬢の人間と付き合っていけば、充分平凡に暮らしていけた。
家族や使用人ではない男の人と話したことなんて、数えるほどしかない。むしろ数えるほどもない。
アデルは、そろりと青年の横顔を盗み見た。俯き加減に、髪の毛の隙間から、ほんの少し。
ややそばかすが目立つだろうか。くすみがかった茶髪が印象的である。
室内庭園に一人で来る彼に興味が湧かないでもないが、話しかける勇気などあるわけがないのだった。
だらだらと食べ進め、昼休みが終わる直前まで室内庭園に籠る。
寸前になってようやく立ち上がり、やや小走りに教室へ戻る。それがここ一週間で定着した、昼休みの過ごし方だった。
しかしその日は、少し違った。従者が立ち去ってしまった後、自分も戻らなくてはと席を立ったとき。
ふと隣を見ると、純白のベンチに、艶やかなピスタチオグリーンのハンカチが丹念に折り畳まれた名残を漂わせ、わずかに乱れて置かれていたのだ。詩人ピスタチオが愛した色、というのが名前の由来だったか……などとどうでもいいことを考えながら、思わずハンカチに近づき、戦慄した。
繊細で高級感のある、見事な漆黒の刺繍が膨らんでいた。あくまでもハンカチが主役で、それをくっきりはっきり目立たせるような、細やかなモチーフの入れ方だ。レースのような、とでもいえばいいのだろうか。
……物凄く綺麗……。
きっと素晴らしい刺繍の腕を持った婚約者様がいるのでしょう、とアデルは思い、つい見惚れた。
アデルも令嬢の嗜みとして刺繡はしているが、これほどのものはできない。
愛されているのでしょう、とても美しい。
しばらくじーっと見惚れてしまい、響く鐘の音ではっと我に返る。あたふたとその場を右往左往し、首を傾げハンカチにそっと近づく。
薄っすらとアデルの影が落ちた。
きょろきょろと辺りを見渡す。
……こちらに放置するよりは。
ひっそり決意を固めると、アデルは、白い手袋を嵌めた両手で、丁寧にベンチからハンカチを拾い上げた。
出来る限り形が崩れぬよう神経をとがらせ、ふくらはぎまで伸びた紺色のスカートの隠しにしまい込む。
時間に間に合わなくなってしまう、とランチボックスを抱え、アデルは大慌てで教室へと戻ったのだった。
ハンカチは寮の自室の机の上で大切に保管した。その日は落ち着けず、夜も寝つくのが遅くなった。
そして翌朝、前日と同じように制服のフレアスカートのポケットに慎重に入れたのだが、彼の教室を訪れる勇気があるわけもなく(そもそも知らないが)、いつも通り、昼休みに室内庭園に向かった。
慣れてきた背格好の後ろ姿を見つけ、内心ほっと胸をなで下ろす。
下ろすが、ここからどうすればいいのか分からない。
室内庭園には静かな春風が吹くばかり。柔らかに花々が揺れているさまを、室内庭園の入り口の扉付近で突っ立って眺める。
ゆらゆら風になびく髪を押さえながら、そわそわとスカートのハンカチをしまってある場所を触れた。
よし、話しかけよう、と、不自然な一歩を踏み出した。
そのまま静止した。
緊張で足の感覚がなくなってきたのだ。平衡感覚もなんだか奇妙に歪んでくる。
心臓が信じられないほど脈打っていた。
だらだらと冷や汗を流す。
仮にも貴族令嬢として、これはまずいのでは……?
よし、もう一歩前進、と、先行した右足に続き、左足も一歩進む。踵が揃った。
「……」
かさり、と強く風が吹いた。庭園の花がこちらを呆れ見ている気がする。
「すみません。あの」
固まっていると、ベンチの付近をしゃがんだり覗き込んだりしていた青年に話しかけられ、肩を強張らせた。
初めて正面から顔を見た。それに驚く間もなく、アデルは俯いた。
なんというか、愛嬌があった。顔立ちではなく、表情が。
心臓が死ぬんじゃないかというほど動悸がする。
「はい……」
声を裏返しながら返事をするものの、頭の中は真っ白だ。思っていたよりも声量が出なかった。聞こえただろうか。
「ピスタ……淡い緑色のハンカチ、見かけませんでしたか? 黒い刺繍がしてあるのですけれど」
このくらいの、と恐らくは指で描こうとして、アデルが下を向いていることに気がついたのだろう。彼は、ごく平均的な大きさです、と付け足した。
やはりあのハンカチは彼の物だった。別の人の物であったら手が負えないところだった。
ほっとしつつ、緊張のせいでほとんど感覚の手で、視覚を頼りにハンカチを取り出す。
「……あの、こちらを」
囁き程度の声だったが、そろりと差し出すと、彼の声音がぱっと輝いた。
「あ! ありがとうございます。……」
少し悩むように沈黙したあと、彼は告げた。
「もしかして、昨日ベンチに忘れていましたかね」
はっと目を見開き、アデルはこくこくと頷いた。
「……あの、もしよければ、一緒のベンチに座りませんか? お嫌でしたらいいんですが」
「い、いえ! ありがとう、ございます」
目を合わせられないままだが、お礼だけははっきりと口にする。
申し出を断ろうにも、そんな勇気も出ないのだ。
青年の足音が遠ざかる。遅れて、アデルはずるずると引っ張られるようにベンチの前に立つ。
ふわりと、柔らかな緑色の光がベンチを滑った。
「どうぞ」
「ありがとうございます。……失礼、致します」
青年の、手袋が嵌められた左手に示されて初めて、アデルが座る場所の汚れを落としてくれたのだ、と気がついた。じんわりと胸が熱くなる。
アデルはベンチの左端に座った。左側のスカートがぎゅっと寄せられる。
ランチボックスを両手で握った。秋だというのに、にわかに手に汗が滲んでいる。
頭がまるで回らない。
元々人見知りする方だが、女の人相手であればこれほどではない。
一応、二年後の学園卒業までに婚約者を見つけないといけないのだが、大丈夫だろうか。
流石に危機感を持つべき……?
真剣に悩むことで、右隣――人一人、二人分は空いた距離の先にいる相手に意識を向けないようにしていた。
「……僕はクレマンと言います。貴方は?」
彼は名前だけを名乗った。
一泊置いて、ようやく情報が頭に届き、口を開いた。
「ア、アデル、と、申します」
アデルも、青年――クレマンに倣って、そうした。たどたどしくなった。
家名、爵位、貴族。そういうのとは、ちょっと無縁でいたい気分だったのだ。
しかしそこで、またもや沈黙が落ちた。
「……」
アデルはだらだらと汗を流し、膝の上に置いたランチボックスを見つめると、恐る恐る、バスケットを包んだ布をほどく。バスケットはベンチ近くの地面に置いた。布の上に色鮮やかな侍女の手料理を広げ、いただきますと小さく呟いた。
今日はサンドイッチである。サンドロスという土地の冒険者たちの携帯食として始まったが、現代においては貴族も普通に食べる。
カリカリのバゲットには、瑞々しいレタスや、風味豊かな生ハム、濃厚なチーズがたっぷりと詰まっている。
我が領の主要産業は農作物なのだ。無駄に広いので。
両手でサンドイッチを包み、小さく齧る。バリッとレタスがいい音を立てた。暖かなチーズが口に流れ込んできて、つい口許が緩んだ。
いただきます、と隣からも聞こえたので、気になってしまって密かに聞き耳を立てる。
シャリシャリと心地よい涼しい音が聞こえる。果物を食べているのだろうか。果物特有の甘い香りがした。
と思えば、サクリと小気味の良い音が控えめに響いた。何を食べているのだろう。
少々口元を放置していたので、たらりとチーズが垂れかけた。慌てて口に含み、静かに咀嚼する。その間も、隣からはサクサクと心地よい音がしていた。
「夏期休暇の魔法薬学の課題、何作りましたか?」
唐突に問われ、心臓が跳ねた。口の中のものを急いで咀嚼し、飲み込む。
何か答えなくてはと口を動かし、ようやく質問を理解した。
……夏期休暇……の、魔法薬学、だから……。
随分言い淀んで、やっと一言答えた。
「薬香水です」
ああ、せっかく質問してくれたのだから、何の香りなのかまで答えればよかった。
直後にそう思ったものの、付け足す勇気もわかなかった。
「薬香水! いいですね。僕は柑橘系の香りが好みですが、アデルさんは?」
アデルさん。
穏やかに発せられた、自分を指す言葉。
なんだかむず痒い気分で、アデルは胸の前に落ちるキャメル色の髪を握りしめた。照れたとき、なんとなく気まずくなったとき。とにかく髪を握りたくなる癖がある。髪の毛に悪いから、あまりしたくないのだけれど。
頬を真っ赤に染めながら、ぼそりとアデルは呟いた。
「お花の香り……が、好きです」
我ながらなんて凡庸な好みだろう。それに大雑把すぎたかもしれない。
内省して、反応を恐々待った。
「花。僕も好きですよ」
彼は、あらゆる嫌な想像を退けるように、柔らかに続ける。
「……花と言えば、この前知った話ですが」
甘ささえ感じられる、静かで柔い声だった。
「天井の、半透明なローズ。あれだけは人工的に魔法で透明にしたものなんですって」
口数が増えた。アデルが話すことは得意ではないと察してくれたのだろうか。
「よーく見ると照明代わりになっているのが分かるみたいですよ」
キャメル色の絹糸からちらりと見やる。視線を感じる。背中が、無様にも丸まる。色んな感情で顔が赤く染まる。
「……ええと。僕は、何も考えず、こういう綺麗な景色をぼんやりと見るのが好きです」
彼は、アデルが楽しんでいることを理解してくれたのか、つらつらと話し続けてくれた。
上手く相槌を打つことはできなかったけれども、サンドイッチを食べながら、美しい風景を前に、なんてことない雑学をふむふむと聞いているのは、楽しかった。
クレマンは、自分のことについて話してくれた。それも、楽しかった。
彼は、香水は柑橘系が好き。なにもせずぼーっとするのが好き。人の喜ぶ顔を見るのが好き。人と話すのが好き。甘い物があまり好きではなくて、苦味の強いものが好き。黒色が好き。
アデルは、彼の話し方を好ましく思った。穏やかで、しかし聞き取りにくいほど抑揚がないわけでもない。やや気弱に感じるけれども、全く通らないというほどでもない。
昼休みの終わりを鈴の音が鳴り響き、アデルははっとランチボックスをまとめた。
では、と逃げるように去ろうとして、扉の付近で止まった。
金属製のドアノブに手をかけ、じっと白い扉を見つめる。
今日、彼はきっと、ずっとわたくしの方を見て話してくださっていた。
だって、目が合った。
けれどもアデルは、ずっと俯いて、顔にキャメル色のベールを被せていた。声はいつも小さくて、碌な相槌もない。
なのに彼は、恐らくは笑顔で話しかけ続けてくれた。
左手に握ったランチボックスに目を移す。昨日は味がしなかった。でも今日は美味しかった。
緊張した。けれども楽しかった。
「……っ」
アデルはきゅっと唇を引き結び、後ろを振り返った。スカートがふわりと揺れる。
彼はベンチの傍で、本を抱えて、空のランチボックスを持っていた。呆気にとられたように目を丸くしている。
綺麗だった。綺麗な目をしていた。
ハンカチと同じ、ピスタチオグリーン。
あんまり沈黙して見つめ合っていると変な汗が噴き出てくる。
アデルは、思い切って頭を下げた。声は出なかった。そんな勇気は、まだ出ない。
返答も待たずに、アデルは足早に室内庭園を去った。
廊下を歩く最中、風が撫でる柔肌の頬は、真っ赤になっていた。




