13:カド―
床に散らばった学生鞄には、魔法で抉られたような跡がある。酷い有様だった。
マノンが大切に握っているものは、かつて、第一王子殿下に貰ったらしい、黒のリボンであったものだろうか。灰になっている。今にも崩れ落ちそうなのにそうはならない。マノンの保護の魔法だろう。
「……貴方がこんなことしたんでしょう。当たるのなら、こうやってわたしに直接当たってくださいよ! わたし逃げも隠れもしませんし!」
「なんのことだか」
扇で口元を覆い、カトリーヌは、はしたなく足を床につけ座り込んだマノンを見下ろした。
「いいこと? 短慮で思考力に欠けるその様、恥ずべき態度と自覚なさい」
空気が変わった。痺れるような圧が、カトリーヌを中心に生まれる。
「いつまで平民気分でいるのです? 腐り落ちても貴族の一員でしょう? 民の血税で生活している身でしょう? 頭を回しなさい。それともその無駄に大きな頭には花畑が咲いていて、微細な脳も詰まってはいないのかしら? 貴方を見るたび苛々して叶いませんわ。いい加減、私の面子に泥を塗る真似をおやめいただける? 馬鹿にされるのは不愉快です」
こうしているうちにも、恐らくは裏で着々とマノンを地獄に叩き落とす計画は進んでいるのだろう。……十月十日、マノンはカトリーヌ・ド・ヴィアボルトを怒らせた。
そのことを自覚しているのかいないのか、マノンは本当になにも変わらない。感情論で突っ走る。
マノンはむっと叫んだ。
「今更わたしがどうこうしたって、貴族の結婚は変わらないでしょう? 私は最後まで彼の良き友人でいます!――」
なおも続けようとして、それはカトリーヌの一喝で遮られた。
「ですからッ! それが迷惑だと申しておりますの! お分かり?! 分からないのよね頭が悪いから! であれば、寛容で優しい私はもう一度申し上げて差し上げましょう! あれでも私の婚約者! たとえ元平民であろうとも異性の女がうろつくと私の面子に関わってきますの! 貴族にとって名誉とは命よりも大切なもの! それを傷つけられることの屈辱、今すぐこの場で刻み込んで差し上げてもよろしくてよ?!」
空気が震えた。
ああ、本当にヴィアボルト様はお優しい。
あの日聞いていたアデルは分かる。これだけ馬鹿にされたような態度を取られて、きっとマノンを断罪する準備を進めながら、それでも最後の最後まで納得してもらえないか、口論にもなっていないこれに付き合ってくれている。
遠くの野次馬に混ざり、紙袋を抱きしめ、聞き入る。
二人の対話を見届けたかった。
「……もう! もう! なんでいっつもわたしは貴方と上手く話せないんでしょう! あ、それはわたしのせいですね! ごめんなさい! とりあえず、まずはラウル様のお話を聞いてくださいよ! これだけは主張させてください!」
カトリーヌは長い長いため息をついた。
「残念ですが。私は化け物と話す言語を持ち合わせていませんわ。……むきになった私が間違っていたようね」
カトリーヌはそう言うと、それではと立ち去ってしまった。
「……つまりどういうことです?」
マノンは呑気にむすっとしながら首を傾げた。それから、まあいいかとでもいうように、散らかした荷物を片付け始める。
すると、同情するように、嫌な目で傍観していた生徒が話しかけた。
「ね、ねえ、貴方。今のはあんまりよね?」
「へ?」
マノンは呆然と目を見開き、話しかけてきた女子生徒を見つめた。
それをきっかけに、ぼそぼそと、じわじわと、『悪役令嬢』に向かう悪口が、広がっていく。
「普段あれほど貴族について語っていらっしゃるのに、あのように声を荒げるのは……」
「声を荒げるのは感情の制御が出来ない未熟者の証。貴族とは呼べませんわ、でしたかしら?」
嘲笑するように口許を抑える令嬢。
「そもそも、仮にもこの国の第一王子殿下に逆らうような真似をする者につくのは、貴族として正しいのかしら」
マノンはなにを言われているのか理解できないように、矢継ぎ早に発される口許に目を向けていた。
アデルは愚かにも願った。彼女がいつもの爽快な物言いで包んでくれることを。
「貴方に対する行動の一貫性もないように見えますし……」
「大体、お厳しすぎるのですわ」
一際大きい声。侯爵令嬢だったか。
「いくら貴方が元平民で態度がなっていないと言えども、嫌がらせの度が過ぎていますわ」
「そうだ、淑女に対する扱いではない」
ぎゅっと、紙袋を握った。うっすらと青ざめる。
カトリーヌは、間違ってもこんな嘲笑されていい人間ではない。
カトリーヌ・ド・ヴィアボルトは、誇り高きヴィアボルト家のお嬢様なのだ。こんなことを言っていたら、いずれ手痛いしっぺ返しを食らう。
彼女がどれほどマノンに屈辱的な扱いを受けているか、貴族としての誇りがある彼らに分からぬわけではないだろうに。
「鞄を引き裂かれたり、明らかに強い嫌味を言ったり……どうかと思いますわ」
「そうよ、ヴィアボルト公爵閣下のお嬢様だからって、なんでも許されると思っているのだわ」
甲高い声。
「公式の場では完璧だもの、弱い立場の人間にしか強く出れない御方なのよ」
「貴族、淑女を語るには少々強気すぎるんじゃなくって? ふふっ」
共感を求めてきた女子生徒に、マノンは爆発するように眉根を釣り上げ、叫んだ。
「皆さんそんなに悪口いうほど酷いことをされたんですかっ!」
どんな肯定が返ってくるだろう、と、共感されるのを当然のように予測していたご令嬢たちが、固まった。
「別にわたしのことが好きとかじゃないのに気持ち悪いです!」
マノンがちょっとドン引くような目を向けた。その目を向けられた、彼女に一番に話しかけたご令嬢は、屈辱であっさり表情を憤怒のそれに変え、なにか言いかけるも、マノンが遮った。
「なんでそんなに怒ってるんですか! っていうか、ぶっちゃけこの場にいる人よりあの人の方がわたし好きですよ!」
マノンに真っ先に話しかけた令嬢以外の、ヴィアボルトにあれだけ言っていたはずの紳士淑女も、一瞬にして顔色を変えた。制御不能の怒りに。
「制服切り裂かれるより反論食らう方が千倍ためになりますもん! そんなに怒ってくれるのならわたしみたいにあの人に直接言ってくださいよ!」
ボコスカと遠慮なく殴っていくマノンに、冷静に貴族の価値観を教授していたカトリーヌがどれほど理知的であったか、これではっきりした。
「卑怯者ばっかり!」
終止符を打つようにそう叫び、マノンは荷物をまとめると、ぷんすかと彼女は去っていった。
「……はあ? なに? あの女。やはりあの女が悪いですわ。ヴィアボルト様の方が何倍もまともよ」
「ヴィアボルト様を一瞬でも疑ってしまった自分が恥ずかしいですわ。あれは怒らねば分からないわね」
「これだから元平民は話にならないわ。せっかくわたくしが話しかけてあげましたのに」
一瞬凍りついた空気は、マノンへの悪口で溶かされ消えた。
そんな中、アデルは聞こえてくる言葉に鬱屈としながらも、先程のマノンの様子を思い出し、思わず小さく吹き出してしまった。
いつもそうなのだ。こうやって、真っすぐで、きっぱりしていて、さっぱりと前を向いて爆走していく。
自分を守るために同調しない彼女が、やっぱりわたくしは好きなのだわ。
ほんの少しだけ、魚の小骨のように僅かに引っかかっていたものを消化しきることができた気がする。
これ以上敬愛する二人の悪口を言わずに済む選択こそが、正しかった。
逃げなくて、よかったのだ。
アデルは人混みの中、そそくさと室内庭園へ歩みを進め、髪飾りに触れながら、にっこりと微笑むのだった。
室内庭園には、いつも通りクレマンがいた。
こんにちは、とアデルははにかんで、そっとベンチに座った。もちろん、断りを入れて。
のんびりと景色を楽しんでいるクレマンに、アデルはこそっと話しかけた。
「わたくしはやはり、マノン・ブーロさんが好きですわ」
ああでこうで……と、紙袋を膝の上に乗せ、ぎゅっと握りながら、先程の出来事を話す。
クレマンはどこか眩いものを見るようにアデルの話に優しく相槌を打ってくれた。
「……わたくし、あんな風になりたいのです」
「気持ちは分かりますが、多分、他人である以上不可能だと思います」
ぽろりと溢れた言葉に、そう即座に返され、ぱっと口許を押さえ、見開いた目でクレマンを見上げる。
いつもの温容があった。
アデルは一瞬心をかき乱されたが、黙ってクレマンを見つめた。彼はふわりと茶髪を風に揺らし、続ける。
「きっと彼女もアデルさんにはなれません。他人ですから。けれど、少なくともアデルさんは、変われていますよ」
アデルは目を見開いた。
「多分、アデルさんが好む方向に。目が合うようになりましたし」
言われて、そういえばそうだ、と思った。目を合わせることが、怖くなくなった。……クレマンに対して限定だが。
「だから、もちろんそう思うのは分かりますけれど、無理に彼女になろうとしなくてもいいと思いますよ。アデルさんらしさまで削らないでくださいね」
「……どうして、そんなことを?」
聞けば、クレマンは苦笑した。この人はよく、こんな風に眉を下げる。
「急に変わろうとしてしまったら、疲れてしまいますから」
しみじみと言う彼の横顔をじっと見つめ、アデルは笑った。
「大丈夫です。疲れはあるかもしれませんけれど、苦しむよりもずっと楽です」
「そうですか、それはよかったです。……」
クレマンはぼーっと遠くに視線を投げた。
「僕も、変われたらいいのですけれど」
小さく呟かれたそれに、アデルはぴこんと思いつき、クレマン様っ、と前のめりに話しかけた。口許には、どこか得意な微笑。
どうしました、と柔らかに目を細めるクレマンに、アデルは自分の髪飾りを示した。
「では、なにかお気に入りの装飾品を身に着けるのはどうでしょうっ」
キラキラと目を輝かせたのは、ようやく彼の役に立てそうだったから。
「そうしたらわたくし、きっと褒めますわ。わたくしはお似合いだと思います、と」
クレマンはころりと丸くしていた目をぱっと笑みの形に変え、頷いた。ふわりと茶髪が揺れる。
「ありがとうございます。アデルさんに倣って、僕も頑張ります」
お互いにふんわり笑いあったあと、アデルははっと我に返った。
「……あ、それで、えっと」
視線を彷徨わせながら、紙袋を握る。意識しだすと、途端汗が滲んでくる。
きゅっと唇を引き結び、アデルはクレマンに差し出した。無意識のうちに目を閉じていた。
「これは……」
「あの!」
戸惑った声を遮り、アデルは下を向いたまま続ける。
「ク、クレマン様に婚約者様がいらっしゃるかは、存じ上げないのですっ。で、ですからこれは、先日のお礼、お礼でっ。あの、他意はなく……っ」
ああ、困ったように笑うクレマンが目に浮かぶ。今アデルは、クレマンをとても困らせている。
婚約者がいたのなら、異性からのプレゼントなんて邪魔でしかない。
いないのなら、これからもっと仲良くしたいという意味が生まれてしまい、やはり二人の間には、邪魔にしかならない。
「申し訳ございません、あの、お、お邪魔になるようでしたら受け取らなくてもよいので!」
クレマンは随分長い間黙り込んでいた。
「…………えー、っと」
絞り出したらしい言葉は歯切れが悪い。
「あの、…………そう、ですね」
普段ならその様子に珍しいと笑えただろうが、生憎今は緊張でそれどころじゃない。口をしっかり閉じていないと心臓が飛び出てしまいそうだ。
「……あー、まあ、いいかな。とりあえず、まず僕に婚約者はいませんよ」
へ、へえ、い、いないの。
別に他意はないけれども、なんとなく嬉しい。別に、他意はないけれども。
それでとにかく失礼なことはしていない、と安心して、顔を上げた。
ぽかんとした。思いの外照れていたクレマンがいたから。
苦笑して頬を引っ掻きながら、彼は続けた。
「なので、特に問題はないんですけど……。あの、本当にいいんですか? ほとんどの確率でこのことを人に知られることはない、とはいえ万が一があれば……」
クレマンにアデルがアプローチしていることになる、と。
アデルは顔を赤くしながらも、こくこくと頷いた。
「それを踏まえてなお、クレマン様にお礼を言いたいのです」
救われたのだから。
クレマンはきょとんとした。毒気のない、驚きの表情。彼の表情作りは、いつだって柔らかい。
それから彼は、ふっと笑って言った。
「……開けますね」
こくんと頷いた。緊張で喉が乾く。
クレマンは壊れ物を扱うような控えめな手で紙袋を開け、包装をほどいた。一つ一つ、丁寧に手袋で触れる。彼がそれに触れるたび、心臓の辺りが緊張でぞくりと跳ねる。じんわり熱い、頬の感覚が薄い。
「……あ、いい香りですね。芳醇です」
ぱっと彼の顔が嬉しそうに綻んだのを見て、アデルはほっと肩の力を抜いた。
「種類も沢山、……ありがとうございます、嬉しいです」
まずい、頬が緩むと苦笑がちに口許に手を当てたクレマンに、アデルはふっと破顔した。両手で口を隠し、くすくすと笑い声をあげる。
「……ふふふっ。喜んでいただけて幸いです」
「本当に嬉しいですよ」
クレマンは穏和な眼差しをカド―に向け、静かに聞いた。
「……カドーは、消え物と残り物、どちらがいいですか?」
「えっ」
アデルは間抜けな声を出してしまった。
そのまま考えて、おずおずと答える。
「残り物、です。見るたびに思い出せるので」
にへら、と照れ笑いを浮かべると、あーとクレマンがにわかに赤い頬を引っ掻いた。
「僕も、お礼を差し上げたいんです」
「えっ」
お礼を言われることなんてしていない。
それではプレゼントした意味がない。
アデルがなにも言えずにいると、クレマンは苦笑して言った。
「ご迷惑でなければ、僕の自己満足に付き合ってくれませんか?」
本当に、素敵な言葉遣いの御人。
アデルはその優しさに甘え、困り眉ではにかんだ。そわそわと、紺色のスカートの上で指を動かす。
「……では、その、ありがとうございます。ですが、あの、本当にお気になさらないでくださいねっ。わたくしがしたかったことなのですから」
「ええ、ありがとうございます。美味しくいただきますね」
「はい。あの、是非そうしてください」
それと、と口にしかけ、アデルは止まった。
不思議そうにするクレマンに、緩く首を振った。
「なんでもありませんわ」
ご主人ともどうか一緒に、とは言えなかった。




